週末はまた荒れた天気が予想されているが、昨日、今日と、春を感じる暖かい日になっている。昨日は、本当に久しぶりに吉祥寺まで出かけていった。駅の雑踏はともかく、少し行くと武蔵野の面影が色濃く残っていて、横浜とはまた違った風景が広がっていた。京王井の頭線は、昔から好きな路線だったが、これもいいと思ったし、数十年ぶりで留学時代の知人にも会うことができた。
往復の電車の中で、千野隆司『夏越しの夜 蕎麦売り平次郎人情帖』(2010年 角川春樹事務所 時代小説文庫)をいい作品だと思いながら読んだ。これはシリーズ化されて、おそらくこの次作である『菊月の香 蕎麦売り平次郎人情帖』(2011年 角川春樹事務所 ハルキ(時代小説)文庫)を先に読んでいたので、遡って読むことになったのだが、短編連作の形式が取られているので、その時も面白いと思っていた。
物語の主人公の菊園平次郎は、元南町奉行所定町廻り同心だったが、逆恨みした人間によって妻と娘を殺され、貧乏裏店に住みながら屋台の蕎麦売りをしている中年の男である。この平次郎が、同じ裏店に住む住人やふとしたことで関わりを持った人物が抱える事件や出来事に関係していく話で、本作には「覗き見夜鷹」、「芋飯の匂い」、「夏越しの夜」の三話が収められており、この中編三話形式というのも読み手にちょうどよくて、嬉しくさせる構成だと思う。
「覗き見夜鷹」は、平次郎と同じ貧乏裏店に住み、夜鷹(安手の娼婦)をしている「おてつ」という女性の話で、「おてつ」は、夜鷹にしてはまだ若いが、体を売って金を貯め、その金を高利で貸してさらに金を貯めて、周囲の人々からは金の亡者のように言われている女性である。
この「おてつ」が何者かに襲われる。「おてつ」が溜め込んでいる金が目当てかと思われたが、どうもそうではなく、「おてつ」の命が狙われていることが次第にわかっていく。「おてつ」は奉行所に訴えたりするが、夜鷹のいうことなど誰も聞いて切れず、日頃から一目置いていた平次郎に自分を狙う犯人を捕まえてくれと依頼する。
「おてつ」は、三、四歳の頃に両親を火事で失った孤児で、木戸番夫婦に育てられたが、その木戸番夫婦も十一歳の頃に亡くなり、古手屋に奉公に出た天涯孤独の女性だった。だが、そこでやがて、修行に来ていた同じ古手屋の跡取りに見初められて結婚し、子どもも生まれて懸命に働くが、気の強い姑と折り合いが悪く、加えて亭主の女癖も悪くて、身一つで追い出されたのである。子どもを引き取りたかったら、自分で店の一軒でももってみろ、と言われて、それから夜鷹をしながら歯を食いしばりながら小金を貯めていたのである。それまでに彼女の周囲には彼女を助けるものはひとりもいなかった。
嫌われ者の「おてつ」の身を案じた平次郎は、元は平次郎の小者(手先)であり今は平次郎の屋台の横で同じように屋台の天麩羅屋を出している鶴七や、彼に地酒を安く卸している蔦吉、そして、殺された娘の許嫁で定町廻り同心である北原左之助とともに、「おてつ」の命を狙う犯人がもう一度「おてつ」を襲うだろうと踏んで、「おてつ」の命を狙った犯人を捕まえるのである。
犯人は、辻斬り強盗の一団で、夜鷹をしている「おてつ」に強盗の現場を見られたと思って、口封じのために「おてつ」を殺そうとしたのである。
事件の顛末は単純なものであるが、鶴七や蔦吉は、平次郎が同心をしていた頃に助けられたのを恩義と感じ、平次郎に絶対の信頼を置いて、何はさておいても平次郎の頼みを聞くようになり、人情の温かさで動く人間たちであり、平次郎は、誰からも嫌われて相手にされない夜鷹の「おてつ」のために身の危険を顧みずに彼女を守っていく人間で、そういう人間の姿がここで描き出されているのである。
第二話「芋飯の匂い」も、同じ長屋に住む長谷川忠兵衛という浪人の話である。長谷川忠兵衛はそうとうの剣の使い手で、用心棒や道場破りをして糊口をしのいでいたが、胃に硬いしこりができて倒れる。彼は平次郎の屋台で蕎麦を食べたあとで倒れてしまい、平次郎が長屋にかつぎ込んで医者に見せたところ、病はかなり重く、もう助からないだろうという。
しかし、彼は病を押して、出かけていく。心配した平次郎が鶴七や蔦吉に後をつけさせたところ、彼は一軒の荒物屋の裏で、隠れるようにしてその荒物屋の内儀と幼い娘の姿をじっと眺めているのであった。彼は平次郎にそのわけをぽつりぽつりと話す。
