2011年5月14日土曜日

諸田玲子『天女湯おれん これがはじまり』

 降り続いた雨が上がって、ようやく爽やかな新緑の五月を感じる日になった。福島の原子力発電所のメルトダウンが報じられ、この近郊でも放射能汚染の被害があることが伝えられたが、制御不能の事態はこれまでと変わりなく、風と雨と海流によって汚染の拡散が今後も広がっていくだろう。

 ただ、事態の収拾に向けての可能な限りの懸命な努力が続けられていることは事実で、こういう事態の中で無責任な「誰かの責任を問う」といった愚かな風潮が広がっていることは危惧している。

 そんな中で、江戸時代の大火で被災した主人公を描いた諸田玲子『天女湯おれん これがはじまり』(2010年 講談社)を、物語の面白さと合わせて、「災害の中で行く抜く人間」という別の視点でも読んだ。文学がもつ不思議な「預言的機能」ということも感じたわけである。

 諸田玲子の作品は久しぶりな気がする。この『独り読む書の記』に記しているのを調べてみたら、2010年11月25日に、浅井三姉妹の「お江」を描いた『美女いくさ』以来で、その時も久しぶりに彼女の作品を読んでいた気がしたのだが、今回も、約半年ぶりに読んだことになる。

 この作品は、以前に出されていた『天女湯おれん』(2005年 講談社)で描かれていた主人公の「おれん」が、なぜ、天女湯という湯屋の女将になったのかの理由を記す、文字通り「これがはじまり」の書で、続編ではなく遡った前史を記すというところに、作品としての面白さや作者自身の現在を感じた次第である。

 諸田玲子という作家は、これまで読んだ限りでは、実に多才で、作品に応じた書き方をすることができる作家で、シリアスなものはシリアスに、ユーモアのあるものはユーモアに富んだ描き方ができて、たとえばこの『天女湯おれん』は、彼女の『あくじゃれ瓢六捕物帳』などの作品群に属する作品だといえるだろう。

 前作の『天女湯おれん』は、もうずい分前に読んでいて、この『独り読む書の記』に記していないことからすれば、少なくとも2009年以前には読んでおり、「おれん」という美貌でしゃきしゃきの江戸っ子気質をもつ主人公の、そのしゃきしゃきぶりが見事に描かれる中で、男女の生々しい描写などがあり、それがまた光っていたのだが、この『天女湯おれん これがはじまり』では、その生臭さが消えて、その分、火事で焼け出された「おれん」が気丈に立ち直っていく姿が中心に描き出されている。そこに、災害で多くを失いながらも、その中を生き抜く姿を感じたりもしたわけである。

 「おれん」は武家の娘であったが、母親が上役から手籠めにされて自害し、父親はそのことで自ら浪人となり裏店に住んでいたが、その父親が貧しい暮らしがたたって湯屋で倒れ、その湯屋の主から助けられたことが縁で、湯屋で居候をして働いていたが、父親が病死した後、その湯屋の主である利左衛門の養女となって育てられた女性である。

 だが、文政十二年(1829年)に神田佐久間町河岸から出火した大火によって、すべてが焼け、義父の利左衛門も焼け死に、彼女が思慕を寄せていた町奉行所吟味方与力の嫡男である新村左近も失ってしまう。「おれん」と新村左近は相愛だったのだが、身分違いということで、「おれん」が泣く泣く身を引いた仲であった。そして、火事に見舞われた「おれん」を助けに火事場に飛んできてくれたのだが、燃えさかる梁が肩に落ちて命を失ってしまうのである。

 焼け出された「おれん」は、お救い小屋(幕府の救済小屋)で生活を始める。そこには、元の湯屋の裏にあった裏店の住人たちもいる。やがて、それぞれのところで復興が始まっていくが、裏店の家主も焼死して、その後を継ぐはずだった娘が親族にだまされて権利証を奪われ、身を吉原に売られ、持ち主となった金満屋が裏店を再建せずに貧乏人を追い出して金持ちのための家を造るという。困り果てた住人たちが「おれん」に相談に来て、「おれん」は理不尽な金萬屋の振る舞いに腹を立てて、人肌脱ぐことにするのである。

 愛する者を失い、すべてを失った「おれん」だが、湯屋の再建と裏店を取り戻すことの難題を抱える。だが、裏店を取り戻すために奔走する過程で、女たらしだが妙に息の合う二枚目の弥助と出会い、その知り合いの気っぷのいい元盗人夫婦と出会い、金満屋がもつ土地の権利証を盗み出すことに成功する。また、お救い小屋の泥棒騒ぎで知り合った前科者の権六を泥棒騒ぎから助け出し、これらの人たちを中心にして八丁堀で湯屋を再建していくことになるのである。

 裏店の持ち主の娘を吉原に売り飛ばして、土地建物を自分のものにした金満屋は、その非道ぶりの悪事がばれて、裏店も再建されることになる。

 こうして、「おれん」の再建は見事に成し遂げられていくが、彼女は、その過程で経験した貧しい女性が身を売らなければならない境遇でひどい目にあっていることを考慮して、湯屋に隠し部屋を設け、そこでそういう女性に安心できるような後腐れのない金持ちの男を紹介したり、女たらしで美貌の弥助をつかって金持ちの後家を慰めたりすることを思いついていくのである。

 役人が住む八丁堀の真ん中で、その役人の鼻をあかすようなことを企て、湯屋である「天女湯」を経営する女将になっていくのである。それは、思いやりの深い爽快な女性の姿でもある。

 大火から逃げのびていく過程やお救い小屋での生活など、丁寧に描かれ、そこでの人の心情が溢れる描き方があって、「おれん」の、ひたむきだが、清濁合わせ呑んで知恵も度胸もある爽快な姿が浮かび上がってくる。妙な正義感や倫理観を振り回さないところがなおさらいい。

 作者は、こういう大らかだが思いやりのある女性や人物を本当に良く描いているとつくづく思う。作者のシリアスな昨品もいいが、こういう作品が本当にいいと思っている。今必要なのは、こうした「おおらかさ」であるに違いない。

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