2011年5月23日月曜日

山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集2 惑う』(2)

 昨日の午後から雨が降り出し、気温が急激に下がって、一昨日の半分ほどの低温になった。今日も雨模様で若干の寒ささえ感じる。少し疲労が蓄積しているような感じがして、脳細胞もなかなかうまく働いてくれないのだが、起き出して溜まっている書類を片づけたりしていた。

 さて、山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集2 惑う』(2005年 小学館)に収められている「おたふく」、「妹の縁談」、「湯治」についてだが、主人公の「おしず」が素晴らしく素敵な女性なので、ここで改めて記しておきたいと思ったのだが、作品が発表された順番が、主人公の「おしず」の歩みを遡る形で書かれているので、ここではこの三作を合わせた形で、まず「妹の縁談」と「湯治」について触れ、それから「おたふく」へと進んで行くことにする。

  「おしず」は、指物職人をしていた凝り性の父と、その父に黙ってついていくような母との間に生まれた長女で、上に兄が二人と妹の「おたか」がいる。長兄は縫箔職人となり、既に所帯を持って家を出ている。だが、次兄の「栄二」は、版下彫りの弟子に入ったが、書物好きが災いしたのか、幕政を批判して改革を目論む浪人たちの仲間となり、禁制になっている山県大弐の『柳子新論』という書物をもっていたところを幕史に捕らえられ、三年間入牢させられ、五年間の江戸所払いとなっていた。

 この次兄の「栄二」は、「この悪い世の中をひっくり返して、みんなが仕合わせになれるようにしようとしているんだ」と言って、母や妹たちから金をせびり、それでは足りないと怒り、着物などを質入れさせて、その大儀のために家族からむりやり金をせびっていく暮らしをしていた(「妹の縁談」、本書115ページ)。ときおり帰ってきては、「世の中のためだ、みんなのためだ」と言って、母親や妹たちを見下したようにして金をせびっては、またどこかへ行ってしまうという具合だった。

 そんなことで、近所へも肩身が狭くなり、だんだん居辛くなって、「おしず」が二十一の年に、日本橋の長谷川町へ転居せざるを得なくなり、「おしず」が端唄や長唄を教え、「おたか」が仕立屋に勤めながら両親を養って、近所とは義理を欠かない程度に暮らしている。「おしず」も「おたか」も、近所での評判の器量よしだが、次兄の「栄二」のことや両親を養わなければないこともあって、婚期をはるかに逃した年齢になっているし、端唄や長唄を教えていることから、「おしず」には誰か金持ちの旦那がいるのではないかと噂されたりもしている。

 しかし、そんな中で「おしず」は、天性の底抜けの素直さと明るさがあり、あっけんからんとしていて、姉妹二人の口から人の悪口や非難、恨みや嘆きなどが語られることは決してなく、「おしず」を知る者は、「みんながおしずさんのような人だったら、世の中はもっと住みよくなるわねえ」(118ページ)と言われたりする。

 たとえば、端唄や長唄を教えながらも師匠の所に手直しに行った時など、手直しに行くたびに変な癖がついていて、師匠から注意されると「あらそうかしら」と言って、もう一度師匠にやってもらうと、子どものようにあけっ放しに感心しながら、「あらほんと、ふしぎねえ、どうしたんでしょう」と言ったりする。

 そのあたりの師匠との会話で「おしず」らしさがよく表されているので、少し抜き書きしてみる。

 「あらほんと、ふしぎねえ、どうしたんでしょう」
 「ふしぎなのはこっちだよ、また出稽古先の近所に常磐津の師匠でもいるんじゃないのか」
 そう云われると思い出すらしい。
 「あらいやだ、お師匠さん知ってらっしゃるんですか」
 「知りゃあしないさ、いつもの伝だからそんなこったろうと思ったんだ、とにかくまあ近くにほかの稽古所のある処は除けるんだね」
 「そうねえ、孟母三遷ってこれだわねえ」
 「なんだって・・・・孟母・・・」
 「あら違ったかしら、君子のほうかしら」
 にこにこ笑って舌を出すのである。当人としてはちょっと気の利いた合槌のつもりであるが、このへんで勘斎翁(師匠)はたいてい絶句するのであった」(「妹の縁談」102ページ)。

 「おしず」という女性は、万事、こんなふうなのである。お弟子さんをとるときでも、自分であまりうまいほうではないと言うことをよく承知していて、はにかみながら、「ほんとに覚えたいのならよそのお師匠さんのところへいらっしゃい、あたしのはほんのまにあわせなんですから」と言うのが常であったが、「おしず」の底抜けのすなおさや明るさ、小さな子どもでもつい笑い出すようなことを平気で言ったりする話がひどく面白くて、桁外れな「頓狂」なことを言うが、本人はいたって真面目で、そこがまた面白くて、弟子たちよりもその家族に好かれるといった具合なのである(108ページ)。

 この「おしず」が、妹の「おたか」の幸せを願って、その縁談に奔走するのが「妹の縁談」で、姉をおいて自分だけ嫁に行けないという「おたか」のために、縁談先に行き、正直にすべてを話して、「でも、あのこは本当にお宅へ来たがっているんです、そしてあたしもぜひ貰って頂きたいんです」と、その思いを素朴に伝えるのである。

