2013年4月29日月曜日

滝口康彦『遺恨の譜』(2)


 初夏とは呼べないが、この2~3日、ようやく暖かくなって過ごしやすくなっている。新緑が鮮やかで美しい。こういう日々は本当に嬉しい。

 さて、滝口康彦『遺恨の譜』(1996年 新潮文庫)の続きであるが、第四作「下野(しもつけ)さまの母」は、二十六、七年連れ添った夫に、十四年も前に裏切られていたと思った妻の不信感から始まっていく。夫の波多野修理は謹言一直で、五十歳になり、子どもも成長して、孫もいて、妻の「いよ」は対馬藩の家中で、自分は幸せ者だと思って暮らしてきた。

 ところが、信じて疑ったこともなかった夫が、十四年前に背信行為をしていたことが動かぬ証拠とともにわかったのである。夫の相手は、先代の対馬藩主の愛妾の「若狭さま」で、しかも無理心中まで企てていたことが、修理自身が書いた手紙が「若狭さま」の死去とともに遺品として夫に届けられてきたのであった。手紙は間違いなく夫の筆跡で、藩の家老に宛てたたもので、「若狭さま」との無理心中を記したものであった。

 夫の留守中にその文を盗み見た妻の「いよ」の心は乱れ、夫に問い質すが、夫はただ「聞かずにおいてくれ」て言うだけであった。「いよ」の心が地獄のようになったことを承知の上で、夫はただ「それを承知で頼むのだ」というばかりである。

 その手紙の中には、決して人に明かすことができない秘密があったのである。その秘密は、前藩主が亡くなった時から始まった。前藩主の正室には子がなく、国元の愛腹に、母は異なるが三人の男児があった。世子として届けでられている猪三郎義功は十歳、次男の富寿は八歳、五歳の種寿である。猪三郎義功は十歳で届け出られているが、実際は八歳であった。新藩主は届け出られていた猪三郎義功がつき、国家老の古川図書が補佐となり、このままいけば問題は何も起こらなかったはずである。

 ところが、それから七年後、新藩主となった猪三郎義功が病気で急死した。まだ十五歳の元服前で、将軍参観も猶予されていたので、お目通りも済んでいなかったが、義功の死が表沙汰になれば、世子なき状態となり、家の断絶は免れなくなったのである。

 家老の古川図書は、江戸家老の意見も聞きながら善後策を波多野修理らと相談した。無難な方法は、藩主猪三郎義功の病気届を出し、異腹の弟である富寿を世継ぎと定め、それを幕府に承認してもらった後に、猪三郎義功の死を届け出るというものだった。ところがそれには時間もおびただしい金もかかることになる。財政難の状態で藩にその金はない。

 思案に窮して、修理は、若君をすりかえるという案を出す。亡くなったのが三男の種寿ということにして、次男の富寿を猪三郎義功とし、実際の種寿を富寿として、お目通りもまだだったのだから可能であるという。だが、猪三郎義功の母は既に亡くなっているし、富寿の母「お弓の方」も、自分の子が新藩主になるのだからさして不服はないだろうが、種寿の母である「若狭さま」は、自分の子どもが死んだことにされて取り上げられてしまう。その「若狭さま」の説得を修理は任されるのである。そこには、その説得が受け入れられない場合は、「若狭さま」を殺して、修理も死ねという意味が含まれていた。

 「若狭さま」は、控え目で謙遜な女性だったが、あまりの酷い申し出に抵抗を見せる。しかし、修理はその説得に自分お命を賭けなければならなかった。修理は、万一を考えて、家老の古川図書宛に、自分が「若狭さま」に懸想をして、無理心中をするということを一筆書いて書き置いていた。その書置きを修理は「若狭さま」の説得に行った際に落とし、それを「若狭さま」に読まれていたのである。そして、「若狭さま」はその申し出を受け入れた。それから、母と子が決して名乗り合うことができない日々が続いた。

 五年後に、猪三郎義功の富寿は十九歳で将軍お目見えとなり、対馬守を拝命し、富寿の種寿も宗下野(そうしもつけ)を名乗り、家臣からは「下野(しもつけ)さま」と呼ばれるようになった。彼は文武に秀でた若者に成長していき、家臣の信愛も得ていたが、しかし、残念なことに二十歳の時に病を得て死去しなければならなかった。

 あと三日の命と医者から宣告を受け、修理は、実の母である「若狭さま」に最後のお別れを言わせたいと願い、「若狭さま」を「下野さま」の枕元に連れて行く。だが、「若狭さま」は、最後まで気丈に振舞って「下野さま」をどこまでも自分の子としてではなく、富寿として接した。気を失うほど自分を保っていたのである。

 そして、それから三年余に「若狭さま」が亡くなって、かつて修理が書きた書置きと「若狭さま」が書きおいた修理の心遣いへの感謝の文が届けられたのである。文の背後にあったのは、決して色恋沙汰ではなく、人生の悲しい運命であった。だが、真相を明らかにすることは決してできない。「いよよ、こらえてくれい」と修理は望むばかりである。

