2012年2月29日水曜日

隆慶一郎『隆慶一郎全集6 鬼麿斬人剣』

目覚めたら一面真っ白な雪景色が広がり、街並みが白く煙って、今もしんしんと雪が舞い落ちている。積雪もかなりあって、横浜では今年いちばんの大雪だろう。車も人通りも少ない。こんな日は、炬燵で雪見酒でも静かに飲むのがいいかもしれないと思いつつ、朝から仕事にせいを出していた。

昨夕、隆慶一郎『隆慶一郎全集6 鬼麿斬人剣』(2009年 新潮社)を面白く読み終わった。先に、この全集の第一巻『吉原御免状』を読んで、「山の民(山窩―さんか)」を自由の民として描き出したり、徳川の幕閣と、独自の形態をもった遊郭である吉原の攻防を自由のための闘いとしてエンターテイメントの要素も加えて描き出したりして、味わい深く読んでいたので、この全集を読むことにしていたが、第二巻から第五巻までは『影武者徳川家康』で、読むのに少し時間がかかりそうなので、先に、この第六巻『鬼麿斬人剣』を読むことにした。

本書には、表題の『鬼麿斬人剣』と『狼の眼』、『異説 猿ヶ辻の変』、『死出の雪』の三編の短編が収められている。

最初の長編『鬼麿斬人剣』は、四谷正宗と呼ばれた江戸時代の不世出の名刀鍛冶であった山浦清麿の弟子の鬼麿という人物を主人公にした冒険活劇譚である。1986年(昭和61年)の「小説新潮」3月号から3ヵ月ごとに1987年(昭和62年)4月号まで掲載されたもので、巻末の縄田一男の「解題」に、作者自身が1986年(昭和61年)の雑誌「波」2月号で本書の構想を次のように語っているのが紹介されている。少し長くなるが、本書の内容もよく表していると思われるので抜き書きしておく。

「四谷正宗と謳われた不世出の刀鍛冶がいまして、これが水もしたたる美男子で剣術もかなり強かった。彼は、天保十三年の春に突然江戸を出奔して、その年の春には長州萩に現れている。出奔の理由も、どこをどう旅したのかも判らない。しかも、嘉永七年、ペリー来航の翌年に、便所の中で腹をかき切って四十二歳で死んでいる。
この清麿のことを一番最初に書いたのは吉川英治さんだったと思いますが、吉川さんの書いたのは全くのフィクションで、清麿研究家が怒ってしまったということがあるんです。余り清麿人気が高いものだから、彼をストレートに書くとまた抵抗が生じると思って、その弟子を主人公にしたんです。
弟子の鬼麿は巨漢で、三尺二寸五分という異例に長い刀を持っている。試し斬りの達人で、これがまためっぽう強い。この鬼麿が清麿の遺志で、中山道、野麦街道、丹波路、山陰道と師の足跡をたどりながら、清麿が路銀のために打った出来の悪い刀を、数打ちというんですが、それを一本、一本、折っていくという話です」(本書428-429ページ)

そして、縄田一男は、この作品の「解題」として、清麿を扱った吉川英治の作品『山浦清麿』が昭和13年という当時の時局を反映したもので、隆慶一郎は、この作品で清麿の江戸出奔の理由として、清麿の家が四谷北伊賀町の伊賀者組屋敷の側にあったことから発想して、将軍家斉の側室となった伊賀者組頭の娘との不義密通というところに求めたのではないかと記している。こういうところは、本書の「解題」として非常に優れている。隆慶一郎は、清麿の自死が、酒毒のために手が使えなくなり、そのため満足のいく刀を打つことができなくなって、刀鍛冶としての誇りから自分の姿に耐えきれなくなったとしている。実際、山浦清麿は、誇り高い人間で、刀工としても相当の自負があった人である。

