2013年4月3日水曜日

山本兼一『狂い咲き政宗 刀剣商ちょうじ屋光三郎』


 春の嵐になった。雨はともかく、風が時折強く吹き荒れていく。もちろん気温は低く寒い。咲き残っていた桜も、これで散ってしまうだろう。

 昨日、雨の音を聞きながら、山本兼一『狂い咲き政宗 刀剣商ちょうじ屋光三郎』(2008年 講談社)を比較的面白く読んだ。この作家の作品は、前に『とびきり屋見立て帖』『千両花嫁』(2008年 文藝春秋社)『ええもんひとつ』(2010年 文藝春秋社)を読んで、その二作は、幕末の京都を舞台にした古道具の「目利き(鑑定眼)」に加えて人間の「ほんもの」を見分けていくことが主題となっていた。そして、本書は、刀剣の鑑定眼を中心にした短編連作になっている。作者は、「本物」とそれを見分けることができる人間に関心があるのだろうと思う。「本物」を見分けることは、人であれ物であれ、実に難しい。

 本作の主人公の「ちょうじ屋光三郎」は、父親が将軍家のお腰物奉行(刀剣の管理をする)をしている関係から、幼い頃から刀の美しさに魅了された旗本の息子で、それだけにしっかりした刀剣の鑑定眼をもつようになり、やがて、名刀中の名刀とまで言われた政宗を巡って父親と意見が合わなくなり、激突して、勘当され、刀剣商である「ちょうじ屋」の入婿となった人物である。

 刀は、言うまでもなく人殺しの道具であり、武器であるが、日本刀は一級の芸術品でもあり、それを持つ者の象徴でもあった。武家が政治と社会の中枢に置かれるようになってからは、刀は権力の象徴ともなり、「武士の魂」とも呼ばれるようになっていくが、刀は極めて高価であり、優れた刀を持つことは豊かさの象徴でもあった。そのために、刀をめぐる争いもしばしば起きており、本書は、そうした日本刀をめぐる様々な事柄、特に「ほんもの」を見極めていくことについてや刀をめぐる争いなどを展開していくもので、そこに人間の姿も映し出されていくものとなっている。

 表題作ともなっている最初の「狂い咲き政宗」は、将軍のお腰物奉行を務める旗本の嫡男であった主人公が、武士をやめて刀剣商の「ちょうじ屋」に入婿となり、名を光三郎と改めていく経過が記されているが、権威づけられていた「政宗」という名刀が、いずれもただ金や権威づけのためにそう呼ばれるだけで、本当はその真贋が怪しいものではないかと主張して、父親の勘気を買ってしまい、勘当されるのである。

 時は、ペリーが浦賀にやってきて幕府の権威が表面切って揺らぎ始めた時代であり、「本物の刀の見分け」を志す光三郎は世の権威というものに否を言うのである。

 折しも、幕閣では、揺らぎ始めた将軍家の権威を示すために将軍家の佩刀の中でも最高のものと言われた「政宗」で堅物の試し切りをして吉凶を占う案が出され(この当時の幕府はこの程度のことしか考えられなかったのは事実である)、お腰物奉行である黒沢勝義が事前に試したところ、その「政宗」が真っ二つに折れてしまい、事は内密を要するので、何とかして同じ「政宗」を捜して欲しいと息子の光三郎のところに話を持ち込むのである。

 光三郎は、彼が出入りしていた刀鍛冶の山浦清麿にそっくり同じ刀を作らせる。山浦清麿は「四谷政宗」と呼ばれるほどの腕を持ち、光三郎はその弟子としてその鍛冶場に出入りしていたのである。そして、山浦清麿が作った刀は、「政宗」として見事に兜を斬る。幕閣は、「神君家康公のご遺徳が生きておる」と喜ぶが、将軍家慶の病状は悪化して、それからひと月後に死去する。

 光三郎は事の真相を父親に明らかして、将軍家の蔵にある備前長船長光と来国光も実は自分がすり替えた贋作だといい、さらに、山浦清麿が作った「政宗」も、その弟子である鍛冶平こと細田平次郎直光という男と自分が打ったものだと言う。事の真贋というのは、このようなもので、世の権威というものはあてにならないと父親にぎゃふんといわせるのである。

 第二話「心中むらくも村正」は、妖刀と言われ将軍家から忌み嫌われた「村正」をもったお指物奉行配下の御家人の話で、「村正」銘の刀を持つことだけで謀反と受け取られないことを案じた光三郎の父が、その「村正」の出処を探るように依頼されるのである。

 「村正」を持っていた御家人は、吉原の花魁からそれをもらったということで、光三郎は、新婚の妻の悋気を感じつつも、吉原に行ってその花魁と会う。花魁の心を開かせ、話を聞くために、妻の悋気を気にしながらも光三郎は吉原に通い、その花魁も彼を信用して話をするようになる。