その荒物屋の内儀は、かつての彼の妻であったが、家に金を入れることもしないし、妻の「なを」を顧みることもせずに、好き勝手にし、他にいい女はいくらでもいると思い、別れて、金持ちに誘われて大阪に行ったりしたという。彼女は、最初は日雇いの女房だったが、亭主が酒飲みの乱暴者で、同じ長屋にいた長谷川忠兵衛が別れさせ、それから一緒に暮らし始めたと語る。そのあと、蕎麦屋の女中をしていた時に荒物屋に見初められて結婚し、一女をもうけて平穏に暮らしていた。荒物屋の内儀としてしっかり働き、店を盛り上げて夫婦仲も良い。長谷川忠兵衛は己を後悔して、その彼女の幸せをそっと見守っていたのである。
平次郎は、その長谷川忠兵衛のために「芋飯」をもってくるが、そのとき、長谷川忠兵衛は、自分は元の妻といたときに金がなくて「芋飯」ばかり食わされ、その貧乏臭さも嫌だったといいながら、そういう自分を恥じて、平次郎が持ってきた「芋飯」を美味しそうに食べたりする。彼は、今となってはただただ、元妻の平穏な暮らしを願うばかりだと語る。
ところが、その荒物屋が騙りにあって、店が潰れそうになる。同業の荒物屋の借金の保証人になり、大金の返済を迫られて、店を手放さなくてはならなくなりそうになり、元の妻の平穏を願う長谷川忠兵衛は、それを案じていたのである。平次郎は、その騙りの背後に、巧妙に仕組まれた際物師の頭と同業の荒物屋の悪巧みを鶴七や蔦吉を使って探り出し荒物屋の家族を救っていくのである。もちろん、長谷川忠兵衛も病を押してその闘いをするが、自ら名乗り出ることはない。平次郎は、そういう長谷川忠兵衛の心を大事にしながら、彼を見守っていくのである。
第三話「夏越しの夜」は、平次郎を商売敵として彼を追い出そうとする同じ屋台の蕎麦屋とその息子の話である。
熊十は、人通りが多い芝橋の袂で蕎麦の露天を出していたが、自分が売る蕎麦よりも少し値が高いにもかかわらず、うまいと言われる平次郎の屋台が店を出すことを妨害するような男だった。平次郎は争いを避けて、ほかの橋の袂で店を出していたが、振売りであり、ときに露骨な熊十の妨害にあうこともあった。
熊十には一人息子がいたが、ぐれて博打などにも手を出し、勘当されて地回りの手先などもしていた。息子は、いつまでたっても下っ端であったが、あるとき、その地回りが囲っている女性がひどい折檻を受けて乱暴され、彼に助けを求め、彼はその女性を連れて逃げるのである。地回りは、逃げた熊十の息子と女を捜し出して殺すと息巻き、熊十の店に行って嫌がらせをしたり、手ひどい仕打ちをしたりして行くへを聞き出そうとする。
ぼろを着て物貰いをしながら生活をし、月に一度か二度、平次郎の旨い蕎麦を食べるのを楽しみしている丑は、貰い金の運上を収めるために地回りの家にも行っていたが、あるとき熊十の行動に不信を抱き、そのあとを地回りの手先がつけていることに気がついた。そして、事情を察するのである。
また、熊十の屋台が乱暴されていることを聞いた平次郎は、その場に駆けつけてそれを収めて、そこに丑がいることに気がついて、事情を尋ねてみた。そして、熊十の息子と女が逃げて、それを地回りが探しているという事情を聞く。地回りには凄腕の用心棒もついていた。
平次郎は、それをなんとかしようと、鶴七や蔦吉、長屋の老婆の「お船」などの手を借りて、熊十の息子と女を捜し出し、これを助けようと一計を立てる。地回りは口入れ屋稼業(人材斡旋)をしており、大名行列の際に出す雇い中間の人数をごまかして、暴利を得ていたことをつきとめ、その証文を丑に盗み出させて、熊十の息子と女の身柄の安全と交換しようとするのである。死を目前にした長谷川忠兵衛も平次郎たちに味方し、ことは収まる。平次郎は、熊十の息子に心を入れ替えて働けといい、熊十の息子と女は夫婦になって父親を助けて働くようになるのである。平次郎は、文字も読めるし、高価な味醂の味も知っている不思議な丑に、その働きを報じて、一月間、毎日蕎麦を食べさせることにして、物語が終わる。
本書は、書き下ろし作品ではあるが、書下ろしとは思えない丁寧な展開と人物像があり、貧乏長屋に生きる人物がそれぞれの人生を含めて取り上げられて、大変面白く読める作品であると思う。
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