清麿は美男子で、行く先々で酒と女がつきまとうが、本書での弟子の鬼麿は、その名の通りの巨漢でいかつい男として設定されている。また、彼は、幼児の時に厳寒の山中に捨てられ、備わった生命力のたくましさで生きのび、山窩の一族に助けられて育てられ、自由人として生きのびる術や知識を身につけ、通常の倫理観やしきたりなどに捕らわれない自由人の気質を全面的に押し出していくような人物として設定されている。

山窩の一族のもとを出た鬼麿が、盗みなどをして生きのびていた少年のころに、山陰道を放浪していた清麿と出会い、彼の弟子となり、刀鍛冶として修業していく中で、試し斬りの腕も磨き、背中を後ろにそらす奇妙な格好ながらも剣術の抜群の達人となっていたという設定で、その鬼麿が便所で腹を切った師の清麿の最後に立ち会って、路銀のために数打ちしてしまった駄作の刀が残っていては恥だから、これを探し出して折ってくれという遺言を聞き、その遺志を果たすために江戸を出るところから始まっていく。

他方、清麿が不義密通をした家斉の側室の父親である伊賀者の組頭は、自分の娘の不義を隠すために清麿を殺そうと狙っていたが、清麿にことごとくはね除けられ、その清麿自身が死に、次に「四谷正宗」と呼ばれるほどの名刀工となった清麿の名を辱めるために彼が数打ちした駄作の刀を探し出して、これを公にすることへと恨みを変えていく。

かくして、清麿の駄作を求めて、鬼麿と伊賀者との争いが始まっていくのである。こうして舞台は中山道、野麦街道、丹波路へと移っていき、その場所それぞれで、清麿の駄作を探し出そうとする鬼麿の姿や、それを奪い取ろうとする伊賀者との闘いが展開されていき、途中で拾った山窩の子どもや彼を追いかけてきた伊賀者組頭の娘「おりん」との出会いや、「おりん」が鬼麿のとりこになっていくことなどがエンターテイメントの要素たっぷりに描かれていく。

最後の舞台となるのは、朝廷と繋がりをもつことで幕府の統制外に置かれた「かやの里」と呼ばれる一種の桃源郷であるが、これは、第一巻で記された自由の民の砦としての吉原に繋がるものであろう。こうした理想郷のような世界は他の作品でも現れるが、こうした世界を作者が理想としてもっていたこと、それが作品をさらに面白いものにしていることを改めて思ったりした。なにせ、面白い。つくづくそう思う。

『狼の眼』は、1988年(昭和63年)に「小説新潮臨時増刊号」1月号に発表された作品で、ふとしたことで刃傷沙汰を起こしたために放逐の身となった秋山要助という剣客が、次第に身を持ち崩して放浪生活をする中で多くの人間を斬り、やくざなどから「人斬り要助」と恐れられるようになって、獲物を狙う「狼の眼」のような眼をするようになり、やがて、自分が放逐される原因となったのが、兄弟子の謀略であったことを知り、自分を嵌めた兄弟子に復讐をする話である。

『異説 猿ヶ辻の変』は、同じ1988年(昭和63年)「別冊歴史読本・時代小説特集号」に発表された作品で、幕末の暗殺事件でも大きな影響を与えた姉小路公知(あねがこうじ きんとも)の暗殺事件を取り扱ったものである。

姉小路公知(1840-1863年)は、幕末の公家の中で三条実美とともに攘夷派の急先鋒であったが、1863年(文久3年)に京都禁裏朔平門外の猿ヶ辻で何者かに襲われて死去した人である。その事件は、残された証拠から薩摩藩の「人斬り新兵衛」と言われた田中新兵衛が捕らえられるが、新兵衛が自害したために真相が不明のままになっている事件である。

