2012年4月25日水曜日

隆慶一郎『隆慶一郎全集10 捨て童子・松平忠輝 中』(2)


 昨日、会議で市ヶ谷まで出かけ、外堀の葉桜の美しさに目を奪われていた。昨日は何故か強い陽射しが差し、電車は冷房が入れられるほどだったが、夜の8時ごろに春雷が鳴り響き、俄に雨が降り出したりした。急激な気温の上昇が積乱雲を発生させて夏の様相を呈したのだろう。今朝は曇り時々晴れで、今のところ気温は上がっていない。

 このところ疲れが蓄積されているのを感じるような日々が続いているのだが、時節柄だろうと思っている。友人の作詞家が「うちわ」という演歌の新曲を出すらしい。プロモーションビデオの撮影が行われていると聞いている。苦労しているので良かったと思っている。

閑話休題。隆慶一郎『隆慶一郎全集10 捨て童子・松平忠輝 中』(2010年 新潮社)の続きであるが、二代目将軍徳川秀忠に代わって松平忠輝を担ぎ出して天下の覇権を目論んだ大久保長安は、家康と豊臣秀頼の謁見が成功裏に終わったことをあまり喜ばなかったと記されていく。

 「今の長安は、ひたすら家康の死を待ち望んでいる。忠輝は見事に成長した。誰が見ても、秀忠より信頼できる将軍の器である。何よりもキリシタンをはじめ、オランダ、イギリスの商人たちさえ全面的な忠輝支持を表明している。全国七十万のキリシタンの団結もほぼ成った。伊達政宗をはじめとする外様大名たちの結束まであと一息。家康さえ死ねばことは開始できるのである」(194ページ)と語る。

 だが、家康と秀頼の謁見に功を尽くした加藤清正が肥後熊本に帰る途中の船の中で発病し、急死した。突然の発病だったので、清正の死については諸説があるが、本書では、豊臣家を滅ぼしたくて仕方がなかった徳川秀忠の意を受けて柳生宗矩が暗殺者を使ったのではないか、先端が細く尖った錐刀と呼ばれる跡が残らない南蛮渡りの暗殺用武器が使われたのではないかとしている。個人的には、加藤清正はかなりの美食家で、それを利用して船中で毒を盛られたのではないかと思っている。「そこまでして加藤清正を葬り、もって徳川と豊臣の間に生まれかけていた和平の芽を摘み取ろうとする秀忠の心がもっとおそろしかった」(201ページ)と本書は言う。

 作者は、どうも徳川秀忠という人物が嫌いなようで、これまで読んだものでも秀忠のことはあまりよく書かれておらず、本書でも大御所家康と将軍秀忠の間に齟齬があり、秀忠の確執があったとされているが、わたし自身は、加藤清正がもし暗殺されたのであるとすれば、家康はその意向を知っていたと思っている。

 それはともかく、松平忠輝は越後福嶋に向かう。福嶋の高田藩主として忠輝は江戸と福嶋を往還していた。その福嶋で、柳生宗矩と藤堂高虎が放った刺客に襲われるのである。忠輝護衛のために忠輝に信服し藩政に手を貸していた雨宮次郎右衛門は、これも忠輝に絶対的な信を置き、忠輝を影ながら守ってきた傀儡子(くぐつ)の手を借りることにし、傀儡子(くぐつ)の長は、かつて忠輝を思慕し、非業の死を遂げた「雪」の妹で、「飛び鎌」というブーメランのような武器の名手でもあった「竹」を御小姓として側につけると言い出す。

 「竹」は、姉の「雪」が非業の死を遂げたときは、まだ八歳だったが、その頃から忠輝に惹かれ、長い間思慕してきていたので、自分の見に代えても忠輝を守ろうとするのである。実際、松平忠輝はただ一人だけ側室を持ち、その側室が「お竹の方」、つまり「竹」であるが、「竹」については詳細が分からず、この「竹」が傀儡子(くぐつ)の出であったというのは作者の創作だろう。

