2010年3月5日金曜日

宇江佐真理『聞き屋与平 江戸夜咄草』(1)

 三寒四温の日々になっているが、今朝はどうしたことか上空を飛ぶヘリの音や車の騒音が激しく、少し晴れ間が見えて温かくなっている空気が破られている。水曜日に葬儀があって、その疲れがなかなか取れないでいるので神経が過敏になっているのかもしれない。水曜日の葬儀は、八十八年の生涯を、長くつらい闘病生活があったとはいえ、全うされた方の葬儀だったので、人は必ず死ぬという厳粛な事実を厳粛に受けとめさせられるものだった。

 昨日、宇江佐真理『聞き屋与平 江戸夜咄草』(2006年 集英社 2009年 集英社文庫)を読んで、久しぶりにじんわりと心温まる時を過ごすことができた。この書物は、文庫化された時にすぐ二子玉川で食事をした帰りに求めていたもので、数日前の新聞紙上で彼女の父さんがお母さんのために洗濯機とテレビを一大決心して買ったというインタビュー記事が載っていたのをきっかけにして再読することにしたのである。宇江佐真理の作品は、本当に傑出している。

 これは、薬種問屋の主人「与平」が、苦労して店を大きくした後、息子たちにそれを譲って隠居し、自宅の裏通りで、「お話し、聞きます」の小さな看板をかかげて、ただひたすらに人の話を聞く「聞き屋」を始め、彼に話を聞いてもらいたいと訪れる人々や彼自身の顛末が描かれている作品である。

 暗い通りの中でぽつんと小さく灯っている「聞き屋与平」の行灯の明かりの中で、人々は、そっと抱えている重荷をおろしていく。「聞き料はお客の気持ち次第のお志」だけ。アドヴァイスもしなければ、何らかの策をしめすのでもない。だが、ぽつりぽつりと人々は与平のもとを訪れてくる。与平は、病を押しても「聞き屋」を続けていく。そこには、与平自身の重荷を負った姿がある。

 与平は、人を理解する、人助けをするというような傲慢な思いを抱かない。彼は「人には理解不可能な壁がある」、「その人の人生はその人自身が歩んでいくもの」ということをよく知っている。彼は、どんな重荷を抱えるものであっても、ありのままのその人を認め、尊重していくのである。

 こういう与平の姿は、語らなければならないことの多いわたしにとっての大きな鉄槌のようにも思われる。意志表示や自己主張が謳歌される時代の中ではなおさらである。1960年代頃の岸上大作という人の「意志表示 せまる声なき声を背に、ただ手の中のマッチするのみ」という歌をときおり思い起こすが、「自分のマッチをする」だけではなく、その明かりで人々をほんのりと照らす、それが「聞き屋」であるのかもしれない。

 宇江佐真理は、『あやめ横町の人々』(2002年 講談社)でもそうだったが、人知れない重荷を抱いて生きなければならない人々を、実に温かく包むように、いとおしむようにして描いている。人の過ちや間違いを責めることも問い質すこともない。正義を振りかざすこともない。人の思いのどうしようもなさを、あるがままに受け入れていく作品を描いていく。こういう豊かな心根をもつ作家はほかに類を見ないのではないかとさえ思う。

 文章も美しい。描かれる情景に人の思いが溶け込んでいるような文章で、リズム感もあり、声に出して読んでみると、なおさらその情景が浮かび上がって来るような文章である。

 たとえば、物語の書き出しの言葉はこうである。
 「両国広小路のたそがれは、どこかうら寂しい。」(文庫版 9ページ)

 この短い一文で、物語の舞台が両国広小路の近辺であり、両国広小路は、当時、江戸で一番賑わった所であるが、その黄昏時は、どこも店を閉めてひっそりとし、ちょうど祭りの後の寂しさのような寂寞感が漂う。その寂寞感の中で、人生のたそがれを迎えた与平が小さな机をもちだしてぽつんと行灯を燈し、聞き屋を始める。黄昏のうら寂しさを知る人間が、うら寂しく生きなければならない人間の話を聞く。この書き出しの短い一文は、そうした物語の展開と情景を見事に描いた一文である。

 また、第三話「雑踏」の書き出しはこうである。
 「陰暦八月はすでに秋である。
 路上で聞き屋をする与平にも、めっきり夜風が涼しく感じられる。その年の夏はことの外、暑かった。与平は年を取るごとに暑さ寒さが身体にこたえるようになった。暑い夏が終われば今度は冬だ。穏やかな秋も与平にとっては、つかの間の安らぎに過ぎなかった。」(文庫版 109ページ)

 路上でぽつんと聞き屋をする与平の心情が、季節の移ろいを表わす言葉に見事に織り込まれている。

 こういう文章は、ひとつひとつの物事を、丁寧にいつくしむように掌の中で温める姿勢によってしか生まれてこない。日本語の美文と言っても、決して過言ではないだろう。

 『聞き屋与平』の内容については、また今度書くことにする。今日はかなりの量の仕事を終えなければならない。仕事をしていて、わたしが違和感や異質性、居心地の悪さを感じる理由は比較的はっきりしている。それは、何事かをすることがいいことで、何事かをしなければならないと思っている人々の中で、「人間は何もしなくてもいい。日々の喜怒哀楽を慈しんで生きればいいと思うわたし」がいるからである。「成功」を考える人々の中で、「成功など何の意味もない」と思う「わたし」がいるからである。夏目漱石ではないが、「とかくこの世は住みにくい」のは、いつも事実ではある。そのジレンマの中で、今日もわたしは机に向かうだろう。

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