本書では、そこに土佐藩の攘夷論者で土佐勤王党を組織した武市半平太瑞山と三条実美の策謀があり、田中新兵衛は自死したのではなく、武市半平太の意を受けた岡田以蔵が殺したのではないかとの説をとっている。いずれにしても、この事件が幕末と維新の姿を大きく変えたのは事実で、当時、政治的な策謀が渦巻き、醜い争いが繰り返されていた。こういう事件を考えると、策謀に走る人間の愚かさと哀れさを感じるだけだが、作者も同じように感じた気がしないでもない。

『死出の雪』は、1989年(平成元年)「別冊歴史読本・時代小説特集号7」に発表された作品で、「崇禅寺馬場の仇討ち事件」を描いたものである。「崇禅寺馬場の仇討ち事件」というのは、浄瑠璃などでもよく上演されるが、1715年(正徳5年)11月に摂津国西成郡(現:大阪府)の崇禅寺の松林の中で起こった仇討ち事件で、大和国(現:奈良県)郡山藩の槍術師範であった遠城治郞左衛門の子である治左衛門と安藤喜八郎の兄弟が、弟宗左衛門の仇である生田伝八郎を討とうとして、反対に返り討ちにあった事件である。

この作品の中で、最初に生田伝八郎に殺された宗左衛門を鼻持ちならない傲慢な若者として描き、怖いもの知らずで無思慮、暴力を笠に着るようなつまらない人間として描き、その母親の単なる溺愛が子に事件を招き、生田伝八郎も返り討ちにあった遠城治左衛門も安藤喜八郎も、共に、どうにもならない現状を黙って受けて、武士としてその「儀」を果たして死んでいったものとして描き出されている。この視点も、作者ならではの視点だろうと思う。

しかし、これらの短編よりも、やはり長編の方が作者の力量がもっとも発揮されているように感じた。もちろん、短編も優れているし、その歴史解釈も面白い。だが、作者は、やはり、本質的に物語作家ではないだろうか。まだ数作品しか読んでいないが、そんな気がする。

2012年2月27日月曜日

山本周五郎『新潮記』

再び寒さが戻ってきて、今週は水曜日頃まで寒いらしい。雲が薄く広がっている。植物に水をやり、いくつか片づけなければならない物をぼんやり眺めたりしていた。

 週末から日曜日の夜にかけて、山本周五郎『新潮記』(1985年 新潮文庫)を読んだので記しておく。本書の巻末に収められている奥野健夫の「解説」によれば、本書は、昭和18年(1943年)に北海タイムス(現:北海道新聞)に連載された小説で、作者40歳の時の作品となる。太平洋戦争の末期で、戦後も作者は生前にこの作品の刊行を許可しなかったそうで、奥野健夫はその理由を文学上の問題としてあげているが、わたしはむしろ、この作品の中に描かれている勤王思想と皇国思想に、戦後の山本周五郎が自戒的なものを感じていたのではないかと思っている。

 本書は、幕末の尊皇攘夷思想に大きな影響を与えた藤田東湖が水戸に在住しているところが描かれているので、嘉永3年(1850年)頃の時代を背景として、その中で自らの生き方を求めていく青年武士の姿を描いたものである。ちょうど、古いものと新しいものが相克している時代で、その意味で、新しい流れとして『新潮記』という表題がつけられているのだろう。

 本書の主人公は、水戸の徳川家と姻戚関係などで親密であった讃岐の高松藩松平家の藩士で、高松藩の中で尊皇攘夷思想の中心的人物である校川宗兵衛の妾腹の子である早水秀之進という青年である。彼は、学業も優秀で、剣の腕も藩内で並ぶ者がないほど優れていたが、自分が庶子(妾腹の子)で、父親からも捨てられたのではないかと思い、何事にも冷ややかで、人を突き放してしまうようなところのある青年だった。

 だが、その彼の優れたところを見抜き、行動を共にするのが、藩内尊王攘夷派を経済的に支えた豪商「太橋家」の次男の太橋大助で、大助自身も優秀であり、また、困った人を助けずにはおれないような人情家であった。この二人がそれぞれに自分の人生を模索していく姿が描き出されているのである。

