2012年4月13日金曜日

諸田玲子『お順 勝海舟の妹と五人の男』(2)

 花曇りの日で、こういう日は何もせずにただぼんやりと一日を過ごしたいのだが、そうもいかない日常がある。北朝鮮のミサイル打ち上げ(衛星打ち上げだそうだが)失敗が報じられたり、スマトラ沖の地震が報じられたり、中身のないまま増収だけが先行している消費税増税案をめぐる政治のごたごたがあったり、何とも騒がしい状態で、「思想なき世界の混乱」が今日も続いている。

 こういうことは人間の精神に大きな影響を与えてくるが、世相に右往左往しないで坦々と生き続け、花鳥風月を愛で、あるがままに今日も過ごす。「分析」と称するいらいらした精神は御免被りたいので、「確たる思想に基づいて何も考えない」という日々、これがいいと思ったりする。のんびりと川下りをするような日々を今日も過ごす。

 さて、諸田玲子『お順 勝海舟の妹と五人の男』(2010年 毎日新聞社)の続きであるが、佐久間象山が、9年もの間、信濃の松代で蟄居させられたのは、やはり象山にとって大きな痛手であったような気がする。この9年の間に社会の状況はすっかり変わり、象山が考えていたような外国の知識・技術を取り入れて外国と対等になっていくということとは全く反対の攘夷思想が席捲していったからである。特に象山のように世間的な名誉欲の強い人間にとって、世相が変わる流れにいないということは致命的だっただろう。

 だからといって松代で象山がぼんやりしていたというのではない。この間に象山は望遠鏡をつくって月を見ることに成功したり(おそらく日本人で最初に月を望遠鏡で見たのではないかと思う)、天然痘の牛種痘を試みたり、様々な医学を取り入れようとしたりしている。本書では「お順」がコレラにかかったときに寝ずの看病をしてなんとかこれを克服させている姿が描かれている。そして、そのことによって「お順」と象山の仲がしっくりいくようになったという具合に記されていく。

 やがて、1864年(元治元年)に、将軍後見職から朝廷との間を取りもつ禁裏御守衛総督に就任した一橋慶喜(後の15代将軍徳川慶喜)に公武合体論を推進するために京都に招かれ、象山は有頂天になるが、状況は全く異なって攘夷論が中心となっており、象山は「西洋かぶれ」という印象しかもたれなかった。そして、象山の傲岸な性格が禍して、供も連れずに三条木屋町を行ったときに、肥後熊本藩士であった河上彦斎らによって暗殺された。享年54歳である。

 「お順」は、象山を暗殺したのが長州の人間だと思って、ながく長州を毛嫌いし、何とかしてその仇を討ちたいと思っていたし、象山の子である格三郎も、象山の仇を討つために新撰組に加入している。だが、格三郎は、やがて、新撰組を脱退していくし、象山を暗殺したのは肥後藩士だった。

 この象山暗殺の前、彼が京都に招かれていく前に、「お順」は母親の「お信」の病状悪化のために江戸に帰り、兄の勝海舟のもとに身を寄せていた。そこで、激動する社会の中で奔走する兄の姿を見ていくし、象山が暗殺されたことも知る。これ以後、「お順」が松代に帰ることはなかった。

 やがて、大政奉還が行われ、坂本龍馬の暗殺事件が起こり、鳥羽伏見の闘い、江戸城開城というように急速な時代と社会の変化にもまれていく。特に、江戸城開城に関しては兄の勝海舟の大きな働きがあり、「お順」は,その姿をつぶさに見ていくのである。そして、上野戦争の際に幕臣であった勝家に官軍の者たちが襲ってきたときに、一人でこれに立ちふさがって家族を守ったという武勇も果たしたりしている。

 「お順」は,どうしても象山の仇を討ちたいと願い、山岡鉄舟の門下で会津藩士の剣客村上政忠(村上俊五郎)の力を借りようとし、彼に嫁ぐ。このあたりのくだりは諸田玲子らしい展開になっていて、「お順」が村上俊五郎にかつての想い人の島田虎之介の面影を見たからだとしているが、村上俊五郎は、ただの女たらしのいい加減な男で、象山の仇を討つためには何一つ動かなかった。そのことがわかって「お順」は彼と離縁(正式な結婚ではなかったが)し、彼が手をつけた女との間に生まれた子を引き取って育てている。だが、これが後々も落ちぶれた村上俊五郎に金をせびられていく要因になってしまうのである。

