2011年4月20日水曜日

風野真知雄『耳袋秘帖 妖談うしろ猫』

 このところ少し肌寒い日々になっている。先日、都内に出かけた折に、神田川のほとりに植えられた桜の木々から花びらが舞い落ちる光景をしばらく眺めていた。桜の花びらには、決して華やかさなどなく、どこか淡くて哀しみを誘うものがある。葉桜の柔らかな黄緑も、なんだかそんな気がした。

 電車の往復と帰宅してから風野真知雄『耳袋秘帖 妖談うしろ猫』(2010年 文春文庫)を読んでいたので、ここに記しておくことにした。この作者の作品は初めて手にしたが、文庫本のカバーによれば、1951年福島県出身で、フリーライターを経た後に1993年に『黒牛と妖怪』で歴史文学賞を受賞され、その後いくつかのシリーズを含めてたくさんの作品を出されているようである。

 江戸時代中期から後期にかけての南町奉行所の名奉行として知られる根岸肥前守鎮衛(ねぎし ひぜんのかみ やすもり-1737―1815年)が書き残した巷の奇譚や世間話を集めた『耳袋(耳嚢)』を題材にした小説は、たとえば、宮部みゆきや宇江佐真理なども用いているし、根岸肥前守が、父親が御家人株を買い取って下級武士となった家の出であるにもかかわらず、才能を発揮して佐渡奉行、勘定奉行、南町奉行と異例の出世を遂げていき、あまり物事にこだわらない大らかさや分析力の鋭さ、何事も前例を重視した江戸幕閣の中で前例に固執せずに現実的な判断をしていくところなどが愛されて、いくつかの作品に好人物として登場している。

 平岩弓枝『はやぶさ新八御用鋹』のシリーズでは、主人公である内与力(奉行つきの与力)の「はやぶさ新八」を使って、名推理を働かせながら事件の解決を行う名奉行として、新しいところでは坂岡真の『うぽっぽ同心』シリーズで、主人公を深く理解する「薊の旦那」として登場したりしている。

 実際、1805年に起こった町火消しと相撲力士たちの乱闘事件(「め組の喧嘩」と呼ばれる)では、事件の張本人だけを厳罰にして残りを軽罪や無罪としたり、窃盗事件でも事情をよく調べて、人情的な裁きをしたりしている。多くの人たちから慕われたことは事実である。

 風野真知雄『耳袋秘帖』は、この根岸肥前守を直接主人公に据えた作品で、彼の意を受けて手足となって働くのが、謹慎中の南町奉行所定町廻り同心の椀田豪蔵(わんだごうぞう)と肥前守が新しく使用人として雇った宮尾玄四郎である。

 椀田豪蔵は、柔術が得意な大柄の男であるが、性格は極めて素朴で朴訥でさえある。彼は剛胆であるが幽霊をすこぶる恐れるところもある。口やかましい姉に尻をたたかれながら生活している。宮尾玄四郎は美男子で身のこなしも良く、手裏剣の名手だが、醜女に美を感じ、醜女が好きな男である。変わり者の二人であるが、根岸肥前守の人柄や明晰さに深く敬服しているところがあり、肥前守の危機に際しても身を挺して守っていくような人物である。

 ここに収録されている序章を含めた七編は、いずれも、根岸肥前守の『耳袋』に記されている事柄を題材にしているのだが、それを作者ならではの想像力を駆使して、現実味のある物語として発展させたもので、「奇譚」に対する現実感覚を発揮する肥前守の好判断が光っている。また、肥前守の亡妻を慕う思いや、一風変わった子どもへの大らかな対応なども盛り込まれている。

 根岸肥前守は先述したようにたくさんの作品に登場するが、彼を直接主人公にしたような作品は案外と少ないし、内容の詳細はここでは記さないが、本書は新展開の第一巻目の作品である。この作品では文章も構成も、その人柄を反映したように柔らかくて、楽しみなシリーズに出会ったと思っている。

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