2013年4月12日金曜日

宇江佐真理『今日を刻む時計 髪結い伊三次捕物余話』(3)


 なかなか暖かくならない日々が続いているが、そのせいか少し体調を壊しがちになっている。まあ、それでも向こう2週間分の仕事を今日のうちに片づけておこうとは思っている。

 さて、『今日を刻む時計 髪結い伊三次捕物余話』(2010年 文藝春秋社)の第四話「春に候」は、龍之進の揺れる心を中心に物語が展開される。

 龍之進が通った手習所の師匠の息子である笠戸松太郎は、龍之進と同じ歳の友人だった。松太郎は頭の良い男で、やがて湯島学問所に入り、学問吟味も首席で合格し、ある大名家のお抱え儒者として、藩主や藩士に講義をする毎日を過ごしていたが、労咳(結核)を患い、実家に戻ってきていた。その藩の用人の娘を妻に迎える予定だったが、回復の見込みはないという。

 龍之進は松太郎を見舞いに行く。松太郎は、自分と婚約した娘が、いつも仏頂面をしているために縁談がなかった娘で、自分が死ねば娘がどうなるか気がかりだという。娘は何度も見舞いに来たが、松太郎の母親が会わせずに追い返した。なんとかその娘に会いたいと龍之進に訴えるのである。

 一方、茜は、道場主に新年の挨拶が遅れたとからかわれたことに腹をてて、「所詮、肝っ玉の小さい男なのだ。あれで道場主だというのだから笑ってしまう。ああ、気がくさくさして敵わぬ」と言いながら歩いているとき、伊三次の息子の伊与太と出会う。伊与太は正月休みで絵師の弟子入り先から帰ってきていたのである。伊与太は、なかなか一人前の絵師になれないことで悩んでいたし、自分の中途半端さで悩んでいた。それは、茜も同じだった。伊与太も茜も幼い頃からお互いをよく知っていた。

 そのとき、伊与太は不審な人物がいるのに気がついて、その似顔絵をさっと描いて、それを伊三次か龍之進に届けて欲しいと茜に渡す。伊与太は実家に帰って、母親のお文のありがたみがよくわかっているが、それをうまく言い表せないもどかしさも感じていたし、これからの行く末もなかなか見いだせないままに絵師のところに戻っていく。

 他方、龍之進は、昨年の秋から起こっている寺での盗難事件の探索に精を出しながらも、友人の松太郎の婚約者の娘と松太郎が会うことができるようにしていく。娘は、松太郎が病を得て婚約が破棄されたが、自分は納得がいかないと語る。龍之進はその娘に松太郎ときちんと話をつけて別れを言うように頼む。

 だが、娘が帰ったあと、松太郎は、娘がこれから誰のところにも嫁ぐ気はないと言ったと語り、自分が死んだ後に、その娘を嫁にもらってくれないかと龍之進に言い出すのである。「おぬしがうんと言ってくれたら、それがしは、もはやこの世に思い残すことはないだ」(210ページ)と言う。龍之進は、松太郎の病状を慮って、「しかと覚えておく」と返事をしてしまう。

 伊三次は寺の寺男から怪しげな人物がうろついているので力になって欲しいと相談され、一連の寺での強盗事件の関連から、友之進や龍之進らの同心と共に、狙われている寺を見張り、強盗団を一網打尽に捕縛する。その中には、伊与太が茜に渡した似顔絵の男も含まれていた。茜は、その似顔絵を龍之進には渡さずにいた。男の顔が誰であれ、それを描いたのが伊与太で、それを自分に宛てられた手紙として保存していたのである。茜は、普段はぶっきらぼうに男勝りの振る舞いをするが、そういう細やかなところもある娘だった。

 龍之進は松太郎から頼むと言われたことがひどく気になっていた。松太郎は少し落ち着いたようだし、許嫁だった娘も見舞いに通っている。だが、彼はその娘のことがひどく気になりだしていたのだった。

 第五話「てけてけ」は、龍之進の母親の「いなみ」の下で教育を受けていた「おゆう」も店の手代と祝言を挙げるという話から始まる。「いなみ」は龍之進の嫁のことを心配しているし、龍之進も三十近くにもなった男が独り身であるのは世間体が悪いということを気にしている。そんな中で、同心見習いの中で何かと問題を起こしている笹岡小平太という十三歳の少年を預かって面倒見てくれと頼まれる。龍之進が面倒を見なければ、小平太は奉行所の役人にふさわしくないということなって、見習いの取り消しになるかもしれないと言われてしまう。小平太の父の笹岡清十郎は五十五歳であり、しかも小平太は養子で、笹岡家が不幸になるのは目に見えているから、龍之進は小平太の家の事情を調べることを引き受けるようになる。小平太の実父は鳶職で、三年前の火事で屋根の下敷きになって死んでいた。