 人には、誰にも知らすことができない、また知らしてはならないことがある。それはただ、じっと自分の懐に抱いている以外にはない。心をもつ人は特にそうである。人がそのようなものであることを知っている人間と、そのことがわかなない人間がいる。「サムライ」という人間の精神を描く時代小説は、それを描くのに最も適したジャンルであるが、この作品には、作者のそういう思いが込められているように思われた。

 第五作「昔の月」は、薩摩藩領内にある日向都城の領主北郷忠能の「脳乱」ともいえる暴挙の中で、弟が兄を上意討ち(藩主の命令で殺すこと)にしなければならなくなり、命乞いをする兄を逃がしていく話で、兄の出奔によって一家は立ち行かなくなり、月光の中で兄と弟が斬り合うことがあったが、兄は弟に懇願して命を長らえ、そして、年老いて再び都城に帰ってきた僧となった兄と弟が、互いに名乗ることもなく、再び月を仰ぐというものである。藩主の気ままによって家臣が苦しめられる例は数挙にいとまがなく、第六話「鶴姫」でも、藩主の娘の姫君のちょっとした思いやりが、それを守ろうとする家臣の生命を賭した行為へとつながっていく話である。

 ただし、第六話「鶴姫」の場合は、我儘ではなく自分に仕えている奥女中の恋を実らせようとした思いやりからだったが、それによって、その姫を守る家臣が生命を賭けることになってしまうのである。地位ある者は、自分がもつ地位や力、あるいは言動がどのような影響を及ぼすかを知らなければならない。だが、実際にそのことを知る地位ある者は少なく、権威や権力だけが振るわれる現状がある。人の痛みがわからない人間は、決して力をもってはならない。

 第七話「一夜の運」は、刃傷沙汰に及んだ時に、冷静さを取り戻して、「サムライ」としての守らなければならないことを守ったことによって、自分の運命を危機から救っていく話で、舞台が佐賀鍋島家に取られているのは、鍋島家が「葉隠」の精神をもつものだからだろうと思う。ここには陰湿な「いじめ」もがかれるし、その「いじめ」に対して腹を据えかねて報復する姿も描かれ、その中で、「サムライ」として守らなければならないことを守る姿が描かれるのである。

 第八話「千間土居」は、久留米藩と柳川藩の間を流れる暴れ川と称された矢部川の治水工事をめぐる話で、片方が強固な土居(堤防)を築けば、片方の堤防が決壊してしまうという中で、土居(堤防)の工事に当たった普請方どうしのそれぞれの矜持がぶつかり合う話である。事柄を藩の中だけでしか見ることができない人間と、それを越えて見ようとする人間の姿が描かれるが、藩の枠を越えようとした人間が結局は潰されてしまう悲しい姿も、ここにはある。

 表題作となっている第九話「遺恨の譜」は、幕末期に起こった寺田屋騒動を、その関係者であった主人公が明治になってから語るという設定で、「考えていたのは、結局、薩摩の利害だけではなかったか」という視点で描かれ、わたしも、幕末期には薩摩は利害で動いたと思っているので、作者の意図がよくわかるような気がしながら読んだ。ここには、寺田屋事件で死んだ有馬新七や、後で殺された田中河内介(こうちのすけ)親子、海賀宮門(みやと)らの無念の姿が描かれる。

 ここで言う寺田屋騒動というのは、1862年(文久2年)、京都伏見の旅館であった寺田屋に、急進的な尊皇派であった者たちが、久留米の真木和泉を中心にして、関白九条尚忠と京都所司代の酒井忠義を襲撃しようと集まり、そのほとんどは薩摩藩士だったために、薩摩藩主の父で、藩の実権を握っていた島津久光がこれを危惧して、騒動を抑えようと剣術に優れた9名の人間を派遣し、そこで激しい斬り合いをした事件である。寺田屋は、当時、薩摩藩の定宿であった。この時に、急進派であった有馬新七などの6名が斬り殺され、2名が重傷を負い、多くが捕縛された。そして、2名が切腹させられ、諸藩の尊皇浪士は各藩に引き渡され、引き取り手がなかった田中河内介親子などは、薩摩藩が引き取ると称して船に載せ、船内で斬殺したのである。また、薩摩に連れて行った者たちも浜辺で斬殺した。

 これによって、京都の治安に功があったということで朝廷側は島津久光への信望を高めたと言われるが、幕末は、こういう愚かで残忍なことが繰り返されたのである。このころ薩摩は長州に対しててひどい仕打ちをしていたが、数年後に坂本龍馬らの斡旋もあって、薩長同盟を結んでいる。薩摩も長州も「藩」という枠内を越えることができなかった、とわたしは思っているし、それが明治になっても続いたと思っている。人間の視野はいつも狭く、人の目は狭い視野の中だけでしかものを見ることができない。だから、今見ているものに注意が必要だと思ったりもする。

 ともあれ、本書に収められている短編も、文学性の高い珠玉の短編で、読む者を圧倒する力をもっているとわたしは思う。その思想性もかなり高いものがある。

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