2011年8月8日月曜日

高橋義夫『江戸鬼灯』

 焦がすような陽射しが照りつけ、うだる夏の暑さが戻ってきた。湿度もかなりあって戸外でちょっと体を動かすだけで汗が滴る。やはり、夏は何もしないで休むに限る、と思ったりする。

 週末にかけて、高橋義夫『江戸鬼灯(えどほおずき)』(1998年 廣済堂出版)を、かなり時間をかけて読んだ。江戸時代の文化・文政から天保にかけて、紫式部の『源氏物語』を下敷きにした『偐紫田舎源氏』(にせむらさきいなかげんじ)で流行作家となった柳亭種彦(りゅうていたねひこ-1783-1842年)が作家として名をなしていく過程を描いたもので、病弱な御家人の息子として生まれ、狂歌や歌舞伎に懲り、古典文学の研鑽を積みながら作品を書いていく姿がいくつかの色合いをもたせながら綴られていくので、かなり味わい深い作品だった。

 柳亭種彦(高屋彦四郎)は、二百俵の旗本の家に生まれ、病弱だったためか武芸にはいっさい関心がなく、少年の頃から漢籍などに親しみ、歌舞伎や浄瑠璃を好んで井原西鶴や近松門左衛門に傾倒し、狂歌や国学などを学んでいった人で、当時の小普請(無役)の旗本・御家人は、たいていは、金はないが暇だけはうんざりするほどあって、武を頼んで放蕩無頼をするか、狂歌や三味線、唄、浄瑠璃などの遊芸に精を出すかのどちらかだった。

 少年の頃から漢籍に親しみ、古典文学や狂歌、俳句を学んできて考証を重ね、性格的に真面目な柳亭種彦が、やがて文学の世界で身を立てたいと望んだのは、彼の自然な成り行きだっただろう。そのあたりについて、高橋義夫は「何かを書き、版木に刷って世に問いたいという気持ちが年をおって強いものになる。それがなにか、狂歌、狂詩、狂文か、あるいは随筆、考証のたぐいか、自分にもはっきりわからなかった。ともかく、なにかを世に問いたい。ここに高屋彦四郎ありと、世に訴えたいのである」(15ページ)と適切に述べている。

 この作品では、こうした柳亭種彦の姿を、武士を捨てて高利貸しになった友人の「豆彦」や、女遊びが過ぎて旗本から三味線芸人になった「好也」、小普請の境遇から何とか脱しようとする隣人、そして、彼の妻の勝子や浮気相手の「りく」などの姿を交えながら描き出すし、当時の江戸の文壇ともいうべき烏亭焉馬や山東京伝、滝沢馬琴、そして絵師の葛飾北斎、歌川国貞らとの交流、版元との関係なども丹念に描かれている。そこには、世相の息苦しさの中で巧みに政治の弾圧をかいくぐりながら作品を発表していく反骨精神もある。

 柳亭種彦は、やがて彼の『田舎源氏』が大奥の内密を暴くものであるとの言いがかりをつけられて天保の改革の時に水野忠邦によって弾圧を受けるが、本書は、彼が作家として発心し、やがてその作品が流行作品となっていき、次々と作品を発表していくところまでを描いたものである。

 それにしても、この時代の文人たちの洒落っ気にはつくづく感心する。1787-1793年に松平定信が行った寛政の改革で手鎖の刑を受けた山東京伝が出した書物の題名は『手前勝手御存知商売物(てまえがってごぞんじのしょうばいもの)』というのや『江戸生艶気蒲焼(えどうまれうわきのかばやき)』というものだったり、柳亭種彦を世に出した烏亭焉馬(江戸の落語の中興の祖といわれる立川談州楼)の別号は「桃栗山人柿発斎(ももくりさんじんかきはっさい)」だったりする。この時代の狂歌をした文人たちの名前も洒落ている。

 こういう粋で洒落た姿は、今ではもう廃れてしまったのが何とも残念で、「遊び心」の質が変わって、今では「遊び心」も大らかさがない気がする。今では、自己主張ばかりが謳歌されすぎるきらいがある。「遊び心」には、「どうせたいしたことはない」という自戒があって、江戸時代の戯作者たちの姿を見ると、文学に限らず、芸術には「遊び心」があったほうがよいように思ったりするのである。

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