 水戸徳川家と高松藩松平家は、養子を交換するなどしてきて特別に親密であったが、高松藩松平家の頼胤(よりたね)が幕府の重臣となり、叔父であった水戸の徳川斉昭の引退を計らねばならなくなり(「申辰の事」と呼ばれる)、両家に齟齬が生じてしまったのである。水戸の徳川斉昭に信服し、国許で隠棲している頼胤の兄の頼該(よりかね)は、高松藩松平家と弟の頼胤のことを思いやってなんとか水戸藩と高松藩の間を取りもとうと斉昭のもとに書を送りたいと願い、その密使として早水秀之進を選んで送り出すのである。

 早水秀之進と太橋大助は水戸に向かう途中で、突然、山開き前の嵐の富士山に登ることにし、そこで尊皇攘夷思想を持って脱藩し、瀕死の状態になった兄と彼を看病している藤尾という娘と出会うところから物語が始まっていくのである。厳寒の富士への登山というのが、いわば、主人公たちのこれからの歩みの象徴でもあるだろう。冷徹な早水秀之進は登山の後もさっさと下山していくが、人情家の太橋大助は、その兄妹が気になり、結局、瀕死だった兄の死を看取り、妹を連れて江戸まで向かう。そして、知り合いの人情本作家である竹亭寒笑や彼が引き取っている元名妓の梅八などに彼女を託して世話をしていくのである。

 だが、早水秀之進は、江戸で実父の校川宗兵衛と会うが、激烈な尊皇攘夷思想の持ち主である校川宗兵衛と親子の情を交わすこともできずに、迷いの中に置かれ、校川宗兵衛の手紙をもらって水戸の藤田東湖を尋ねるのである。ただ、江戸屋敷に泊まった夜、深夜に「ゆるせ」という校川宗兵衛の言葉を部屋越しに聞くのである。

 途中で、頼該の意を阻止しようとする刺客との死闘などもあったが、水戸で藤田東湖に出会った早水秀之進は、東湖の人柄に深く感銘を受ける。思想よりもむしろその人柄に感銘を受け、水戸の時代は終わり、新しい時代の潮流の中に身を置いていくことを決心していくのである。そして、身寄りのない藤尾と結婚し、ひとりの無名の人間として新しい時代の幕開けを志そうとする。

 本書の大筋は、こんなところである。ただ、皇国思想を真正面から取り上げているだけに、主人公や東湖などの登場人物たちの思想(考え)が長饒舌で述べられたり、純粋さということではうなずけるのだが、その思想もいささか「青臭い」ところがあったりして、必ずしも物語の展開が十分な形で昇華されていないところも感じた。

 しかし、描写は抜群で、いくつか抜き書きしておこう。

 まず、主人公が北浦の海岸で海を望んだとき、「この大洋のかなたに亜米利加あり」を実感した時の海の描写が次のように記されている。

 「吹きわたって来る風は海の青に染まっているかと思われ、むせるほども潮の香に満ちていた。眼もとどかぬ沖のかなたで盛りあがる波は、運命のようにじりじりと、高く低くたゆたいつつ寄せて来る。そして磯の近くまで来るとにわかに逞しく肩を揺りあげ、まるで蹲(しゃが)んでいたものが起ちあがりでもするようにぐっと頭を擡(もた)げるとみるや、颯(さっ)と白い飛沫(しぶき)をあげて崩れたち、右へ左へとその飛沫の線を延ばしながら歓声をあげて水面を叩き、揺れあい押しあいつつ眩しいほど雪白の泡となって汀を掩(おお)う・・・これらはすべて或る諧調をもっていた。旋律のない壮大な音楽ともいえよう、いや旋律さえ無いとはいえない。耳でこそ聞きわけられないが感覚には訴えてくる。ただその音色が現実的に説明しがたいだけだ。・・・」(本書 85ページ)

