2012年4月18日水曜日

山本周五郎『彦左衛門外記』


 久しぶりに白い雲と晴れた蒼空を見る思いがする。今年の春はいつまでも寒いが、今日のような日があるとどことなく嬉しくなる。昨日、熊本からツツジが咲き始めたと便りをくださり、もうそんな季節なのだと改めて思ったりした。

 このところ相変わらず仕事が立て込んで気ぜわしい日々なのだが、山本周五郎『彦左衛門外記』(1981年 新潮文庫)を読んでみた。これは、1959年6月から1960年8月まで『労働文化』という雑誌に『御意見番に候』という題で連載され、1960年に『彦左衛門外記』と改題されて講談社から出されたもので、山本周五郎としては異色のユーモア時代小説で、文体もおどけ、作中に作者が登場するなどして、おそらく「反骨」のおかしさを実験的に書いた作品だろうと思う。ユーモアというより滑稽本の類と言った方がよいかもしれない。

 題材は、大久保彦左衛門忠教(ただたか 15601639年)が天下の御意見番として祭り上げられるということを主題にしたものだが、大久保彦左衛門が記して徳川幕府初期の歴史資料ともなっている「三河物語」や、後に鶴屋南北の弟子の河竹黙阿弥(18161983年)が歌舞伎芝居として書いた「大久保彦左衛門と一心太助の物語」などを取り入れながら、虚実をない交ぜて、武勇を誇ったり英雄豪傑を誇ったりしていくことのおかしさを滑稽本として描いたものである。

 大久保彦左衛門は、実際、武骨な人だったと言われ、三河以来からの徳川家康の家臣であり、兄の大久保忠世と甥の忠隣(ただちか)が小田原城主に任じられると3000石を与えられたという。次兄の大久保忠佐は沼津城主になっている。大久保忠隣は小田原城主で、初期の江戸幕府の重臣である。しかし、彼は、徳川家康が最も信頼していたと言われる本多正信、正純親子と対立し、家康の後継者として徳川秀忠を推挙し、やがて二代目将軍徳川秀忠の側近となっていたが、対立の激化と共に大久保長安事件(大久保長安は忠隣の推挙を受けていた)で連座し、加えて豊臣秀頼に内通しているとの誣告を受けて、大御所として権力をふるっていた徳川家康の不興を買って改易させられた。

 この出来事で、大久保彦左衛門も一時改易されたが、家康直臣の旗本として召し出され、家康の死後も秀忠に仕え、三代将軍徳川家光が、家康の苦労話や戦国時代の話を聞くために御伽衆に加え、晩年、その話をまとめて『三河物語』を記したといわれている。功績に対する加増の話はすべて断り、沼津藩主であった次兄の大久保忠佐の嫡男である忠兼が早世した時も、彦左衛門忠教を養子として藩主を継がせようとしたが、「自分の勲功ではない」と固持している。ただ、それによって大久保忠佐の沼津藩は改易された。

 こうしたことから「反骨の武人」として祭り上げられ、たとえば、登城に際して旗本以下の輿が禁止されたのに立腹し、大盥に乗って登城したというエピソードや徳川家光にことあるごとに諫言を行ったなどの逸話が講談の中などで作り上げられていったのである。

 山本周五郎『彦左衛門外記』は、この大久保彦左衛門の血筋で貧乏旗本に養子にいった五橋数馬を主人公にして、彼が大叔父に当たる大久保彦左衛門の戦記をでっちあげ、「天下の御意見番である」との家康の御墨付まで偽造し、それによって貧乏旗本から脱却して何とか世に出ようと企む顛末を描いたのである。基本は英雄のでっちあげ作戦で、それだけでアイロニー(皮肉)に富んだ作品に仕上げているのである。

 もちろん、この五橋数馬は作者の創作上の人物で、腕を磨いて賭け試合をしていたが、その途中で美貌の娘に目を奪われ、その娘が小大名の姫であったことから、大名屋敷の姫のところに忍び込み、相愛の仲になってしまうのである。

 他方、自分が世に出るためにでっち上げた大久保彦左衛門は、そのでっち上げられたものを自らも信じ込んで行動を始め、旗本奴で知られる水野十郎左衛門などの青年旗本たちを扇動し、どたばた劇が進行していく。そして、彼と相愛になった大名家でのお家騒動に絡み、これを解決して、五橋数馬は見事婿養子となっていくというもので、この大名家のお家騒動も深刻なものではなく、馬鹿げたぬるいいもので、お家騒動を企むものも愚かさ極まりない発想をする者として描かれている。

 これは、言うまでもなく、滑稽本である。その滑稽さはとりわけて面白いというわけではないが、武勇を誇ったり武勲となっていたりすることや英雄譚などに対する強烈な風刺である。作品の出来はともかくとして、「人間ちょぼちょぼ」という姿勢が貫かれていて、そういう視点で歴史と人間を見ることは大事だとわたしも思うので、後半になるに従って面白く読めた一冊だった。

 世の中で華々しく活躍することやそういう人に一切関心はなく、世間の評判というものもあまり意味がないと思っているわたしにとっては、「こういう茶化し方も一理あるなあ」と思いながら読んでいて、S.キルケゴールほど深刻ではないが、「人間はアイロニー」と思ったりもした。

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