 彼女は、「ひな菊」という源氏名をもつ女性だが、先祖は九州の取り潰された大名だという。調べてみると、豊後府内(大分)の竹中采女正重義の名前が上がる。竹中重義は、1629年(寛永9年)に長崎奉行となり、壮絶なキリシタン弾圧を行った。踏み絵を行ったのも彼である。ところが、平野屋三郎右衛門の美人の妾に横恋慕し、彼女を奪い取って、平野屋を取り潰して全財産を没収し、彼女の兄まで投獄するという横暴を働いた。平野屋はその横暴さを幕府に訴え、加えて、長崎奉行の権勢を笠に着て私腹を肥やし、密貿易までしたいたことが発覚し、家名断絶の処分を受けたのである。そして、幕府が竹中の屋敷を調べると、そこに多数の村正が所蔵されており、これによって、謀反人として、その子とともに切腹を命じられている。

 「ひな菊」のとろこにその先祖伝来の村正があったのかもしれないということになり、「ひな菊」は惚れたお指物奉行にそれを渡して、金に変え、身請け金にしてもらおうとしたのである。しかし、妖刀と嫌われた村正はおいそれとは売れなかったのである。そして、その御家人と「ひな菊」は、別の村正銘の小刀で心中を遂げるのである。

 第三話「酒しぶき清麿」は、「四谷政宗」とまで評判を取り、光三郎が刀鍛冶の師として仰ぐ山浦清麿の話で、酒浸りとなり、女房に逃げられて仕事をしない清麿の身を案じて、彼の女房を捜し出し、なんとか立ち直らせていく話で、清麿の女房に対する想いと女房の清麿に対する想いが交差して、人が愛する者によって生きていく姿がしみじみと描かれる。

 第四話「康継あおい慕情」は、徳川家康に気に入られて代々将軍家のお抱え鍛冶師となり、代々「康継」の名を継承している康継作の名刀を巡る話である。

 刀剣商として生きている光三郎は、お腰物奉行をしている父から初代康継の名刀を見せられる。ある旗本が家康から直々に拝領したもので、それを売って欲しいと依頼されるのである。値段は500両という途方もない金額だが、茎(なかご)に初代康継が家康と秀忠の二人から江戸に召された時の記念に作ったものだと彫ってあり、世に二つとない刀であった。それにしても少し高めの値段であった。

 ところが、相州屋という刀剣商がそれを買うという。光三郎はその刀を相州屋に500両で売ることができたが、実はそこに裏があった。刀を売りに出した旗本は、父の黒沢勝義の友人の家で、大御番組の組頭をしていたが、早世したため、一人娘が婿をとって家督を継いだ。ところが、その婿も死んでしまい、子がなかったために東縁の男子を養子にすることになった。ところが、上司に当たる大御番頭の橋本監物という人物がその末期養子を認めないと言いだしたのである。そして、それを認めるには500両の金がいると言う。収賄を要求したのである。そこで困り果てた旗本家では、伝来の家宝の康継の刀を売ることにし、黒沢勝義が一肌脱いだという経緯があった。

 康継の刀は500両で売れ、金は橋本監物に渡って丸く収まるはずだったが、末期養子を認めるにあたって、家康から拝領した家宝の康継の刀を確認させろと言い出すのである。橋本監物は刀剣商の相州屋と結託し、康継の刀を手に入れ、さらに旗本家を取り潰して、新たに組頭になる家からも賂を取ろうと企てたのであった。

 黒沢勝義は、友人の旗本家のために康継を取り返して欲しいと光三郎に依頼するのである。どうも亡くなった友人の妻女と少なからぬ因縁もあるようである。

 光三郎は、茎(なかご)に家康と秀忠が駿府で槌を握った初代康継の作という銘を入れていた贋作を仲間の鍛冶平と作り、十一代目の康継を訪ねる。彼は、十一代目の康継と知り合いで、幼い頃から康継の鍛冶場に出入りしており、彼の力を借りて橋本監物から刀を取り返す策を練るのである。十一代目の康継が、家康と秀忠が槌を振るった初代康継を売りに出そうとしているという噂を流し、橋本監物の康継好きに乗じようというわけである。その値段は千両だが、500両と先の旗本家から取り上げた初代康継の刀でもいいということにして、さっそく相州屋と橋本監物がそれに食いついた。

 こうして、光三郎は500両と刀を取り返し、旗本家は事無きを得ていくのである。その後で、光三郎は父親と初老の婦人が料理屋で食事をするために船に乗っているのを目撃し、若い頃の父親の恋を見たような気がして、声を上げて笑う。痛快な結末で、刀には贋作や収賄が絡んでいくから、こういう痛快さが本書の真骨頂になっている。

 以下、「うわき国広」、「浪花みやげ助広」、「だいきち虎徹」とそれぞれの刀にまつわる物語が続くが、いずれも人間の執着心や欲、あるいは不安や恐れというものがテーマになった作品で、真贋を見分け、「ほんもの」を見ようとする光三郎の知恵に満ちた活躍が展開されている。物語の展開は、ここでは割愛するが、日本刀にはそれぞれの作によって刀の相というものがあるような気がする。国広は優しいし、虎徹を好む人間は闘いが好きなような気がするが、どうだろう。

 ともあれ、物事の「目利き」、特に「人間の目利き」というのは、なかなか難しい。人の目は曇りやすく、目の前の現象に目が移ってしまうからである。「これ」といった人間に出会うことは、特に一生を左右することでもあるが、贋者だらけの現代では特に難しいと思う。作者はそうとうな凝り性と思うが、この作品も面白く読めた作品であった。

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