 龍之進は小平太の家に赴き、そこで、しっかりものだが天真爛漫な姉の「徳江」に会う。小平太が養子にもらわれる時に、姉と離れるのは嫌だと言うので、姉弟共々に笹岡家に引き取られたのだという。小平太の父親が死んでから、母親も女房持ちの男と駆け落ちし、姉弟は親戚中をたらい回しにされ、ようやく笹岡家に落ち着いたのだと「徳江」は言い、だから「どうぞ、小平太を放り出さないでくれ」と龍之進に頼む。「徳江」は十六歳になる娘で、龍之進はどこかで「徳江」の眼を見たような気がする。彼はこのまましばらく小平太の様子を見ることにしましょう、と言う。そこへ、小平太が剣術の稽古から戻り、姉の「徳江」のことを「てけてけ」と呼ぶ。「徳江」の元の名は「たけ」で、かけっこが得意で、みんなが「たけ、たけ」と呼ぶのを幼かった小平太が「てけてけ」と呼ぶようになり、それからずっと姉のことを「てけてけ」と呼んでいるのである。「てけ」は、また「てんけ(天気)」の転じた言葉で、呪文のように「てけてけ」と唱えるのは邪気祓いだそうである。龍之進はそれを教えられたりする。そして、小平太に、同じように町人から吟味方の同心になった友人の古川喜六の話をし、彼に、武士になる心構えを聞いてみよ、と勧める。

 そうしているうちに、労咳を患っていた友人の笠戸松太郎が死ぬ。松太郎が言い残したことが遂に現実のものとなってくるが、龍之進は迷い、茜に相談してみたりする。茜はきっぱりと「わたくしでしたら、亡くなった方とご縁のある人などはまっぴらです」と言い切るが、龍之進は迷い、かつては松太郎と幼馴染で初恋の相手であり、今は同僚の古川喜六の妻になっている芳江に相談する。芳江と松太郎は互いに魅かれながらも一緒になることができず、芳江に喜六との縁談が持ち上がると、芳江は松太郎と分かれて喜六と祝言を挙げ、今は三人の子の母となり倖せに暮らしている。喜六は芳江と松太郎のこともよく知っており、松太郎を慕っていた頃の芳江を否定するつもりもないし、二人で松太郎の弔問に訪れていた。芳江と喜六は仲の良い夫婦である。芳江は、龍之進の話を聞いて、自分も茜と同じように反対だと言う。そして、相手の女性に会って、その気持ちを聞いてみると言い、龍之進はその話を芳江に任せることにする。

 その帰り道、日本橋近辺で小火でもあったのか、龍之進は火事を知らせる半鐘の音を聞く。その側を小平太が走り抜け、それを徳江が追っている姿が目に飛び込んでくる。小平太は火事場での町火消の段取りの悪さに業を煮やして、何かを言い、それが燗に障った徳江から叱られていた。その兄弟喧嘩を見ていて、龍之進は少し鬱屈した気分が晴れるようで、「小平太も徳江さんが傍にいれば曲がることもないだろう」と言う。龍之進は、徳江の笑顔を見ていると心が温かくなるようなものを感じていくのだった。

 第六話「我らが胸の鼓動」は、「おゆう」の婚儀に「いなみ」が呼ばれるところから始まる。「いなみ」は「おゆう」を龍之進の妻にしたいと望んだが、「おゆう」の婚儀は豪商の大和屋らしく、贅を尽くしたものであり、その暮らしぶりは同心の暮らしとは比べ物にならないもので、「おゆう」は龍之進に想いを持っていたが、そのこともよく知っていて、大和屋のあと取り娘としての婚儀を選択したのである。「いなみ」にはそのことがよくわかった。「いなみ」は大和屋に「おゆう」の結婚の祝いの品を届けた帰り道、龍之進を待っている一人の娘を見つけ、誰だろうと思う。龍之進がそこへやってきて、娘はいかにも嬉しそうに龍之進に話しかけている。「いなみ」はなぜかその娘のことがひどく気になった。