 この海の表現は、激動していく時代の波をかぶる青年の心情でもあるだろう。擬人法の表現は、それを示唆する。かすかに感じ取られる波の旋律。それを主人公が聞いていくということがこの描写には込められていて、こういう情景描写は驚嘆に値する。

 次に、藤田東湖が詠んだ「瓢兮歌(ひさごのうた)」という詩が次のように記されて、藤田東湖という人間の人物像を浮かび上がらせるものになっている。

 「瓢兮瓢兮吾れ汝を愛す/汝能く酒を愛して天に愧(は)ぢず/消息盈虚(えいきょ)時と与(とも)に移る/酒ある時跪座(きざ)し酒なき時顚(ころ)ぶ/汝の跪座(きざ)する時吾れ未だ酔はず/汝まさに顚(ころ)ばんとする時吾れ眠らんと欲す/一酔一眠吾が事足る/地上の窮通何処の辺」(114ページ)

 そして、「一酔一眠吾が事足る/地上の窮通何処の辺」におおらかに生きる東湖の姿を見るのである。

 また、江戸の「粋」といわれる文化に触れて、かつて名妓といわれた梅八の姿を借りて、次のように語られている。

 「梅八は江戸文化の爛熟末期から衰退期にかけて、その文化がもっとも端的に集約される世界で生きてきた。現実を無視することを誇り、ものごとの正常さを蔑み、虚栄と衒気(げんき)と詠嘆とを命としてきた。はかなさ、脆さ、弱さ、そういうものにもっとも美を感じ、風流洒落のほかに生活はないと思ってきた」(本書122ページ)

 そして、この梅八が自らの命さえかけて生き抜こうとする藤尾の姿に打たれて、実のある生活へと向かおうとするのである。名妓と言われて浮世を生きてきた梅八もまた、時代の潮の中で自ら考える女性となっていくのである。こういう明確な文化理解には、もちろん、異論もあるが、作品の中ではこれが生きている。そういう表現の巧みさを、わたしはここに感じた。

 あと一箇所、山本周五郎が作家として自らの足場を固めたと思われる箇所が、主人公の新しい潮流を生きようとする姿勢で語られている場面がある。早水秀之進が親友の太橋大助に自らの考えを語る場面である。

 「歴史の変転は少なくなかったが、概して最大多数の国民とは無関係なところで行われた。平氏が天下を取ろうと、源氏が政権を握ろうと、農夫町民に及ぼす影響はいつも極めて些少だった。云ってみれば、平氏になっても衣食住が豊かになる訳ではないし、源氏になったから飢えるということもない。合戦は常に武士と武士との問題だし、城郭の攻防になれば土着の民は立退いてしまう。戦火が収まれば帰って来てああこんどは源氏の大将かといった具合なんだ。・・・いいか、この二つの上に豊富な自然の美がある。春の花、秋の紅葉、、雪見や、枯野や、蛍狩り、時雨、霧や霞、四季それぞれの美しい変化、山なみの幽遠なすがた。水の清さ、これらは貧富の差別なく誰にでも観賞することができる。夏の暑さも冬の寒気も、木と泥と竹や紙で造った簡易な住居で充分に凌げる・・・こういう経済地理と政治条件の下では、どうしても宗教に救いを求めなければならないという状態は有り得ないんだ」(221-222ページ)

 という一文である。ここで使われている「最大多数の国民」とか「経済地理」、「政治条件」という概念などは、もちろん、江戸期の概念ではないし、論理も「青臭さ」が残るものであるが、言い回しの妙がある。そして、貧富の差なく豊かさを感じることができるものというところに作者の視点は向かっていく。そして、おそらくこれが当時の作者のむき出しの考えだったのだろうと思われるのである。わたしは、ここで語られている思想の内容とは別に、自分の心情を素朴に露吐する作者の姿勢を感じるわけで、こうした素朴さが、後に市井の人々を描き出す重要な視点になっているだろうと思えたのである。

