2011年5月25日水曜日

上田秀人『闕所物奉行 裏帳合(一) 御免状始末』

 昨日までぐずついていた天気が変わって、蒼空が広がっている。だが、この好天も今日だけで、明日からまた崩れるという。九州南部では梅雨入りの宣言がされた。このところ寝不足が続いて身体が重く感じられていたのだが、以前やっていた木刀の素振りを就寝前に再開することにしたので、今夜はよく眠れるような気がする。

 昨夜は、以前に同級生のM氏からいただいていた上田秀人『闕所物奉行 裏帳合(一) 御免状始末』(2009年 中公文庫)に読みふけっていた。

 作者は、文庫本のカバーによれば、1959年、大阪府出身の現役の歯科医で、歯科医院を開業しながら執筆され、1997年に『身代わり吉右衛門』で第20回小説クラブ新人賞佳作に入選され、2001年に作家デビューされたとある。この十数年の間に、既に『三田村元八郎』シリーズや『奥右筆秘帳』シリーズなどのいくつかのシリーズ物を出されて、かなり精力的に執筆されているようだ。歯科医院という多忙さの中で、夜に執筆されているようだが、しっかりした歴史考証に裏づけられた着想が素晴らしく、作品の出来はかなり上質で、作者の人柄がにじみ出るような作品になっている。

 「闕所物奉行(けっしょものぶぎょう)」というのは、町奉行所から重罪の判決を受けた者の財産没収のための働きをする者で、死罪や追放刑には、その財産を没収する「闕所(けっしょ)」と呼ばれる刑罰がつけられ、刑罰の重さで没収される財産も決められていたが、その財産の管理や競売に携わり、売却代金を幕府の勘定方(計理)に納付することを担当したのが「闕所物奉行」であった。財産没収行政官のような仕事であった。

 「奉行」という名称がつけられていても、身分は、大目付(旗本以上の士分の者を検察する)の支配下に置かれて、お目見え以下(将軍に謁見できない)の下級の御家人で、町奉行所同心と同じようなものだった。特別な役料はなかったようだが、総じて百俵五人扶持で、自宅を役所として使い、数名の手代(手代も御家人)を置かなければならなかったから貧乏御家人であることに変わりはなかった。ただ、「闕所」として没収した財産の一割程度が上納(手数料)として暗黙に認められていたから、それで何とか勤めが果たせるようなものだった。悪辣な人物であれば、町奉行所と結託して闕所を増やして私腹を肥やす者もあったらしい。

 こういう役職の者を主人公にした作品に初めて出会った。「闕所」となって財産を没収されるような者の中には、ある程度の身分や財産を持つ者があったのだし、町人でも有力者などがあったのだから、そこには人生を狂わしてしまうような大きな背景が考えられるし、そこから人が転落していくことに携わるのだから、社会と人間の裏を描くには最適の役職かも知れないと改めて思い、主人公の設定からして作者の着想に脱帽した。

 本書の主人公であり「闕所物奉行」である榊扇太郎は、八十俵(年収二十四両程度)の貧乏御家人で、両親はなくなり、姉も他家に嫁いだ気楽な一人暮らしをしており、目付であった鳥居耀蔵の下で働くお小人目付(目付の使い走り)であったが、鳥居耀蔵が自分の手足として使うために「闕所物奉行」に取り立てた人物である。

 彼の上司が鳥居耀蔵であるというのも、なかなか卓越した設定で、いわば自分の狭隘な正義感や正論を盾にして、自己中心的で出世欲の強い上司の下で、いやいやその命に服さなければならない立場が設定されているわけで、その中を暢気で、鷹揚で、清濁併せ呑んだような思いやりもある主人公が、幕藩体制を揺るがすような事件とも関わりながら生き抜いていく姿が、巧みな筆致で描き出されていくのである。

