2011年8月22日月曜日

山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集3 想う』(1)

 九州に来て、このところずっと天気がすぐれず、湿度の高い日々が続いている。18日に大宰府の天満宮と九州国立博物館を訪ね、「よみがえる国宝展」を見て、天満宮の参道で名物の「梅が枝餅」を美味しくいただいたりした。大宰府は本当に久しぶりで、雨だったがゆっくりした気分に浸ることができた。

 往路の飛行機の中と実家で、持ってきていた山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集3 想う』(2006年 小学館)を味わい深く読むことができた。ここには、1940年から1959年までに書かれた中短編の中から、「人が人を想う心情」を描いたものが選出されて収録されており、読んでいてぽろぽろ涙がこぼれるというよりも、じんわりと瞳がにじんでくるような、そんなしみじみとした作品が収められている。

 収録されているのは、「壺」(1940年)、「松の花」(1942年)、「春三たび」(1943年)、「藪の蔭」(1943年)、「おもかげ」(1944年)、「菅笠」(1945年)、「墨丸」(1945年)、「風鈴」(1945年)、「彩虹」(1946年)、「七日七夜」(1951年)、「ほたる放生」(1955年)、「ちいさこべ」(1957年)、「あだこ」(1958年)、「ちゃん」(1958年)、「その木戸を通って」(1959年)の15編である。なお、カッコ内は初出誌の年である。

 このうち、「壺」から「おもかげ」までが戦中の作品であり、時代の影響もあってだろうが、いくぶん建徳的な性格を帯びた作品になっているように思われた。

 たとえば、一編目の「壺」は、言葉の厳密な意味での「滅私奉公」の道を求める者の姿を描いた作品である。物語は、紀伊国(和歌山県)新宮の宿に剣豪として名高い荒木又右衛門が逗留するところから始まる。その宿に侍になることを夢見て剣を使う下男がいた。彼は侍になろうと自分で工夫をし、剣の修業をして、多くの武士と立ち合い、勝利をおさめていた。ところが、その下男が打ち負かせた武士の朋友たちが復讐にやってくる。荒木又衛門は下男の許嫁の頼みで、その勝負に待ったをかけ、下男は勝負に待ったをかけた荒木又衛門のすごさに打たれ、弟子になることを希望する。

 彼の希望を入れて弟子にした荒木又衛門は、剣の極意を書いた書物が壺に入れて埋めてあるので、それを掘り出すようにと彼を草原に連れていく。下男は、剣の極意書の壺を見つけるために、来る日も来る日も草原を掘り返し続ける。だが壺は見つからない。そして、最後に、荒木又衛門が「お前が掘り返した土地を見よ。そこは畑になっているではないか」と言って、彼に、さむらいとは己を捨てた者のことであり、「剣を取ろうと鍬をとろうと、求める道の極意は一つ」とさとし、「人間のねうちは身分によって定まるのではない、各自その生きる道に奉ずる心、おのれのためではなく生きる道のために、心身をあげて奉る心、その心が人間のねうちを決定するのだ」(25ページ)と語り聞かせるのである。そして、下男は荒木又衛門の教えを受けて、許嫁とともに百姓をするために自国に帰って行くのである。

 主題が、いかにも世界の列強国の中で国民を鼓舞しなければならなかった戦中の状況を表すものとなっている。表面的にはそうだが、山本周五郎らしいところがあって、その実、物語の中で荒木又衛門を動かしたのは、許嫁の娘の男を案じる純粋な心であり、二人が自分たちの幸せの道を見出していくというのが物語の骨格で、ここには、何よりも一人の人間の幸せを大切にしたいと願う作者の姿勢が込められているように思えるのである。時代の中で作者の苦労が感じられるような気もするのである。

 次の「松の花」は、紀州徳川家の藩譜編纂の責を負う主人公が、藩の中で活躍した婦人たちのことを記した「松の花」と題する一巻を編纂中に老いた妻の死を看取ることとなり、改めて妻の生き方を顧みるというものである。

 彼の妻「やす」は、大番組頭九百石の家に生まれ、おっとりとのびやかに育ち、千石の年寄役(重鎮)の佐野藤右衛門のところに嫁いできた。家計も豊かで使用人も多かったので、主婦という位置に座るだけでよく、事実、明るくおっとりとして落ち着いた生涯を送ってきたように見えた。だが、彼女が息を引き取った後、その手を触ってみれば、下女と同じように荒れた手をしていた。そして、家中の使用人ばかりかその家族までもが、彼女の死を嘆き悲しみ、その悲しみには異例とも思えるほどの深いものがあった。そして、形見分けのときに彼女の持ち物を開けてみると、そこには木綿の質素な着物と丁寧に洗い張りされて着古され、継あてのあるものばかりだった。