 また、小説の作法として、主人公を実際の歴史の中で動かしていくという方法が採られて、これもまた、昭和18年(1843年)の時点での画期的な方法だったのではないだろうか。個人的な考えを述べれば、わたしは日本には国家論は似合わない気がしているので、国家論が語られるときは政治や社会に歪みが生じたときのように思う。その意味では、これは歪んだ時代の中で書かれた小説ではあると思う。

2012年2月24日金曜日

宮部みゆき『おそろし 三島屋変調百物語事始』

ようやく寒さがゆるみ始め、近所の花屋さんの店先では花を咲かせたチューリップが売られていた。また寒さがぶり返したりして、今の季節はどことなく中途半端なところがあるが、それでも早春を感じられるのは嬉しいことである。梅がほころび始めるだろう。

 宮部みゆき『おそろし 三島屋変調百物語事始』(2008年 角川書店)を読んでいたので記しておくことにする。

 「百物語」というのは、もともと、江戸時代に一種のブームともなった怪談話をする集まりでなされた話で、集まった人たちがそれぞれに不思議な体験や因縁話をし、百話が話し終えられると本物の「ものの怪」が現れるとされ、肝試しのようなものとしても行われていたもので、それを集めたものを「百物語」と称したりしていた。

 本書は、こうした怪談会の趣向とは異なって、身辺に起こったある事件のために傷心を受け、叔父である江戸神田の袋物屋「三島屋」に引き取られた「おちか」という娘が、叔父の計らいで他の人の因縁話を聞くことで、自分が関わった事件の姿や自分自身を、それぞれの因縁話の解決と共に解き放ち、自分の姿を取り戻していくというものである。

 個人的な所感を最初に言えば、こうした設定の仕方に、いささか無理があるし、「ものの怪」によって事柄が解決していくという出来事は、わたしのような人間にとってはいささか読むのに忍耐がいる。しかし、「現代の語り部」としての宮部みゆきの本領はよく発揮され、人間の回復というものが結局は自分自身で納得することによって行われていくものであることを改めて感じたりした。

 「おちか」のもとを訪れた最初の人間は、兄を見捨てたことに悩む弟である。兄弟思いで親代わりとなって育ててくれた兄が、喧嘩でかっとなって人を殺めてしまい、遠島となる。そして、赦免されて帰ってくる。しかし、幼い頃から兄に育てられ、兄を慕っていたはずの弟は、世間体を考えて帰ってきた兄とも会おうともしない。むしろ身内の犯罪者として疎ましく思い始めるのである。そして、そのことを知った兄が自ら首をくくって自死してしまうのである。その自責の念にかられた人物が自分の心情を「おちか」に露吐する(第一話「曼珠沙華」)。

 次に「おちか」を訪れた人間は、家族が不思議な家に魅了され、それに取り込まれてしまい、自分の魂もそこに閉じ込められてしまった女性である。貧しいながらも助け合って暮らしていた錠前直しの一家が、あるとき不思議な家の蔵の錠前直しを依頼されたところ、その家に住めば百両の金を出すといわれ、なにかの因縁があると思いつつもその家に住むようになり、ついにはその家に取り込まれてしまうのである。「おちか」のもとを訪れた女性は、錠前直しの父親の師匠からかろうじて助け出されるが、魂はその家に置きっぱなしであった。この不思議な家は、人間の魂を喰う家で、やがて物語の関係者がすべてこの家に集められることとなる。(こういう展開に、わたしはちょっと無理を感じるが。)

 第三話「邪恋」は、主人公である「おちか」自身に起こった出来事で、「おちか」は他の人の不幸話を聞く中で、自分の身に起こった事件を徐々に整理していくのだが、「おちか」をめぐって男同士の殺人事件が起こったことが記されている。

