曇り、ほんの時々晴れで、気温は低い。今日は何故か朝から疲れを覚え、脳細胞は半睡状態。まあ、こんな日もあるだろう。
隆慶一郎『隆慶一郎全集9 捨て童子・松平忠輝 上』(2010年 新潮社)を大変面白く読む。これは、全集本で上・中・下の三巻に渡って収められている長編で、徳川家康の六男でありながら生涯自由人として生きた松平忠輝(1592-1683年)を全く別の角度から描き出した作品である。
松平忠輝は、家康と側室の茶阿の局との間に生まれた子であるが、生母の茶阿の局の身分が低かったこと(徳川家康の側室は身分が低い者が多い)と生まれたときの面容が人並みはずれて醜かったことから、家康が一目見て「捨てよ」と命じ、わずか3万5千石の小大名であった長沼城主の皆川広照に預けられて養育されて育った人物だった。
後に新井白石が著した諸大名家の由来や事績を収録した『藩翰譜』(はんかんふ 1702年)には、「世に伝ふるは介殿(忠輝)生れ給ひし時、徳川殿(家康)御覧じけるに色きわめて黒く、まじなりさかさまに裂けて恐ろしげなれば憎ませ給ひて捨てよと仰せあり」、と記されている。だが、これはあまりのことだろう。本書では、これを受けて「鬼っ子」という言葉が使われている。
しかし、松平忠輝が面容怪異で、幼少から「捨てられる側の人間」であったことは事実で、その点では家康の子どもの中でも特別な立場にいたし、忠輝が生涯もっていた弱い者や貧しい者、力のない者の側に立つ姿勢はこの幼少期の体験と無縁ではないかもしれない。表題の「捨て童子」はそこに由来する言葉であるが、彼がただの「捨て子」ではなかったことを「童子」という言葉で表した、と作者は述べている。
彼を預かった皆川広照は、いわば自分の保身のために「厄介者」を引き受けただけで、養育ということからはほど遠いところで忠輝を預かっていたので、礼儀作法はもちろん社会的な適合などを教えることもなく、そのため忠輝は粗暴で野性的だったとも言われるが、武芸の上達は人並みはずれていたし、成長するにつれて、広く深い教養を身につけ、その習得も天才的な能力があったと言われている。晩年の彼は、俳句や能にも親しみ、庶民に慕われる人物になっているのである。
やがて、1599年(慶長4年)、7歳の時に家康の七男で同母弟の松千代が与えられていた長沢松平家の家督を相続し(忠輝は弟以下に扱われていたのであり、家康がいかに彼を嫌っていたかがこれでもわかる)、武蔵国深谷に1万石を与えられる。そして、徳川家康が天下を取るための布石として東北の雄であった伊達家との姻戚関係を結ぶために、伊達政宗の娘五六八姫(いろは姫)と婚約させられた。
家康が忠輝と対面したのは、忠輝7歳の時で、そのとき家康は「恐ろしき面塊かな。三郎の稚顔に似たり」と言ったとことが伝えられているが、三郎とは家康が最も期待をかけていた家康の長男であった徳川(松平)信康のことで、織田信長の命によって家康はこの武勇にたけていた長男を切腹させなければならず、家康は生涯そのことを悔いたと言われているほどで、忠輝の中にその信康の面影を見ていたのではないかと思われる。もっとも、家康は自分を凌駕するような人物は排除していったので、長男の信康にも六男の忠輝にもその危惧は感じていただろう。
家康の他の子どもたちは大藩の継承者となっていったが、忠輝は冷遇されていた。しかし、やがて1602年に下総の佐倉5万石に加増され、翌年すぐに信濃川中島12万石を与えられた。それでも他の子どもたちに比べれば冷遇に代わりはなかったのである。しかし、忠輝の能力は人並みはずれたところがあり、自分が冷遇されていることなど歯牙にもかけないほどの自由さがあった。家康は、この忠輝の力を高く買っていたのか、1605年(慶長10年)に徳川秀忠が二代目将軍となったとき、大阪の豊臣家を懐柔するために家康の命令で将軍名代として大阪城の豊臣秀頼に会い、そのとき豊臣秀頼は忠輝の人柄に感銘を受けて大喜びしたと言われている。忠輝には人を惹きつけて止まないところがあったのである。そして、翌年の慶長11年に婚約していた伊達政宗の娘である五六八姫と正式に結婚した。