 龍之進は、古川喜六から松太郎の婚約者だった娘が龍之進との結婚をきっぱりと断り、藩の家臣と結婚するという話を聞き、若干の意気消沈を覚える。

 他方、伊三次は、伊三次の家の女中をしている「おふさ」が、どうも不破家の中間の松助に気があるらしく、二人がうまくいくように取り計らってくれないかということを「いなみ」に頼みに来る。「いなみ」もまた、昨日見かけた徳江という天真爛漫な娘のことが気になっていると伊三次に告げて、伊三次はその娘の素性を調べてみるということになる。

 そのころ、八丁堀の町医者が瀬戸物屋の番頭に首を斬られるという事件が起こった。もともとその町医者と番頭は親しくつきあっており、その夜も将棋を指したりして変わった様子はなかったのに、突然の凶行が行われてしまったのである。書状が残されており、番頭が町医者に頼まれて店の金を用立てて、町医者がそれをなかなか返してくれないために、無理心中を図ったことがしたためられていた。龍之進はその事件の取り調べ中に、野次馬の中に徳江を見かけるが、その時、徳江の義母が徳江を「この、恥晒し」とひどく叱って、頬に平手打ちをする場面を見る。徳江は謝るが、義母は容赦しなかった。

 町医者の事件は心中を企てた番頭も三日後に死に、一件落着するのだが、徳江は行儀が悪いからと養家を追い出されていた。彼女は鳶職をしている伯父さんの家に追われていたのである。伯父さんの家は裏店で寝るところもなく、台所仕事や縫い物をしているが、そのうち女中奉公に出されるのではないかと、弟の小平太は言う。

 龍之進は徳江のことが気になり、様子を見に行く。徳江に最初に会った時に、以前どこかであったような、ひどく懐かしい気持ちがしていたのを思い起こす。徳江は龍之進が好きだったが、それも彼女が追い出された理由になっていた。

 行ってみると、徳江は裏店で洗濯をしていた。「小平太のこと、くれぐれもよろしくお願い致します。短い間でしたけど、不破様のお顔を朝晩見られて、あたしは・・・倖せでした」(303)と言う。そのとき、龍之進の中の何かがはじけて、「徳江さんは火消し人足に嫁入りしたいですか、それとも八丁堀の同心と一緒になりたいですか」と言う。年が離れているが、徳江を妻にすることを真剣に望んでいると言い出すのである。徳江はそれを聞くと鼻を啜って泣き、身の回りの品をまとめて、龍之進と共にその場から八丁堀へ向かうことにしたのである。龍之進は、心配するなという。徳江は、「不破様があたしの亭主になる人だと、最初からわかっていた」と言ったりする。家族の反応がどうなるかと案じながらも、二人は八丁堀への道を急ぐ。

 他方、伊三次がもちこんだ女中の「おふさ」と不破家の中間の松助との間もうまくいく。二人は小料理屋で初めて話をする。「いなみ」やお文の計らいがあったのである。不破家に龍之進が徳江を連れて行った夜である。不破家は大騒動で、徳江と同じ歳の妹の茜はその話を聞くと驚いて自分の部屋に入ってしまい、友之進はおたおたしていたが、「いなみ」はこうなることを予測していたようだったと、松助は料理屋で「おふさ」に話したりしていた。二人は自分のことをぼちぼち話し出し、やがて、曖昧宿へ行く。松助は「俺たちは時間がねえのよ」といい、「おふさ」は、松助が「俺たち」と言ってくれたことに安堵するのである。

 この物語はここで終わるが、不破家に当然のようにして入ってきた徳江が、おそらく、いくつかの問題を乗り越えながら生きていく姿や、茜と伊与太の成長、お吉の成長などがこのあとも展開されていくのだろう。何かを決断する前には当然悩みや不安が起こるし、決断すれば壁もできる。その壁から逃げ出す人間もいれば、何とかして壁を乗り越えようとする。だが、いつも大事なことは、自分の気持ちに真っ直ぐにあることだ。この作品の主人公たちは、そういう姿を示していくのである。

 『髪結い伊三次捕物余話』のシリーズも、本当に円熟味のある作品になってきたと、本書を読みながらつくづく思った。構成も展開も、文章も素晴らしいし、何より作品全体の独特の温かさがいい。宇江佐真理の作品は、どれもいい作品だと思っている。

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