 「おちか」は川崎の老舗の宿の娘であった。彼女がまだ幼い頃、雪混じりの雨が降る寒いよるにひとりの男の子が街道沿いの斜面に捨てられて死にかけているのを父親が助け、父親は彼を引き取り、一緒に育てあげていた。家族同様と言いながらも奉公人として使っており、都合のよいときには家族として、都合の悪いときには捨て子の奉公人として扱っていたのである。彼は次第に「おちか」に思慕を抱くようになっていたし、「おちか」の心にも彼があった。だが、自分が捨て子であることで、彼はひたすら「おちか」の幸せを願っていた。やがて「おちか」に縁談が持ち込まれ、その縁談相手に「おちか」を頼むと言い、「おちか」の縁談相手は「おまえのような人間に言われたくない」と争い、ついに彼は「おちか」の縁談相手を鉈で殺してしまい、自らも死んでしまうのである。

 「おちか」もまた、その争いの瞬間に、彼を余所者として見捨ててしまい、以後、自責の念に駆られて閉じこもりの生活をしていたのである。「おちか」は自分のために二人の人間が死んでしまったという自責に縛りつけられて、叔父の家に引き取られていたのである。そういう「おちか」自身の事情がここで語られるのである。

 こうした「おちか」自身の話の後で、次に「おちか」のもとを訪れたのは、病身のために離れて育っていた姉が健康を取り戻して帰り、美男の兄と美女の姉が、相思相愛の仲となってしまって、互いに自死した妹である(第四話「魔鏡」)。

 そして、百の物語ではないが、「おちか」自身のことを含めて四つの出来事が、一つになって大演壇を結んでいくのが「最終話 家鳴り」で、第二話で語られた不思議な家が、これまでの登場人物たちの魂をすべて集め、なお「おちか」自身を欲するようになり、「おちか」は、多くの人たちの力を借りながらその家と対決し、すべての集められた魂を解放し、それによって自分自身も解放していくというものである。

 これまでも宮部みゆきは「ものの怪」を扱った作品を書いているが、本書は少し違った毛色の作品で、なにかの事件が解決されることよりも、過去に縛りつけられ身動きの取れなくなった女性が、他者の不幸と因縁の話を聞き、自分自身の問題を直面し、それと真正面から対峙していくことで自らを回復させていくことに重点が置かれている気がする。

 しかし、私見ではあるが、彼女の時代小説の最高峰は『孤宿の人』で、本書は、これといった特色には少し欠けているような気がしないでもない。だが、物語作家としての本領はあって、面白く読めた一冊ではあった。

2012年2月22日水曜日

鳥羽亮『ももんじや 御助宿控帳』

今日は少し曇っているが、このところ寒さが緩み、嬉しい限りである。青年のころに『若者たち』という映画を見て、その中で田中邦衛さんだったかが「春になると嬉しくって仕方がない。もう寒さに震えなくてすむから」というような台詞を語られていたのが妙に頭に残っていて、日々の生活に追われる中で、今頃の季節によく思い出す。

 1970年代、多くの青年たちが「自立」を求めていた時代だった。だが、この国は、いつから至極当たり前のように「他人のふんどしで相撲を取る」ような貧しい発想をするようになってきたのだろうかと、今の政府の動きを見ながら思ったりする。全体的に寄生虫のような発想しかしなくなり、「自立の思想」の影さえ見えなくなった気がする。貧しいけれども自分の足で凜と立つ姿勢をとることを思い知ったのではないか。

 そんなことをぼんやり考えながら、他方では鳥羽亮『ももんじや 御助宿控帳』(2009年 朝日新聞出版朝日文庫)を気楽に面白く読んだ。「ももんじや」というのは、江戸時代に猪や鹿、あるいは鳥や兎といった獣肉を食べさせた小料理屋で、そこを人助けの商売の拠点として集う御助人たちの活躍を描いたものである。

