2012年4月11日水曜日

諸田玲子『お順 勝海舟の妹と五人の男』(1)


 「花散らし」の雨が降り、変わりやすい春の天気の中で、桜の花びらが散っていく。桜は散るときも凛として散る。凛としているが柔らかい。「願わくは花の下にて」と謳った西行ではないが、ふとそんな思いがする。西行の「あくがるる心はさてもやまざくら 散りなんのちや身にかへるべき」と思ったりするのである。

 それはともかく、勝海舟(18231899年)の妹で佐久間象山(18111864年)の妻となった「お順(18361907年」の生涯を描いた諸田玲子『お順 勝海舟の妹と五人の男』(2010年 毎日新聞社)をお面白く読んだ。

 いうまでもなく登場人物のすべてが幕末の歴史を彩った人々であり、それぞれが個性豊かな人物たちであったのだから、この作品は、単に「お順」という一人の女性の姿だけではなく、それぞれの人物たちと幕末の歴史を一人の女性の目を通して描き出そうとする意欲作ともなっている。

 勝海舟とお順の父親は、無役の小普請で貧乏旗本であった勝小吉という破天荒な人物で、この小吉と勝海舟(勝麟太郎)の姿を描いた名作である子母澤寛の『親子鷹』を、以前、感動して読んだことがあるが、ここでは、娘の「お順」の目を通してそれが描かれている。勝小吉は破天荒であったが、情に厚くまっすぐな人で、何よりも息子の麟太郎(勝海舟)を信じていた人であった。「お順」は、この父親を深く尊敬していたし、父親譲りの物怖じしない大胆な気質を備えていた人であった。

 本書は、その「お順」が五歳の時に、父親が売りさばいてしまった預かり物の刀のことで怒った武士が玄関にやってきたときに、その男の脛に噛みついて撃退したというエピソードから始まる。そして、最初の恋の相手としての島田虎之介との出会が織りなされていく。

 勝小吉は男谷家の三年で勝家に婿養子に入った人であったが、甥に幕末の「剣聖」といわれた男谷信友(男谷精一郎)がおり、勝海舟はこの男谷精一郎から剣を学び、後に男谷精一郎の高弟であった島田虎之介から直心影流を学んでいる。また、島田虎之介から剣だけではなく禅の学びも勧められ、島田虎之介をいたく尊敬していた。

 島田虎之介(18141852年)は、幕末の三剣士の一人といわれるほどの人物で、儒教や禅も好み、「其れ剣は心なり。心正しからざれば、剣又正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ」という言葉を残すほどで、この言葉は本書でも取り入れられている。彼は、豊前中津藩士の子として生まれ、九州一円を武者修行した後、江戸を目指すが、下関で造り酒屋の家に寄食するうちにその娘と相愛になって娘「菊」をもうけた。そして、江戸に出て男谷信友(精一郎)の内弟子となったのである。天与の才があり、見る間に頭角を現し、師範代となり、東北武者修行の後に浅草新堀に道場を開いた。

 勝海舟は、従兄弟である男谷信友(精一郎)の推挙もあってこの島田虎之介に弟子入りしたのである。勝家と男谷家の関係、また、兄の麟太郎(勝海舟)が弟子入りしたこともあって、当然、妹である「お順」も島田虎之介をよく知り、その人柄にも接していた。島田虎之介は39歳の若さで病没したが、「お順」と島田虎之介がどのような関わりを持っていたかの詳細はよくわからない。

 しかし、本書では「お順」が島田虎之介に惚れ、自分の気持ちにまっすぐに進む「お順」の気質からして、島田虎之介と婚儀をするところまでいったが、島田虎之介の病没でその恋が実らなかったとして、その顛末が描かれていく。「お順」が佐久間象山という自意識の強い変わり者の後妻となった理由を、その実らなかった恋の反動だと描いているのである。こうした視点は女性ならではの展開かもしれないとも思う。

