所用で仙台まで出かけていた。震災の復興作業のためにどのホテルも満室でホテルの利用を諦めていたのだが、ようやく少し高めのホテルに一室だけ空きが見つかった。ただそこは禁煙室で、愛煙家のわたしには少し酷な状態で過ごさなければならず、夜中に戸外まで喫煙に出たりして、快眠とはいかない滞在となった。
津波の被害がなかった内陸部でも震災の爪痕は色濃く、翌日出かけた沿岸部では言語を絶する光景が広がっていた。自治体が大きくて比較的組織化されている仙台市でもそうだから、小さな自治体で壊滅的な被害を受けた地域では、復興はまだ遠い気がした。しかし、それでも人は生きているし、また生きていける力を持っている。東北の底力のようなものも感じられて、大きな励ましを覚えたりもした。
往復の新幹線はまだ速度を落とした状態で、普通よりも時間がかかったのだが、その分、もっていった風野真知雄『耳袋秘帖 妖談しにん橋』(2010年 文春文庫)を読了することができた。前回に続いてシリーズの三作目で、これまでのこのシリーズの出版年がすべて2010年だから、かなり没入して一気に書かれたものではないかと思い、何事もスローペースなわたしのような人間には驚異的に映る。
本書の扉に「足かけ十八年にも及んだ根岸肥前守鎮衛の南町奉行としての仕事の中で、ただ一つ、後々まで切歯扼腕し、悔いることになったのが、この『しにん橋』にまつわる一件だったという」という言葉が記され、これから語られることが、明晰で「酸いも甘いも噛み分けた」根岸肥前守が幾分かの後悔をもって一件の結末を迎えたことが示唆されている。
この一件がどういう事件で、根岸肥前守がどのように切磋扼腕し、幾分かの後悔を覚えたのかが、本書の全体を貫く展開である。
その一件というのは、深川の海沿いに架かっている小さな仮橋を月夜に四人で並んで渡ると、その影が三つしか見えなくなる時があり、その時に影が消えた人物が一両日中に死に至るという出来事である。そして、その噂どおり、影が消えた人物が次々と死んでいくという奇妙な事件が起こったのである。
その全体を貫く事件の中で、このシリーズの特徴ともなっている『耳袋(耳嚢)』から採られたいくつかの奇談にまつわる出来事の真相が解明されていくのであるが、たとえば第一章「黒を白に」は、人語を話す長寿猫について記された『耳袋』の奇談と共に、行くへ不明となっていた鍋料理屋の元女将が飼っていた黒猫が、白猫になって戻ってきた話で、そこには街並みの景観を暗い黒から明るい白に変えることに、街の重みと尊厳がなくなるような気がして反対していた元女将を説得するために町屋の人たちが黒猫とそっくりに白猫を飼い慣らして、元女将に「白も悪くない」と思わせようとする柔らかくてゆっくりした、それでいて粋な計らいがあったことを肥前守があきらかにしていく話である。
「黒を白に」の結末は、町の人たちの粋な計略を知った元女将が説得を受け入れ、しかも黒猫とその黒猫の身代わりを白猫の二匹の猫を飼うことにしたという、これもまた粋な結末となっている。
第二章「その筋の神さま」というのは、ある旗本屋敷の庭の崖がくずれて、そこから表れた石像を泥棒よけの神さまとして祀っていたが、それは元大泥棒の石像で、泥棒の石像が泥棒よけになるという江戸時代の巷の人々がもっていた「信心」の一コマを描きながら、肥前守の手先となって働く同心の椀田豪蔵が謹慎処分となった原因の旗本の次男、三男のごろつき武家集団のひとりが「しにん橋」で影がなくなり、殺されて見つかるという事件が描かれたり、手裏剣の名手で美男の宮尾玄四郎の醜女好きぶりが描かれたりする中で、「しにん橋」の近くの永代橋の橋番の爺さんが、若い頃の肥前守の知り合いであるということがわかったりするという「しんに橋」事件の複線が貼られている。
