2010年3月25日木曜日

白石一郎『江戸の海』(1)

 昨日から冷たい雨が降り続いている。春分が過ぎたとはいえ、今日あたりは季節が逆戻りしているような気さえする。桜の便りも聞こえてくるが、街路樹の下に植えられているパンジーが小さく震えている。

 白石一郎『江戸の海』(1992年 文藝春秋社 1995年 文春文庫)を読んでいるが、このところ集中して読むことができずに、読書量がかなり減退しているので、まだ初めの三話「江戸の海」、「島火事」、「十人義士」しか読んでいない。これは全部で十話からなる短編集で、これらは武骨で優しいと思われる作者の視点がいかんなく発揮された優れた短編集だと思う。

 短編として本当によくまとまっており、第一話「江戸の海」は、子どもを事故で失った罪悪感と寂寞感を埋めるために釣りに明け暮れる指物大工と、日々の生活に窮しながらお役をもらうために尻を叩かれている貧乏御家人と、自分の生んだ子どもを次々と本妻に取り上げられた妾とが、江戸湾の釣りで知り合い、嵐にあって漂流したりして、やがて釣り仲間となった妾が貧乏御家人の上司の妾であることから、その働きでお役をもらうが、もう自分の竿には江戸湾の魚はかからないのではないかと思う話である。

 ここには、それぞれの自分の人生を背負いながらも、釣りというひとつの人間の自由さを象徴する行為によって、その自由をじんわりと描き出しているものがある。

 第二話「島火事」は、瀬戸内海の小島で島火事に遭遇した船に娘が逃れて来て、船頭がその娘をどうするかの判断を迫られていく話で、娘は他の船乗りに騙されて気が触れていたことがわかっていくというものである。運命という船に翻弄されながら生きなければならない人間の悲哀と、船頭の真正直な姿が見事に描き出されている。

 第三話「十人義士」は、元禄14年(1702年)に実際に起こった長崎町年寄筆頭の高木家と肥前佐賀鍋島藩の重臣深堀家との争いを題材に、「武士の一分」を果たした深堀家の姿を中間の姿を通して描いたもので、争いがほんの些細なことから、そしてそれをめぐる狂気とも言うべき人間の高揚感から拡大していく様をよく描き出したものである。

 第二次世界大戦で、人間の狂気が吹き荒れてどうにもならなくなった過程を、わたしたちはよく知っている。集団の心理というのは、真に恐ろしいもので、集団の中では、初めに個人が意図したこととは異なった行動原理が働く。この作品は、そうした集団の行動原理を見事についた作品である。

 わたし自身は、作者の白石一郎という人がどんな人なのか知るところが少ないが、文学手法も表現も、大変優れていて、前に読んだ『十時半睡事件帖』もよかったが、この短編集も本当に良い作品だと思う。彼は、司馬遼太郎や藤沢周平とも異なった独自の視点があり、いわゆる歴史上の偉業を遂げた人物などには関心がなく、ひたすら歴史に埋もれ陽が当たらない人間や、何の評価も得られずに無念のうちに死を迎えながらも自分の本分を果たしていった人間を描き出している。

 こういう作者の姿勢は、実際それを貫くことが難しいのだが、どの作品にも一貫しているように思えて、いまのわたしが「かくあるべし」と思っていることと重なり、琴線に触れてくる。続きは今夜にでも読もう。

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