上巻は、ここまでの忠輝の姿を描いたもので、忠輝の異能ぶりがいかんなく描き出され、しかも、何ものにも捕らわれない自由闊達な人間として、武芸も極め、「優れた能力を持った自由な民」である傀儡子(くぐつ)とも交わり、彼らから絶対的な信頼を勝ち取っていく姿が描かれている。
この忠輝を表す言葉として、作者は次のように記している。
「『その時はその時のことさ』
忠輝はそう思っている。何事も先取りして考えたり悩んだりするのが大嫌いだった。明日のことなど人間風情にわかるわけがない。また分からないからこそ、生きるのが楽しいのではないか。現実にぶつかってみて、知力と体力の限りを尽くして対応すればいい。それで駄目なら死ねばいい。忠輝にとって人生は極めて簡単で楽しさに溢れたものだった。予測や不安でその楽しさを消してしまう人間の気持ちが分からない」(249ページ)。
そういう天性の楽天性を備えた好人物として描き出すのである。
本書の初めの方に、
「そして忠輝は弱冠二十五歳にして流罪となり、以後なんと六十七年間、秀忠、家光、家綱、綱吉、四代の将軍にわたる永の年月を配所で過ごしたのである。
『玉輿記』という書に、忠輝の人物について異様な記述がある。
『此人素生、行跡実に根強く、騎射人に勝れ、両腕自然に三鱗あり、水練の妙、神に通ず。故に淵川に入って蛇竜、山谷に入って鬼魅(ばけもの)を求め、剣術絶倫、化現(神仏が形を変えて現れること)の人也』
これほどの人物を何故流罪に、それも永代流罪に処さねばならなかったのか。
或は、これほどの人物だからこそ流罪に処するしか方法がなかった、徳川家の事情とはなんであったか、我々がこれから追おうとしている問題はそこにある」(13ページ)
ということが記されていて、本書はこの『玉興記』の描いた人物像に則って、忠輝の少年期が記されていくのである。
『玉輿記』は作者不詳のもので、主に徳川家の婦人たちを中心に描き、歴史的な信憑性はあまりないのだが、このくだりは「『玉輿記』の三」に記されてもので、『柳営婦女伝双』(国書刊行会編)に収められている。
松平忠輝が流罪となる過程には、徳川家康のもとで莫大な金銀を生み出し、江戸初期の権勢をほしいままにし、やがて明確な理由も不明なままで憎まれ、死後もその遺体を掘り起こして罰を与えられるという生涯を送った大久保長安の事件とも関連しているし、また、忠輝はキリシタンとも深い関係を持っていたと言われており、そのあたりが中巻で記されていく。大久保長安がなぜ死後に極刑を受けたのかということについての作者の解釈は下巻で記されていく。
隆慶一郎が松平忠輝を異能者として描くのは(実際、「化現」といわれるほどだからそうだったかもしれないが)、異能者が、その能力が優れていればいるほど、一般には世間から受け入れられないからである。漂白の民であった傀儡子(くぐつ)を「優れた能力を持つ自由の民」とするのもそうだろう。しかし、受け入れられるとか受け入れられないとかなどのことを些末なこととして生き方を貫いていく人間として松平忠輝に焦点を当てる姿は、作者の思想そのもので、しかもそれをエンターティメントとして描き出すところに、作者の力量の大きさとずば抜けた能力があると思っている。
とにもかくにも抜群の面白さがこの作品にもあって、思わず読み進めていくものがある。中巻の展開は次回にする。
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