 自分は質素なものを身にまとい、使用人たちに交じって働き、新しいものや高価なものは全部使用人たちの祝儀、不祝儀に与え、粗末な遺品しか残っていなかった。

 そのことを知った主人公が、自分はいま「松の花」という藩の名を残した婦人たちの伝記を編纂しているが、このようにして選ばれた婦人たちだけではなく、「誰にも知られず、それと形に遺ることもしないが、柱を支える土台のように、いつも蔭にかくれて終わることのない努力に生涯をささげている。・・・これら婦人たちは世にあらわれず、伝記として遺ることもしないが、いつの時代にもそれを支える土台石となっているのだ。・・・この婦人たちを忘れては百千の烈女伝も意味がない。まことの節婦とは、このひとびとをこそさすのでなくてはならぬ」(39ページ)と思うのである。

 これもまた、戦前の極めて建徳的な作品の一つであるといえるだろう。初出誌が『婦人倶楽部』という雑誌であることを考えれば、質素に、思いやりと明るさをもって人のために生涯を生きた婦人の姿を鼓舞するものであるといえるであろう。だが、ここにも、死後に改めて妻の真実の姿を知って深く心にとめていく老武士や、そのような母親の姿を知る息子の母への思い、使用人をいたわりながらみんなで生きていこうとした女性や、そんな彼女を敬い尊ぶ使用人たちの姿など、人本当は何によって生きるのかということがさりげなく込められているのである。

 次の「春三たび」も戦中の作品で、初出誌も『婦人倶楽部』であり、出陣して死亡が伝えられる夫の武運を信じて、忍耐していく女性の姿を描いたものである。

 恩田(微禄の者に与えた耕作地)を耕して細々と暮らす貧しい徒歩(下級武士)に嫁いだ「伊緒」は、結婚したばかりの夫を「天草の乱」の鎮圧のための兵として出陣させなければならなかった。病弱な義弟と老いた義母を抱え、「伊緒」は生まれて初めての農事にも精を出して留守宅を守っていく。やがて「天草の乱」も治まり、出陣した者たちが帰ってくるが、夫の姿はなく、戦死者にも記名されていない。彼女の夫は戦場で行くへ不明となり、戦場から逃げ出したとのうわさが立つ。そこで、彼女の実家の兄も仲人も、彼女を実家に戻そうとする。だが、彼女は、自分の夫が立派に戦ったことを信じ、病弱な義弟と老いた父母を抱え、懸命に働き、野良仕事をし、洪水に襲われた時は、夜は紙すきをし、昼も夜もなく働き通していく。

 やがて、洪水の被害の取り調べの際、彼女の働きぶりが藩主の耳に届き、「天草の乱」のときの討死についての再調査が行われ、彼女の夫が立派に討死したことが証しされて、家の名誉が回復され、食録加増を受けるようになっていくのである。

 これもまた、戦中の留守宅を預かる女性の姿を建徳的に励ますという主題で書かれたものだろう。だが、この中にも、たとえば、「伊緒」の父親が彼女に願ったこととして、「父は彼女に栄達をさせようとは考えなかった、安楽な生涯をとも望まなかった、まことの道にそって、おのれのちからで積みあげていく人生を与えてくれようとしたのだ」(45ページ)という、ただ忍耐して頑張るということではなく、ひとりの自立した人間としての女性の姿が描かれようとしているのである。

 人は、時代や社会を自らで変える力を持てないかもしれない。与えられた状況と環境の中で生きることしかできないかもしれない。特に戦争といううねっていくような時代の流れの中ではそうだろう。だが、その中で、人としての矜持をもって誠実に生きることはできる。山本周五郎が戦中に描いた作品には、そうした人間の姿が描かれているのである。

 それは、友人が犯した罪を黙って負いながら生きる武士の姿を描いた「藪の蔭」も、亡くなった姉との約束を守って自分の幸せを捨てながらも甥を武士として育てようとした女性の姿を、育てられる甥の立場から描いた「おもかげ」も同じである。

 表現者が苦労しなければならない時代というものは、決して「いい時代」とは言えないが、これらの山本周五郎の戦中の作品を読んでみると、表面的な主題として出された(あるいは出さなければならなかった)建徳的要素の中で、彼が、「人が人を想う心の強さ」を描こうとしたかがわかる気がする。

 ここまで記して、若干の疲れを覚えてしまったので、この本に収録されているほかの作品については次回に書くことにして、今日は休むことにする。、
           

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