第三章「久米の職人」は、美女に見とれて空から落ちてしまった「久米の仙人」の故事のように、『耳袋』の中の、入浴中の美女を見ようとして二階から落ちてしまった医者の話である「婦人に執着して怪我をした話」を入れながら、碁盤や将棋盤を作る職人が湯屋の二階から落ちて死んだという事故の裏にある真相を突きとめていくという話である。そして、その話の中で「しにん橋」の事件に、この事件の何かが絡んでいるということが示唆されているのである。
第四章「夏の病」は、仕入れ金などの支払いに迫られた搗米屋(つきごめや)の主人が仮病を騙って親類縁者に金を出させたという『耳袋』の話を基に、元気にしていた薬種問屋の後継ぎが「夏枯れ」のような奇妙な症状で死んだことを知った肥前守が、その真相の究明に乗り出し、そこに高価な人参を大量に入手するために薬種問屋の後継ぎと結託していた医者が、こんな男は死んでもいいと思ってトリカブトの毒を飲ませていたことを明らかにしていくというものである。
そして、高価な人参の仕入れ先が抜け荷(密貿易)と絡んでおり、ここで「しにん橋」の事件との関連性が語られていくのである。ここで医者の正体を暴くために、宮尾玄四郎に恋心を抱いて恋の病に陥った椀田豪蔵の姉が一役買ったりするし、抜け荷の横取りを企んだ旗本の次男・三男の武家集団との対決も描かれる。
終章の第五章「だいぶ前から」は、いよいよ「しにん橋」事件の決着で、「しにん橋」の影が消えるのが抜け荷の合図のための光が当たるためであることや、抜け荷をしていた一味が、そのことに気づいた者たちを殺していたこと、そして、その一味の首領が、肥前守の若い頃の知り合いである永代橋の橋番の爺さんであったことなどが明らかにされていく。抜け荷一味には、隠れキリシタンなども絡んでいるが、捕り方の中で、肥前守のすごさを認めながら一味の首領であった爺さんが息を引き取るのである。
これで「しにん橋」の事件は落着を見るのだが、永代橋で怪しげな動きをしていた男がいて、橋番をしながら抜け荷の見張りをしていた一味の首領の爺さんは、その男のことを不審に思っていた。爺さんは肥前守の腕の中で息を引き取る時、その男のことを遺言のようにして語っていた。そこで、肥前守がよく調べてみると、彼が真の悪党であることを感じ、彼を捕縛する。そして、その男は牢で自死する。しかし、男が仕掛けた罠があって、それは永代橋に切り込みを入れるというものであった。肥前守はそのことに気づかなかった。
そして、それから六年もして、富岡八幡宮の祭礼の日に、大勢が押しかけた永代橋が崩れ落ち、多くの死者が出る。壊れた橋の跡を調べてみると、そこに六年前に男が仕掛けた切り込みがあり、肥前守が自分の不明さを悔やむのである。
実際、1807年に富岡八幡宮の祭礼で大勢が乗ったままで永代橋が壊れ、およそ千五百人もの人が死んだといわれるが、この出来事と事件を結び着けて話が展開されたものになっている。
例によって、いくつかの『耳袋』の話が盛り込まれて混在し、それが複線にはなっているのだが、その複線が多すぎて全体を貫くものが散逸されていくきらいがないではないが、それぞれの逸話が特徴的なので、作品としての面白さがある。
266ページに「もしかしたら、人、いやあらゆる生きものの命とか魂とかは、ずうっと遠くからやって来たのではないか。しっかりと根づいた人間は、もうそのことを思わない。だが、根づくことができない人間、いつまでもさまよったり、漂ったりする人間というのは、それを心のどこかで感じているのではないか」という一文があって、これが、作者自身が感じている漂白の人生の心情ではないかと思ったりもする。
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