 このシリーズの一作目である本書は、音羽桜木町にあった岡場所(遊郭)で、田舎侍として馬鹿にされた水戸守山藩(現:福島県郡山市)の藩士の仕返しに守山藩が総出で出てきて、鉄砲を放ち、遊郭を引き壊した事件で、遊郭の主が追放、闕所となり、「闕所物奉行」として榊扇太郎が、「闕所」物の値をつけて競売にかける古着屋の天満屋幸吉と共に闕所始末に当たるところから始まる。

 この天満屋幸吉というのが、また、なかなか面白い人物で、古着屋を営みながら、実は浅草一帯を縄張りとするやり手の顔役(縄張り内の裏を統括する者)で、その世界の実力者でもあるというのである。

 幕政の裏を探り、出世を目論む鳥居耀蔵は、城下で鉄砲を放ちながらもお咎めなしとなった守山藩の裏を探るように榊扇太郎に命じ、榊扇太郎が闕所となった遊郭に行ってみると、そこで働いていた者たちが立て籠もり、遊女を人質にしていた。その時代に珍しく剣術ばかりしていた榊扇太郎は、立て籠もっていた者たちを片づけるが、その時人質となっていた遊女のひとりが傷を受けてしまう。

 岡場所の遊女も闕所物のひとつであり、幕府から公認されていない岡場所の遊女たちは、捕縛されると吉原に売られ、そこで一生を過ごさなければならない。しかし、闕所物のすべてを引き受けた天満屋幸吉は、後日、その傷を受けた「朱鷺」という美貌の遊女を榊扇太郎のもとへ連れてきて、行き場所がないから引き取れと言ってくる。闕所物奉行である榊扇太郎を自家薬籠中のものにするためである。

 榊扇太郎はそのことを承知の上で、行き場所のないということを聞いて、仕方なしに女中として引き取ることにする。「朱鷺」は、旗本の娘で、借金の形に遊女に売られた女性で、美貌であるが影が深く、ほとんど口をきかない女性であった。

 ところが、闕所となった岡場所の遊郭の主が殺され、そこで働いていた者たちが殺され、吉原に売られた遊女たちのすべても殺されて、榊扇太郎に引き取られている「朱鷺」も命を狙われるということが起こる。吉原の遊女たちを殺し、「朱鷺」の命を狙ったのは、吉原の「忘八」たちだった。

 「忘八」は、吉原の遊郭の下働きをする者たちだが、何らかの罪を犯したりして一種の治外法権だった吉原に逃げ込み、すべてを忘れて吉原を守るために働く者で、通常は、そこの遊女を守るはずなのに、それが遊女を殺したのである。そのことに不審を感じた榊扇太郎は、単身、吉原に乗り込み、その惣名主を務める西田屋甚右衛門と会い、榊扇太郎の物怖じしない正直さに感じ入った西田屋から吉原もまた上から脅されて、やむを得ずにそのような行為を行ったことを知るのである。

 その裏には、将軍位を狙う水戸藩主の思惑と幕閣内での権力争いが渦巻いていたのであり、吉原の存亡がかかった家康の御免状をめぐった脅迫があったのであり、「朱鷺」や榊扇太郎自身の命も狙われ、それに縄張り争いをする顔役どうしの天満屋幸吉をめぐる争いもあったのである。

 榊扇太郎は吉原と力を合わせて、それらの陰謀と立ち向かい、吉原を窮状から救い出し、水戸藩主の陰謀を打ち砕いて、「朱鷺」の命も守っていく。こうして「朱鷺」とひとつになり、吉原の信用も得て、下級役人であり、人を道具にしか利用しない鳥居耀蔵のもとではあるが、「闕所物奉行」としての活躍が始まっていくのである。

 ここには老中であった水野忠邦や鳥居耀蔵などによる幕政での政治的思惑や私欲、吉原、したたかな土地の顔役などの実情なども味よく盛り込まれて、しかも深い影を背負った「朱鷺」が主人公との交わりを通して人間らしさを取り戻していく姿や、主人公の葛藤などが生活の姿として描かれていて、時代小説の醍醐味も充分盛り込まれている。

 作者の力量は相当なもので、二作目も続けて読むことにした。

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