 佐久間象山は、信濃松代藩士の長男として生まれ、長身大柄の男子で、20歳の時に藩主の真田幸貫の世子であった真田幸良の近習(教育係)として抜擢されるほどの秀才であったが、癇が強く傲岸で、自説を決して曲げない不遜なところがあり、周囲からはあまりよく思われない人物であった。しかし、天保4年(1833年)に江戸に出てきて(松代藩士として)、儒学、朱子学、詩学をさらに学び、「二傑」と称されるまでになり、天保10年(1839年)に私塾である「象山書院」を開いた。

 そして、天保13年(1842年)に松代藩主真田幸貫が老中兼任の海防掛に任じられたことから、洋学研究の担当者に抜擢され、象山は、近代的な沿岸防備を称え、西洋砲術を普及させていた江川英龍(江川太郎左衞門 18011855年)のもとで兵学、砲術などを学ぶ。ちなみに、この江川英龍は、領民から「世直し江川大明神」といわれるほど慕われた温厚な人物で、日本で初めてパンを焼いたり、「気をつけ、右向け右とか廻れ右」といった今でもよく使われる号令のかけ方を考案したりした人で、温厚で思慮深い人であった。鳥居耀蔵がこの江川英龍を憎々しく思っていたことはよく知られている。傲岸で不遜な佐久間象山はこの江川英龍からはあまりよく思われていなかったが、高島秋帆の砲術などの技術も取り入れ、大砲の鋳造などにも成功し、江戸市中で名を高めたのである。

 やがて、西洋の学問そのものに大きな関心を寄せ、書物から学んだことはすべて公開し、教育にも熱心となり、当時の洋学の第一人者となったのである。佐久間象山という人は自信過剰なだけに私欲というものはなかった人だったのである。彼の門下生となった人物名を列挙するだけでも、吉田松陰、小林虎三郎、勝海舟、河井継之助、橋本左内、加藤弘之、坂本龍馬などの幕末を彩った蒼々たる人物がいるのである。

 「お順」が、この象山のもとに嫁いだとき、象山には「お菊」と「お蝶」という二人の妾がいて、「お菊」との間には格三郎(後に三浦啓之助)という子がいたが、「お菊」は幕府御典医の後妻となって出ていた。象山は自分の才能に自惚れていて、自らを「国家の財産」と言い、自分の血を残すことが社会のためになると信じて、弟子の坂本龍馬に「おれの子をたくさん産めるような大きな尻の女を紹介して欲しい」などと言っていたらしい。

 こんな象山のもとに嫁にやることに父親の勝小吉も兄の勝海舟も反対したが、「お順」は、普通の女にはできないこととして、敢えて、象山との結婚生活に入るのである。「お順」は切れ長の目をもつ美貌で、わざわざ象山のような男の嫁にならなくても良かったのだが、象山42歳、「お順」17歳の25歳も歳の離れた結婚であった。この辺りの「お順」の心を本書は丁寧に綴っている。

 だが、結婚して一年余の時、黒船騒動が起こり(1853年)、1854年にペリーが再来航したときに、門下生であった吉田松陰が密航を企てて失敗し、師である佐久間象山が吉田松陰の密航を幇助したということで捕らえられ、伝馬町の牢に投獄される出来事が起こる。そして、半年後に出獄をゆるされるが、その後9年間、1862年(文久2年)まで、松代で蟄居を命じられ、「お順」は、姑、妾の「お蝶」と格三郎と共に松代へ移り、そこで暮らすのである。

 この時代は社会が激動していた時代で、夫である佐久間象山の人生も変転していくのだから、それをたどるだけでも相当な分量となるし、父親の勝小吉、兄の勝海舟、そして象山の門下生であった吉田松陰や坂本龍馬など、それぞれがずば抜けて個性豊かな人物たちなのであるから、それを描き出すだけでも相当なものである。しかし、この辺りの顛末は「お順」というひとりの女性の目を通しての姿として実によく描けていると改めて感嘆した。続きや本書の優れた観点などについては、次回に書くことにする。

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