2011年4月1日金曜日

佐伯泰英『無刀 密命・親子鷹』

 怒濤のようにして過ぎた三月が終わり、本来なら桜舞う四月を迎えた。来週は少し気温も下がり、「花冷え」という美しい言葉もあるが、このところ気温が上がっている。だが、地震と津波による被害はあまりにもひどく、あまりにも広域で、加えて懸命な作業が続けられているとはいえ、福島の原子力発電所からの高濃度の放射能漏れの収拾もめどが立たず、土壌や海洋汚染が広がっている。原子力発電所のある地帯は、今後何十年にもわたっての死の土地となる懸念もある。


 テレビで、特に民放で取り上げられるスポーツ選手や芸能人の「ガンバレ」という呼びかけにも、安価でうんざりする。妙なナショナリズムの高揚も行われ始めた。言われなくても生き抜かざるを得ない状況だし、忍耐しなければならない状況なのだから。現地の人たちは黙々と歩み始めている。少なくとも大仰に呼びかけたりしないで、粛々と支援したらよかろう。昨日、ささやかな支援物資を宅急便に託す作業をしながら、そんなことを思っていた。


 閑話休題。風邪で寝込んでいた時に佐伯泰英『密命 弦月三十二人斬り<巻之二>』(2007年 祥伝社文庫)を読んだので、昨夜は手元にあった佐伯泰英『無刀 密命・親子鷹』(2006年 祥伝社文庫)を読んだ。前者の方の発行年が遅いのは新装版だったからであり、本作はその密命シリーズの第15作目の作品だが、奥付を見て、同じシリーズ物であるにも関わらず、書名に<巻之十五>という記述はないし、表題の仕方も変わっているのは何故だろうと、ふと思ったりもした。些細なことではあるが、出版社の編集者はこういうところに気を使って欲しい気もする。


 これまでの内容は「巻之二」からずいぶん進んで、直心影流の達人である主人公の金杉惣三郎は、思いを寄せていた「しの」と再婚し、市井に生きる者として火事場の後始末を請け負っている「荒神屋」で帳簿つけをする仕事について糊口をしのぎながら、剣術指南をしているし、自分の道を見いだせずに荒れていた長男の清之助は、剣の道に邁進し、徳川吉宗の御前試合で剣名をあげ、諸国に修行の旅に出ている。しっかり者の長女「みわ」は、家計を支えるために八百屋で働きながら、火消し人足である「鍾馗の昇平」と恋仲になっている。


 本書では、家出をした次女の「結衣」が金杉惣三郎を暗殺しようとする尾張徳川家の暗殺集団に利用されそうになるのを、救い出すために、父親の金杉惣三郎が剣の修行中であった清之助と尾張名古屋で合流して無事に救い出して、清之助が世話になっている大和柳生の庄に滞在することになることころから始まる。


 大和柳生は柳生新陰流の発祥の地であるが、柳生家の歴史的経過の中で尾張柳生とは競い合う間柄でもあった。剣名の高い金杉親子を迎え、その人柄に触れて、大和柳生は活況を取り戻していく。金杉親子の剣名のために多くの武芸者が大和柳生を訪れるようになり、これを機に、大和柳生では金杉親子による大稽古を催すことになるが、尾張の暗殺集団の執拗な攻撃も続く。そういう中で、金杉惣三郎と清之助は、それらの暗殺集団の手をことごとく払っていくのである。


 また、江戸では、長女の「みわ」に思いを寄せる火消し人足の「鍾馗の昇平」が、金杉惣三郎から厳しい修行で仕込まれた剣と人柄から火消しの花形である纏持ちに抜擢されるということになり、それを嫉んだ先輩火消しから次々と刺客を送られるようになったりして騒動が持ち上がる。「鍾馗の昇平」は剣の師匠である金杉惣三郎から教えられた業で、それらの刺客をかろうじて倒していくが、剣の修羅場に引き込まれていくことを危惧した剣術道場主は、剣の修行をすることを止めさせ、「鍾馗の昇平」は、「みわ」を初めとする周囲の人々の心使いを知って、纏持ちとしての道へ邁進することにするのである。


 本書で、大和柳生と江戸でのこうした展開が繰り返されるのだが、正直なところ、剣の達人として描かれる金杉惣三郎と息子の清之助の姿が、剣においてはあまりにも超人的で、人柄においてはあまりにも理想的すぎる気がしないでもない。いくら剣豪小説でも、これはできすぎではないかと思わないでもない。もちろん剣豪小説としてのおもしろさはあるのだが、くりだされる秘剣というのが無敵すぎる気もするのである。「鍾馗の昇平」を支える「みわ」の心や、それに応える「鍾馗の昇平」も理想的すぎる気がしないでもない。いい男やいい女ばかりが登場する小説というのは、娯楽小説としては面白いが、ただそれだけのような気もする。また、「巻之二」で示された社会背景の陰というのも、このあたりになると薄れて、現状肯定の保守的な根性小説に陥る危険性を感じたりもする。「巻之二」で示された人間への鋭さは、少なくともここでは薄まっているのではないだろうか。


 批判的なことを書くのは、読み手であるこちらの気分が批判的になっているからでもあるし、客観性に乏しいのかも知れないが、そんなことを思いながらこの作品を読み終えた。

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