 物語では、大勢の刺客たちが襲って来たときに、身を挺して忠輝を守り、負傷し、彼女を介抱するときに忠輝が「竹」の意を受けて契ったとされ、女性に執着心がなく、五六八姫と夫婦になっていた忠輝は側室など設ける気もなかったが、「竹」の気持ちを考えて、彼女を正式な側室にしたとなっている。忠輝の当惑が面白く展開されている。「竹」は、忠輝との間に長男の徳松を生んだが、この徳松は、忠輝が改易された後に、十八歳で住居に火をつけて自殺するという悲劇的な死を迎えている。そのくだりは下巻で語られるのかもしれない。松平忠輝は大きな器量の男だから、竹と五六八姫の二人がぶら下がってもびくともしないと、竹と五六八姫はうち解け、竹は五六八姫を守るようになっていく。こういう展開も面白い。

 襲ってきた刺客たちは忠輝と「竹」によってことごとく退けられ、また、家康が出過ぎたまねをした柳生宗矩と藤堂高虎に、柳生の庄を焼き討ちして宗矩も鉄炮で狙うという仕方で手痛い報復をして二人を震え上がらせ、次いで、秀忠夫婦(秀忠と於江)が利発だった次男の国松を跡目にしようとしていたことに対して、厳然と長男の竹千代(三代将軍家光)を後継者と定めて、秀忠の意をくじいたことが述べられている。家光の将軍継承には乳母であった春日局の働きがあったことはよく知られている事実である。

 他方、加藤清正を失った大阪方は不安に襲われる。秀頼の不安は大阪城内の兵士がわずかしかいないことである。戦力的には徳川との圧倒的な差があったのである。本書では、秀頼が唯一頼りにしていた松平忠輝にそれを相談し、家康の六男で大大名でありながらも戦争を嫌い、秀頼を助けたいと思っていた忠輝は、これを雨宮次郎右衛門に相談し、大久保長安に依頼する。大久保長安はこれを大いに喜び、宣教師のソテーロ(ルイス・ソテーロ 15741624年)の手を借りてキリシタン牢人を大阪城に送り込むのである。大阪城内に宣教師を初めとする多数のキリシタン牢人がいたことは事実である。

 だが、その時に徳川幕府のキリシタン禁教令の強化につながるつまらない詐欺事件が駿府で起こってしまう。肥前日野江(島原)の藩主であった有馬晴信は、慶長14年(1609年)に長崎港外でポルトガル船マードレ・デ・デウス号を包囲攻撃したが、これは、前年にマカオ港に寄港した有馬晴信の朱印船の水夫たちが乱暴狼藉を働いて六十人あまりが銃殺された(マカオ事件)への報復であった。この事件で日本人のマカオ寄港は禁止された。

 この報復攻撃は、一応、家康の許可を得ていたから、有馬晴信はこれで家康から恩賞がもらえると勘違いしていた。それにつけこんだのが、かつて長崎奉行の与力で、幕政を取り仕切っていた本多正純の与力となっていた岡本大八という男である。岡本大八は、有馬晴信に家康が恩賞として旧領肥前の三郡を与えるつもりだとそそのかして本多正純に口をきいてもらいたいということで莫大な金品を受け取ったのである。だが、本多正純は決して賄賂など受け取らない清廉潔白な人間で、岡本大八が仕組んだ詐欺だったのである。

 岡本大八は家康の朱印と文書まで偽造し有馬晴信に手渡している。だが、いっこうに領地替えの話がなく、有馬晴信は直接本多正純に会い、こうして岡本大八の詐欺が暴露されたのである。そして、岡本大八は、どうせ死罪になるなら有馬晴信も道連れにしようと、大御所家康に書を送り、有馬晴信の秘密を暴露した。それは、マードレ・デ・デウス号の焼き討ちの時に攻撃が手ぬるいとなじった長崎奉行の長谷川左兵衛を激怒して暗殺しようとしたものだった。長谷川左兵衛は家康の愛妾であった「お夏の方」の実兄で、家康は直ちに有馬晴信を呼び出し、岡本大八と対決させられることになったのである。

