2011年8月4日木曜日

北原亞以子『あんちゃん』

 今日も雨模様で、このところずっと天気が優れない。こんなに続くと農作物への日照不足が起こるかもしれないと思ったりもする。

 もうずいぶん以前にオランダのV.ピュアソンという人が、人間の思考形態が神話論的思考から存在論的思考、そして機能的思考へと変わってきたことを指摘していたことを思い出し、機能を求める思考は有効的で実効的だが、本来的には非機能的でもある人間の存在を損ねてしまう危険性があることをぼんやり考えたりしていた。

 というのは、最近、「もっと効率を上げましょう」ということを、一般に「やり手」といわれる優秀な人たちから聞かされることが多かったからで、機能的効率を思考するところには精神の豊かさが宿らないように思えてならなかったからである。

 それはともかく、北原亞以子『あんちゃん』(2010年 文藝春秋社)を読んだ。北原亞以子は『慶次郎縁側日記』や『深川澪通り木戸番小屋』という作品の柔らかい筆使いが好きで比較的よく読む作家の一人だが、『あんちゃん』は、昨年出されたばかりの短編集である。

 ここには、「帰り花」、「冬隣」、「風鈴の鳴りやむ時」、「草青む」、「いつのまにか」、「楓日記 窪田城異聞」、「あんちゃん」の7編の短編が収められており、いずれもが自分の幸せを求めて生きる人間の切なさを描いたものである。

 「帰り花」は、ひもじい思いをして暮らしていた少女の頃に、自分に親切にしてくれた手習い所の師匠への思いを抱き続けた女性が、夫を失い、内職などで細々と子どもを養いながらも、その師匠を忘れられずに境遇が変わった師匠を捜し回り、訪ねて、変わらぬ優しさに涙していく話である。

 「冬隣」は、夫に浮気された女性の葛藤を描いたもので、「風鈴の鳴りやむ時」は、結婚を言い交わした男を寝取られて、寝取った女の企みで深川の娼婦に身を落とした女性と勘当されて質屋の帳付け(会計)をしている旗本の次男坊の、いわばやるせない寝屋物語のような話である。また、「草青む」は、老いた味噌問屋の主に囲われている妾の、死を迎える主をも守っていく愛情を描いたもので、「いつのまにか」は、結婚して幸せに暮らしている女性が、自分の幸せがいつか壊れるのではないかと不安を抱き、その不安どおりに破落戸になってしまった弟が訪ねて来て居着く中で、弟に対する愛情はあるがしっかりと自分の家を守ろうとする女性の話である。

 「楓日記 窪田城異聞」は、これらの作品の中では毛色が変わっていて、古い家から見つかった古文書から、戦国から江戸初期にかけての武将であった秋田の佐竹義宣(1570-1633年)の、関ヶ原合戦前後で人が変わったような有様から、家老であった渋江政光による替え玉策があったのではないかと、それに関わりのあった自分の先祖の女性の日記を読み解いていく話である。

 そして、表題作でもある「あんちゃん」は、貧しい水呑の小作人の家に生まれた男が江戸に出てきて、運よく高利貸しに出会い、懸命に働き、やがて炭問屋を営むようになって金を稼ぐことにあくせくしていたが、信頼していた兄が郷里から出てきた時に金を差し出して、「何でもかんでも金じゃあねぇ」と怒りをかい、女房からも囲った女からも捨てられ、生きる力を失ってしまった時に、ずっと自分を支えてくれた番頭に郷里に帰って兄と和解することを勧められる話である。

 これらの7つの短編は、文学作品としての短編のきれや鋭さはないし、登場人物たちを通しての人間への洞察の深みもない。だが、人がそれぞれにやりきれない思いを抱きながら暮らしている姿が、ここにはあって、人の温もりの切なさがある。そして、人の温もりを描くところには甘さがあり、下手をすれば少女趣味的な結末となることがあるにしても、人の温もりほど人を幸せな気分にしてくれるものはないのだから、素朴に描かれるのも悪くはないと思う。

 作品としての物足りなさを若干感じるところがあるのだが、考えてみれば、北原亞以子は、ずっと、この人の温もりを描き続けてきているのだから、こういう作品も生まれてくるのだろうと思う。

 このところ柴田錬三郎を読んだ後で北原亞以子を読むなど、時代小説でも傾向がばらばらの作品を読んでいるので、こんな感想を持ったのかもしれない。

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