2011年5月20日金曜日

山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集2 惑う』(1)

 よく晴れ渡って、少し暑いくらいの日差しが注いでいる。帽子や日傘をさした人の姿が目立ってきて、「初夏」を感じる。

 このところ江戸末期から明治にかけて苦労しながら文学を営んできた女性たちの姿を描いた小説を手に取ってみたのだが、どこかの同人雑誌に掲載されている作品を読んでいるような気がして、一言で言えば、「膨らみのない青臭さ」を感じて、珍しく途中で止めて、山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集2 惑う』(2005年 小学館)を耽読していた。

 これまでにも山本周五郎の作品はいくつか読んでいたが、先日、あざみ野の山内図書館に行った折りに、書架にこの中短編集があることに気がつき、さっそく借りてきて読み始めたが、ここに収められている中短編は、やはり表題の通り秀作ぞろいだった。巻末の「解題」によれば、ここに収められているのは終戦直後の1945年から1959年までに発表されたもので、「晩秋」、「金五十両」、「泥棒と若殿」、「おたふく」、「妹の縁談」、「湯治」、「しじみ河岸」、「釣忍」、「なんの花か薫る」、「あんちゃん」、「深川安楽亭」、「落葉の隣り」の12編である。

 この内、「おたふく」、「妹の縁談」、「湯治」は、天真爛漫で底抜けに明るく、愛すべき魅力的な「おしず」という女性が主人公の連作で、ようやく三十半ばを過ぎて結婚し、「おしず」の一途な姿とその夫婦の姿を描いた「おたふく」が先に書かれ(1949年)、その物語の前史とでもいうような「おしず」の兄妹思いの姿を描いた「妹の結婚」(1950年)と「湯治」(1951年)が書かれており、初出誌での名前の相違などが、この選集で統一されて、三部の連作として読むことができるようになっている。

 収められている12の短編は、いずれも山本周五郎らしい人の心のひだに染み込むような作品で、特に上述の3つの作品は、そこに描かれる「おしず」の姿が、わたしが思い描く素敵な女性の姿と重なって、感慨深く読んだ作品だった。

 「晩秋」は、岡崎藩主の用人として長い間藩政の実権を握り、冷酷で、専横独断といわれてきた男が、政変によって私曲があった(権力を用いて自分の利益を図ること)という罪で、江戸から国元に送られてくることになり、朽ち果てたような藩の別邸で監禁されることになった。その世話を命じられた「都留」の父親は、かつて、その男の重税政策を見かねて、これを正そうとして失敗し、切腹を命じられて死んだ。「都留」は、父親の無念を晴らそうと懐剣を忍ばせて、その男の世話を始める。

 ところが、実際にその男の世話を始めて見ると、長い間独居生活を質素にしながら、ひたすら藩の立て直しを図り、自らすべての藩の窮状を担い、新しい事態のために罪責を一人で静かに背負おうとする老人の姿がそこにあり、やむを得ず「都留」の父親のような有為の人を窮地に追いやったということを知る。そして、彼が、父親が死んだ後に残された母親と自分のために生きる道を整えてくれたことも知るのである。

 世に奸計と言われ、冷酷といわれてきた男の真実の姿を知って、「都留」の心は溶けていく。すべての罪責を負って死を覚悟した男と晩秋の景色を眺めながら、彼は「花を咲かせた草も、実を結んだ樹々も枯れて、一年の営みを終えた幹や枝は裸になり、ひっそりとながい冬の眠りにはいろうとしている。自然の移り変わりのなかでも、晩秋という季節のしずかな美しさはかくべつだな」と言う(21ぺーじ)。

 ひたすら藩のために人生を費やして終わろうとする男の心情を見事に表した一文だろう。そして、「都留はそれを聞きながら-この方の生涯には花も咲かず実も結ばなかった、そして静閑を楽しむべき余生さえ無い。ということを思った、-いま晩秋を讃えるその言葉の裏に、どのような想いが去来しているのであろうか、と」で終わる。

 選りすぐられた言葉で人のすべてが語られて、深く余韻が残るという短編の妙味が見事だと感じられ、これが終戦直後の1945年の作品であることを改めて深く考えさせられるような作品だった。

 「金五十両」は、両親を早くになくした後、叔父夫婦の世話になって奉公に出て、懸命に働いて貯めた四十五両という大金を叔母に持ち逃げされ、夫婦約束をしていた娘からも裏切られ、信頼していた仕事仲間からも騙され、すべてが嫌になってふらふらと旅に出てしまった男が、どうにでもなれと思って無銭飲食で立ち寄った宿の女中に助けられ、また、旅の途中で見ず知らずの死に瀕した若い侍から金五十両をある家に届けて欲しいと頼まれ、その五十両をもって逃げようかと逡巡しながらも、自分を助けてくれた女中の言葉に従って、実際に届けてみると、若い侍の話は本当で、見ず知らずの自分を信じて五十両もの金を自分に託してくれたことを知り、その若い侍が藩のために決闘して相打ちとなり死んでしまったことを父親から知らされるのである。

 彼が預かった金の影には、主家のために死んだ息子と、爽やかにその責任を負って追放される親の姿があったことを知って、そういう人の生き方の深さに触れ、「人間はこう生きなくっちゃあいけないんだ」と思い返して、人生をやり直そうとしていくのである。