 場所は大久保長安の屋敷である。そして、これが長安と反目していた本多正純をいたく傷つけた。岡本大八は処刑され、有馬晴信は甲斐に配流去れ、そこで自殺した。だが駿府の大久保長安と本多正純の反目は、江戸における本多正信(正純の父)と大久保忠隣の対立でもあり、しかも岡本大八と有馬晴信は共にキリシタンで、本多正信は、キリシタン信仰はこういうもので、したがってキリシタンを禁制にすべしと主張したのである。有馬晴信は最後のキリシタン大名であった。そして、本多正信は熱心な一向宗徒(浄土真宗)だった。

 この馬鹿げた詐欺事件で幕閣は一気にキリシタン禁制へと向かう。本多正信は、「天下一のおごり者」と言われて派手な行状を繰り返していた大久保長安に南蛮人の影がつきまとっていることを突きとめ、長安排斥のためにキリシタン排斥を訴えたのである。

 本多正信は、岡本大八の悪事をキリシタンの師であるソテーロが既に知っていたと家康に語り、家康はソテーロを呼び出して事情を聞く。ソテーロは、岡本大八から告解されてそれを知っていたが、言えないと答える。家康は、岡本大八が自分を殺すと言っても言えないのか、と重ねて問い、ソテーロは、それを止めるけれども言えないと言ってしまう。神に仕える人間としてそれは当然のことであったが、そのことを理解できない家康の危惧は一気に高まるのである。

南蛮貿易を熱望し、海を越えてメキシコとの通商を開こうとしていた家康は、家康の外交顧問であったイギリス人のウイリアム・アダムス(三浦按針)の手を借りて、百トンを超える大船を建築中だった。しかし、この事件をきっかけとして家康は幕府の直轄地でのキリシタン禁教令を慶長17年(1612年)に発令するのである。これが全国に広げられたのは翌年の慶長18年(1613年)である。

 本書ではキリシタン禁制を危惧したソテーロが、この後、大久保長安を訪ね、大久保長安はキリシタンを大阪と福嶋に集め、将軍秀忠を良く思っていない外様大名たちを扇動し、松平忠輝を盟主として一気に反乱を起こすと言う。だが、「いくさ人」である家康を相手には難しく、家康の死を早めたいと思うようになっていったと展開される。ただ、たとえそうなっても、自由闊達で戦を嫌う松平忠輝が承諾するかどうかが問題で、忠輝なしには伊達をはじめとする諸大名たちも動かないと踏んでいた。

 大久保長安は忠輝の説得をソテーロに依頼するが、ソテーロは戦に手を貸すことはできないと断り、開けっぴろげで聡明な好青年であると思っていた忠輝がこのままだと利用されるだけだから、秘かに、海外に逃がすことを考えていくのである。

 しかし、忠輝本人は、こうした状勢とは全く無関係に、相変わらず、浅草のフランシスコ会の診療所で病人の診療にあたり、まさに慈愛をもって人々に接していた。忠輝自身はキリシタンではない。忠輝は美しく豊かな自然に溢れた日本の風土が、キリシタンが説く砂漠の神とは異なっていることを知っていた。キリシタンの神は厳しすぎる、それが忠輝の思いだったと作者は言う。もちろん、これは作者の想像で、それは当時の殉教を栄光としたロ-マ・カトリックの宣教師たちの神理解に過ぎなかったのだが、キリシタンに理解のある者の姿としてはありうることかもしれない。だが、キリシタン宣教師たちが行っていた医療や貧しい者への福祉には大いに感銘を受け、大大名でありながら平然とこれを行っていたと語るのである。

 だが、そこに幕府直轄地でのキリシタン禁教令が出され、彼が病人の治療に専念していた浅草の診療所が打ち壊されることになった。事前にそのことを知らされた忠輝は、医師のブルギューリュスと共に病人たちを移動させて、打ち壊される診療所を眺めていく。私の青春のすべてが此処にあった、様々な人と出会い、神の御業の確かさを江戸に来てはじめて知りましたと、涙を浮かべてその光景を眺めているブルギューリュスを見ながら、忠輝が次のように思ったと作者は記す。