 だが、その後は、勝家の中で平穏に暮らし、養女とした貞子を結婚させ、明治40年(1907年)、73歳で生涯を終わっている。本書は、その晩年に至るまでの「お順」の姿を、彼女の目を通して明治維新の激動を見るということも含めて丁寧に描いたもので、勝海舟の姿もまことに良く描けていると思う。

 江戸屈指の蘭方医で学者でもあった高野長英が「蛮社の獄」(1839年-天保10年)で捕らえられ、五年の入牢の後に脱獄して勝麟太郎のところにやってきた時に、勝麟太郎が彼について「お順」に語った言葉として、「先生はとびきり優れた蘭医だった。だが、ひとつだけ、足りないものがあった」と語り、「教えてやる。よう聞いておけ」がまんだ-と言うのである。そして、「上手くいかないことを、上手くいくようにするには、忍耐しかない。だれになんと言われようと、ただ、じっとがまんするのサ」と語るのである(上巻 154ページ)。

 「お順」は,その麟太郎を見て、「麟太郎は明朗闊達で、やもすればお調子者のホラ吹きに見られるが、実は努力と忍耐の人だった。物事を理路整然と組み立て、一歩一歩着実に前進する。情にほだされて道を踏みはずすことは決してない」(上巻 156ページ)と思うくだりが記されているが、これは作者が勝海舟という人間を理解している言葉であろう。

 勝海舟という人は、やがて時代の寵児となっていくが、実は、その通りに努力と忍耐の人で、それゆえにまた、本物と偽物を見分ける力をきちんともっていた人であったのである。立場や考え方が異なったとしても、評価すべきものを評価し、評価べきでないものは決して評価しなかった。それがはっきりしていた人だったとわたしは思う。「忍耐が人をつくる」まことにその通りである。
               
 また、佐久間象山の甥が、尊敬していた象山が蟄居を命じられて松代で閉塞していることで自分の将来を悲観し、絶望的になって放蕩を始めたことに対して、「お順」が父親の勝小吉の放蕩ぶりについて思い返す言葉が次のように記されている。

 「小吉の放蕩は安世(象山の甥)の比ではなかったが、家族は平然としていた。それが当たり前と思っていたのだ。妻の信は、順の知るところでは、一度も小吉をなじったことがない。愚痴も言わず、悲観もしなかった。麟太郎も同じく、剣術に励み、蘭学に熱中し、黙々と我が道を歩きながら、父への敬愛を失うことはなかった。むろん順も、どんなに破天荒だろうが、父が大好きだった。無茶をしながらも小吉が愛すべき善人であり得たのは、心のどこかで、家族の無条件の愛情に応えようとしていたからだろう」(下巻24ページ)。

 こういう人間観や家族観、それが勝家の姿だったし、勝海舟(麟太郎)という人物の大きさを養ったことは間違いない。立派だったのは、小吉の妻の「お信」なのである。本書がこうした視点で勝家の人々や、特に「お信」を描いているところが作者の真骨頂だろうと思っている。

 また、佐久間象山の自尊心の強い自惚れについても、「お順」がコレラを患い、象山がつきっきりで看病した姿に触れて、「尊大な自惚れ屋の素顔は、情にもろく、無私無欲で、家族や弟子、いや、命あるものすべてに惜しむことなく愛を注ぐ、類いまれな男だったのである」(下巻52ページ)と記されている。佐久間象山という人物の人間像を慈しむ作者の視点がここに込められている。象山は、確かに物質的には無私無欲の人であった。

 本書はこうした観点で、「お順」やその周囲の人物たちがとらえ直され、描き出されて、その意味でも優れた作品と言える。読みながら、作者の思想、あるいは人間観が徐々に確固たるものになりつつあるのを感じていた。明治政府は西郷隆盛や勝海舟といった懐の大きな人間をやがては目の前の実利を優先させて排除していったので、そのあたりも含めて勝海舟その人について、もう少し記されても良いかなとは思うが、それは望みすぎだろう。読み応えのあるいい作品だと思う。

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