 「泥棒と若殿」は、家督争いに巻き込まれることになった旗本の次男が荒れ屋敷に幽閉され、ついには見放されて飲まず食わずになって過ごしていた所に、ある夜、人の良い間抜けな泥棒が入り、その泥棒が見るに見かねて彼に食事をとらせたり、彼の世話を始めたりして奇妙な共同生活を始めるというもので、幽閉されていた次男も泥棒も、初めて人間らしい温かな交流を覚えていくのである。

 だが、旗本家の内情が変わり、彼は当主としてその荒れ屋敷を出て行かなければならなくなる。その別離を歌い上げながら、人の幸いがどこにあるかを描いた作品である。

 「おたふく」、「妹の縁談」、「湯治」の三つの連作作品については、深く心にしみるものがあったので、後述することにして、次の「しじみ河岸」は、病のために寝たっきりになっている父親と怪我で知恵遅れとなっている弟のために、自ら殺人の罪を犯したと名乗り出た娘を救うために、娘の供述に不審を感じた若い奉行所の吟味与力が真相を探り出していく話で、娘は、大地主で質両替商をしている金持ちの息子が犯した殺人を、父親と弟の面倒を見るということで身代わりになっていたのである。

 わずかな金で動かされてしまう貧乏長屋の人々や、散々苦労し、寝たっきりの親を抱え、知恵遅れの弟を抱え、牢屋に入れられて初めてほっと一息つけたという娘の姿を語る中で、「貧乏ということは悲しいもんだ」(183ページ)という言葉が語られ、それが、しみじみと伝わる作品である。

 次の「釣忍」もなかなか味わい深い作品で、何よりも愛する者と生きることを選択した男の話である。

 「釣忍」というのは、シダ科の「シノブ」に水苔などを巻きつけ、釣り下げることができるようにして、そこに風鈴などをつけて涼を楽しむことができるようにしたものだが、物語の中で、「おはん」という女房が「定次郎」という魚のぼて振り(天秤棒を担いで売り歩くこと)をしている男と所帯を持ったときに買った釣忍を大切にし、枯れたように見える釣忍にも新しい芽が生えてくると言うのである。

 やがて定次郎の兄というのが訪ねて来て、定次郎が実は大店の跡取り息子であり、自分が他に店を出すことと母親が帰ってくることを願っていることを知らされ、「おはん」は自分が元芸者で大店の嫁になどなれるわけがなく、母親も嫌っているだろうと身を引く決意をする。

 定次郎は「おはん」の決意を知り、店に帰るが、彼が帰ってきた祝いの席で醜態を演じて見せて、自分が勘当されるように仕向け、店の表で心配のあまり様子をうかがっていた「おはん」のもとに帰っていくのである。

 「『おはん』と定次郎は呼びとめた、-釣忍に芽が出ていたな、と云おうとしたのだが、首を垂れて手を振った」(208ページ)と記され、「おはん」と定次郎の会話が切ない。

 「なんの花か薫る」は、酔って喧嘩をし、追われていた若い侍が岡場所の見世に飛び込んできて、「お新」という女性が機転を利かせてこれを助け、二人は将来を約束する中になる。若い侍は犯した喧嘩のために勘当の身となるが、「お新」は、その恋の成就にすべてをかけるようになっていく。だが、やがて勘当が解ける日になり、若い侍は、勘当が解けて嫁をもらうことになったと告げに来る。裏切りが残酷な形で残っていく。

 だが、こうした恋の裏切りの残酷さは、男よりも女の方がもっているような気がするが、偏見だろうか。作品としては、これも別の意味で切ない。

 「深川安楽亭」は、ここに収められている作品の中では少し異質で、「安楽亭」と呼ばれる抜け荷で暮らす男たちのたまり場に、生活のために妻子を残して金を稼いでいる間に、その妻子が苦労の末に死んでしまったことを知り、すべてに空しさを感じている男や、愛する女性が岡場所に売られることになり、それを助けようと店の金に手をつけたところを見つかってしまった男がやってくる。

 「安楽亭」にいるのは、人を人とも思わず、同心でさえ平気で殺してしまうような悪を悪とも思わない「けもの」のような男たちだったが、彼らなりの筋を通して、娘が岡場所に売られることになった男を助け、娘を助け出して、そこから二人を旅立たせるというものである。

 「落葉の隣り」は、同じ長屋で生まれ育った繁次、参吉、おひさという三人の間の出来事を綴ったもので、繁次は参吉の人間の出来が違うということを感じ、おひさを恋い慕っていたが、参吉とおひさが相愛であると身を引いていた。繁次は自分に自信をなくしていく。しかし、参吉はやがて蒔絵職人となり、店の娘と結婚するために贋作を作って売ろうとすることを知り、おひさに自分の気持ちを告白する。だが、おひさは、自分も繁次が好きだったが、繁次が身を引いていたために、参吉と恋仲となって、いまではもう、引くに引けなくなってしまったのだと言う。繁次は、「・・・これからどっちへいったらいいんだ」と思うところで終わる。恋の残酷さと微妙なところですれ違ってしまう男女の綾、それが悲しく響く作品である。

 山本周五郎の作品は、改めて、完成度の高い優れた作品だとつくづく思う。登場する人物たちの会話が生きて、情景が織りなされ、人のしみじみした心情や切なさ、生きることの哀しさや喜びが切々と伝わる。「おたふく」、「妹の縁談」、「湯治」にそれがよく現れていると思えるので、これについて、明日のでも記しておこうと思っている。

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