 「おしず」は、子どもの頃から、人から騙されても、自分が騙されたとは思わない娘だった。お使いを頼まれて出かけた途中で、猿回しに見とれていたときに、ひとりの男の子が「おいらが使いに行ってやるから、おめえは此処で見て待ってな」と言って「おしず」から小銭を受け取ってどこかにいってしまっても、「おしず」は日暮れまでずっと待ち続け、何日も何日もそこに行って男の子を待ち続け、ついに男の子が根負けして金を返すということがあったりした(「湯治」139-140ページ)。

 その「おしず」が、妹の婚礼を控えて、「世の中のため」といって大儀を振りかざしては金をせびる次兄の「栄二」と真正面から対峙して、「貧しくって困っている自分たちから金を巻き上げて、何が世の中のためだ」と言い切りながらも、栄二が出ていくと、大切にしていた衣類を掴みだして、「栄二兄さーん」と追いかけていくのである。

 そして、この「おしず」が、長い間思いを胸に秘めていた男との結婚とその夫婦の姿を描いたのが「おたふく」である。

 「おしず」が長唄の出稽古に行って親しく行き来するようになっていた著名な彫金家の弟子に「貞次郎」という職人がいて、彼は、師を凌ほどの腕をもっていたが、性格が狷介なのと酒好きとで、三十四五歳になっても独身だった。その彫金家に出入りするうちに、「おしず」は密かにその「貞二郎」を想うようになっていたのである。しかし、相手は江戸中に名を知られた職人だし、「おしず」の家の事情もあり、彼女の歳のこともあり、その恋がかなうとはとうてい思えなかったのである。

 だが、「おしず」の想いは強く、せめてその人が彫ったものだけでも身につけたいと思って、金を貯めては「貞二郎」が作る細工物をひとつひとつ人に頼んで密かに買い集めたりしていた。彼女は、もう三十六歳になるが、彼女の想いはずっと一途だった。

 他方、「貞二郎」は武家育ちだが非凡で、仕事にかかると飯も忘れるほど没頭する性格だったが、酒好きとなり、仕事はできても酒に溺れるほどで、師匠夫婦も先行きを案じて、縁談話を持ち出すが、決してそれを受けつけなかった。そして、先行きを案じていた矢先に、ふとしたことで「貞二郎」の嫁として「おしず」の名前があがるのである。いままで縁談には見向きもしなかった「貞二郎」は、その話を聞くと、即座に「宜しくお願いします」といって、自分から進んで住む家を探し始めたりする。「貞二郎」も「おしず」に対する密かな想いがあったのである。

 こうして、「貞二郎」と「おしず」は、晴れて夫婦となり、相愛の二人は、人もうらやむほど仲がいい。「おしず」は「貞二郎」のために細々と世話をし、職人気質の「貞二郎」もそれを喜ぶようになっていく。それは、こういう女性と暮らすと、本当に楽しいだろうな、と思われるような暮らしぶりである。

 だが、あるとき、ふとしたことで「貞二郎」は、「おしず」の持ち物の中に、かつて自分が彫って大店の贔屓筋に収めたことがある細工物があることを知る。それも、ひとつやふたつではない。そして、かなりな男物の衣類が箪笥に入れられていることを知る。そのことで「貞二郎」は、「おしず」が大店の贔屓筋の囲い者だったのではないかと疑い、悋気に身を焼くようになっていく。酒浸りが始まる。「おしず」に対する態度も変わり、「おしず」もとまどうようになる。

 ある夜、妹の「おたか」と行き違いになって、「おしず」が留守のときに「おたか」が訪ねてくる。「貞二郎」は、ついに「おしず」が持っていた自分の細工物や男物の着物を出してきて、「おしず」のことを聞く。そして、「おたか」から「おしず」がいかに「貞二郎」のことを想っていたか、「貞二郎」が作ったものをせめて身につけたいと大店の主に頼んで買い集めたか、「貞二郎」のことを想って着る当てもない着物を縫い続けたかを聞かされるのである。

 「貞二郎」は、「あいつがいなければ、おれはもうあがきもつきゃあしない」と言い、自分が馬鹿げた勘ぐりをして悋気を起こしていた、どうかゆるしてくれ、と「おたか」に語り、「おたか」は「姉さん、聞いて、貞さんのいま云ったこと、聞いたわね、・・・苦労のしがいがあったわね、姉さん、本望だわね」といって涙を流す(98ページ)。

 そして、そこに「おしず」が帰ってきて、相変わらずの頓狂さに笑い転げ、「おしず」は「貞二郎」が元に戻ってくれたことを喜ぶのである。「おしず」の温かさがすべてを氷解させていく光景で「おたふく」は終わる。

 こういう底抜けに素直で素朴で、いまの言葉で言えば「だいぶ天然」で、正直で、物事を決して悪くとらないような女性、しかも、地に足がついているようにして生きていく女性、それは作者の理想像のひとつだったかもしれないが、それが物語の中で生き生きと描き出されて、作品としても優れたものになっている。人が生き生きと生きている姿をこの作品群は見事に描き出すと同時に、借り物の「大儀」を振りかざしたり、世評に振り回されたりして生きることがいかに意味のないことかも静かに語っている。「おしず」という愛すべき女性の姿を通して、苦労の多い中でも喜んで生きることができる人間の姿が描き出されているのである。

 いずれにしろ、小学館から出されているこの『山本周五郎中短編秀作選集』は、全五巻を買いそろえて蔵書のひとつにしたいと思っている。時代小説の神髄のようなものがここにあるような気がするからである。

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