 「神といい仏という、信ずるものは異なっても、高所に達した者の眼は同じものを見るのではないか。忠輝にはそう思えて仕方がない。そして、その高みに登った人を見るたびに、人の世はなんと素晴らしいことか、と思うのだった」(273ページ)

 神学的なことはともかくとして、こういうふうに人間を見ることができる者が素晴らしい人間であるのは、言うまでもないことである。作者は、松平忠輝をそういう美しい人間として描きだしていくのである。

 同じような光景が、診療所を失って河原で病人たちの治療に当たっている忠輝とブルギューリュスの姿として、次のように描かれている。

 「この二人の姿を、家康や秀忠やあらゆる幕閣の人々に見せてやりたかった。キリシタンの最も根源的な、しかも健やかな形が此処にはある。キリシタンの修道士と、彼に医学を学んだ非キリシタンの大名が、青空の下で、大半が非キリシタンの貧しい病人を診ている。修道士は異形の南蛮人だが、誰一人そんなことを気にしている者はいない。病人の大半がぼろを着、薄汚れた連中だが、それも誰一人気にもしない。彼らは完全に融け合って、和気藹々と語り合っている。幕府はこのどこがいけないというのか。どこが邪宗門だというのか。この素晴らしい二人の男たちをどうして捕え、処刑しなければならないのか。自分たちはこの二人に匹敵する何をしているのか」(292ページ)

 作者は松平忠輝という人間をそういう人間として描くのである。そして、この光景を見たソテーロは、松平忠輝を国外に逃がすために働き始めると展開する。ソテーロは忠輝の義父である伊達政宗に会い、忠輝をイスパニア(スペイン)に逃がしたいと長安の陰謀を伝えながら相談する。エスパニア(メキシコ)から来ていた大使のビスカルノ(セバスティアン・ビスカイノ)がもうすぐ帰国するので、その船でソテーロが先にイスパニアに行き、忠輝受け入れの準備をするという計画を話すのである。

 伊達政宗は忠輝亡命の話を正直に家康に伝え、家康の許可を得る。その理由は、家康が忠輝の才を惜しみ、また、忠輝の持っている知識は海外でこそ役に立つということを了解したからだという。伊達政宗は家臣の中で肝が据わり剛胆であった支倉常長(六右衛門)をソテーロと共にイスパニアに送り、忠輝の亡命の準備をさせることにした、と展開され、この支倉常長の剛胆さと剣の腕の凄さが物語として展開されていく。こうして忠輝の海外への亡命計画が進められていくのである。

 他方、柳生宗矩の密偵として大久保長安のもとにいた「ひょっとこ斎」と名乗る忍びは、長安の決起を知り、松平忠輝がどうするかを探るために雨宮次郎右衛門のところを尋ねてくる。雨宮次郎右衛門は「ひょっとこ斎」の狙いを知りつつ、彼を連れて松平忠輝と会う。松平忠輝は大久保長安の決起の話を聞いても、長安はキリシタンを思い違いしている、キリシタンは禁令が出ても、闘うよりもむしろ栄光としての殉教を選ぶだろうと語る。そして、「ひょっとこ斎」の思惑も見事に外していくのである。

 松平忠輝はすぐに大久保長安と会い、彼の謀反計画を止めようとする。キリシタンは決起しないし、殉教の死を選ぶと説得するのである。長安は、その忠輝の指摘を聞いて、自分の思い違いだったことを悟るが、もはや後戻りできないところに来ていることを自覚していた。雨宮次郎右衛門は、自分の主ではあるがこのままでは信服する忠輝の立場が危ないと危惧して、才兵衛を長安刺殺に送り出す。

 才兵衛は長安のもとにいた「ひょっとこ斎」と対決して、これを破り、長安の寝所に忍び込む。だが、その時に、長安は脳卒中で倒れていたのである。長安の死後ではあるが、長安は家康によって極刑にさせられていくが、この大久保長安事件といわれる事柄と松平忠輝の改易が関係していくのである。そのくだりは、さらに下巻で展開されて行くであろうし、永預かりの身とされても変わることなく飄々と生きた松平忠輝の姿がそこで描かれて行くであろう。下巻については、次に記すことにする。

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