2010年3月12日金曜日

宮部みゆき『日暮らし』(3)

 昨日春の日差しが戻り、今日、明るい日差しの中で温かさが少し戻ってきたが、まだ風は冷たい。人間は世界に包まれて生きているので、環境の変化に対応するようにできているが、齢を重ねるとその機能がうまく働かないのか、このところの気温の変化で少し風邪をひいたようだ。今朝からどうもすっきりしない。昨夜、大根と里芋の煮つけを作って食べたが、いつもなら「おお!」と思っていただくのに、昨夜は身体が重く感じられた。

 しかし、そのすっきりしない中で、宮部みゆき『日暮らし』を、とてもすっきりした気持ちで読み終えた。この作品に限ってかもしれないが、作者がこの作品を自ら楽しみながら書いていることが伝わってきて、作者は、てらいも気負いもなく、正直で真直ぐの人のように感じられた。

 たとえば、物語の展開とはあまり関係がないが、下巻198ページで、
 「秋が来て日暮れが早まることを、秋の日はつるべ落としという。しかし、陽が詰まるのは、何も日暮れが早くなるせいだけではない。夜明けも遅くなる。だのに、そっちを言い表わす言葉はない。何でかな、というようなつまらないことを話しながら、ぶらぶらと歩き始めた。小平次は提灯をもっている」と、早朝の暗い中を井筒平四郎と彼の小者の小平次が江戸から川崎に向けて旅立つ情景が描かれている。

 この主従が「何でかな、というようなつまらないことを話しながら」歩いている姿には、主従の信頼関係や井筒平四郎のざっくばらんな性格が見事に表わされているし、作者自身が日常でこういう会話を楽しんでいるのではないだろうかと思わせるし、こういうことがすんなり書ける作者のねじ曲がっていない心根をうかがうことができるような気がするのである。

 第四話「なけなし三昧」は、井筒平四郎が懇意にしている幸兵衛長屋の煮売り屋の「お徳」の近所でお菜屋を始めた「おみね」という女の話から始まる。「おみね」は採算を度外視して高級食材を使った菜(おかず)を安く売り出し「お徳」の商売は上がったりになっている。「おみね」は艶のあるいい女で、「おみね」が採算を度外視して安く売り出すのは、近所の評判をとるためだという。

 しかし、「弓之助」がその真相を見抜いて、「おみね」は誰かに気づいてもらいたくてあんな商売をしているのではないかと言う。事実、「おみね」は両国橋のたもとで仕出し屋をしていて、亭主と子ども二人がいたが、言い寄って来た男と不義の中になり、亭主や子どもを捨てて家を出、男が来るのを待っていることが次第に明らかになる。

 ところがその男が女を食い物にする悪で、容姿がいいのを餌にして、あちらこちらの女や娘を騙しては金を巻き上げている男で、餌食にされた娘が縊死する事件や油問屋の若女将を殺した事件を起こしていたことが判明し、「人を好きになるとはどういうことか」という問題で相談に来ていた弓之助の従姉を本人の申し出で囮にして捕まえることとなる。

 この中でも、縁談の話が持ち上がって「人を好きになるとはどういうことか」ということを悩んでいる弓之助の従姉と、その従妹を連れてきた弓之助、平四郎との会話が次のように記されている。

 「おまえはどう思う?」
 弓之助は及び腰になった。「何をでございますか?」
 「人を好きになるとはどういうことか」
 美形の顔が、ちょっと歪んだ。「さあ、わかりません」
 「わからないなら考えろ」
 ・・・・・・・・・・・・・・
 「好きになると、ずっと一緒にいたくなるでしょう」
 「うん、それから?」
 「その人と楽しく暮らしたくなります」
 「それから?」
 「その人の笑う顔が見たくなりますし、困っていたら、助けてあげたくなります」
 平四郎はおとよ(従姉)に目を向けた。「どうだ、得心がいったかい?」(上 223-224ページ)

 そして、平四郎は、「それでは人が嫌いになるとはどういうことか」というおとよの問いに、人を嫌いになることはその反対のことだよ、と語る。

 十三歳の子どもたち相手にした会話とはいえ、こういくくだりが無理なく展開されて、この作品の絶妙な魅力となっていくところがいい。

 表題作にもなっている第五話「日暮らし」は、いよいよ本書の中心をなす展開で、上下巻にまたがった長いクライマックスで、第三話で語られる「お六」が住む込みで働くことになり、見事に「お六」をストーカーの手から救い出した佐吉の実の母の「葵」が殺され、実の母を訪ねていってそこに居合わせた佐吉が殺人犯として捕えられるところから始まる。「葵」は、俵物問屋として手広く商売をしている主人と関係ができ、俵物問屋の主人の妻の悋気によって殺されかけたが、俵物問屋の主が隠して囲っていた。佐吉はそのことを知り、母親に会いに行った時に、その母親が殺されていたのである。

 ここで、井筒平四郎は、佐吉を信じ、真相を探り始める。そして、弓之助の頭脳明晰な名推理が働き、その殺人事件が佐吉によってではなく、ほかの人間によってなされたことを突きとめていくのである。俵物問屋の内情のどろどろとした人間関係やその中で翻弄されていく人間、推理を重ねて明快な結末を導く弓之助の姿、それを信じている叔父の井筒平四郎の姿など、実に丁寧に話が展開されている。そして、誰一人悪者にしない弓之助やそれを助ける「おでこ」、そして、初めから信頼をもって事に当たる井筒平四郎の懐の深さ、それが実に聡明に面白く展開されていく。その展開は読者をひきつけてやまない。

 そして、第六話「鬼は外、福は内」は、それらの結末で、弓之助の従姉が嫁いでいく婚礼の式に繋がっていく。ぎっくり腰を起こして釣り台(戸板のようなもの)に乗せられて、佐吉のところに事情を話しに行った井筒平四郎は、釣り台に乗って青空を見ながら思う。
 「みんな、毎日をこんなふうに暮らせたらいいのになぁ。
 でも、そうはいかねえんだよなぁ。
 一日、一日、積み上げるように。
 でめえで進んでいかないと。おまんまをいただいてさ。
 みんなそうやって日暮らしだ。
 積み上げてゆくだけなんだから、それはとても易しいことのはずなのに、時々、間違いが起こるのは何故だろう。
 自分で積んだものを、自分で崩したくなるのは何故だろう。
 崩したものを、元通りにしたくて悪あがきするのは何故だろう。」(下 367-368ページ)

 『日暮らし』という書名は、ここから採られたものだろう。いずれにしても、この作品は傑作の部類に入るだろう。謎解きをするのが主人公ではなく、少年の「弓之助」であるのが、そして、井筒平四郎の清濁併せ飲んで平然と、しかも周囲を信頼している懐の深さが見事に軽妙な語り口で描かれるのが、作品を豊かにしている。まことに興味のつきない面白さに出会った作品である。

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