 御助宿でもある「ももんじや」を営むのは、元は深川州崎で地回り(やくざ)をしていたといわれる還暦を過ぎた茂十で、茂十は十五歳になる孫娘の「おはる」と「ももんじや」を切り盛りしながら、御助宿の元締めとして御助商売に携わっているのである。

 この「ももんじや」に居候し、御助人の中心になっているのは、百地十四郎という二十五歳の若侍である。百地十四郎は、元は二百石の旗本家の三男だったが、妾腹で、子どものころから家臣のような扱いを受けてきていた。だが、不憫に思った父親が剣道だけは習わせ、剣の才能もあり、北辰一刀流の遣い手として剣名をあげるほどの腕前になった。しかし、兄弟子に誘われて賭け試合をし、打ち負かした相手に恨まれて襲われ、はずみで斬り殺してしまい、破門されて自堕落な生活を続け、「ももんじや」に入り浸るようになって、ついには居候のようになってしまったのである。

 物語は、この「ももんじや」の前の通りで、年端もいかない十五、六の少年と妹と見られる十三、四の少女が四人の武士に取り囲まれて斬り合いをしているところから始まる。「ももんじや」に出入りし、膏薬売りをしながら御助人の仕事もしている助八がその斬り合いを知らせに百地十四郎のもとに駆け込み、十四郎が武士に取り囲まれていた少年と少女を助けるところから始まっていくのである。

 少年は出羽国滝園藩(作者の創作だろう)の井川泉之助と名乗り、少女はその妹の「ゆき」と名乗る。二人は殺された父親の仇を討つために江戸に出てきたのである。だが、そこには滝園藩における権力争いが絡んでいて、藩の大規模な普請工事に絡んで豪商と結託して私腹を肥やそうとしていた国許の次席家老の権力掌握の野望が渦巻いていたのである。

 井川兄妹が江戸で身を寄せた叔父は、彼らを助けたのが御助人であることを知り、御助宿である「ももんじや」に二人の仇討ちの助力を願い出る。「ももんじや」では、その依頼を受けて、百地十四郎や同じ御助人である牢人の波野平八郎、助八や廻り髪結いをしている佐吉、元は修験者だったという坊主頭の伝海、女掏摸であった簪を使う「お京」らによって、二人の仇を捜し出していくのである。

 百地十四郎は二人に仇を討たせるために、二人に剣を教え、二人は「ももんじや」の御助人によって見事に仇を果たし、それによって内紛していた藩の騒動も収まっていくという結末となる。

 物語の展開そのものや登場人物たちの設定などは、数多の時代小説のどこでも見かけるものであるが、鳥羽亮のこなれた文章と兄妹の修行や剣を交えての争いの場面などは、なるほど剣道を知る者の作だと思わせられ、娯楽小説として気楽に読めるものとなっている。

2012年2月20日月曜日

葉室麟『乾山晩愁』

昨日、都内での会議に出たりして、いささか疲れを覚えていたが、寒さが少し緩んで、碧空が広がっていたので、朝から掃除や洗濯などの家事に勤しんでいた。家事をすると、生きるということはこういうことなのだな、とつくづく思う。

 昨日、葉室麟『乾山晩愁』(2005年 新人物往来社 2008年 角川文庫)を読んだ。葉室麟の作品には歴史時代小説の新しい境地のようなものを感じるが、本書は、おそらく、葉室麟の作家としてのデビュー作とも言えるだろう。本書に収録されている表題作の「乾山晩愁」で、第29回歴史文学賞を受賞し、やがて、『いのちなりけり』や『蜩ノ記』の直木賞へと繋がっている。

 本書には、江戸中期を代表する画家であった尾形光琳(1658-1716年)の弟で、陶芸家で絵師でもあった尾形乾山(1663-1743年)の姿を描いた表題作の「乾山晩愁」、室町時代から江戸時代まで日本画壇の中心であった狩野派の中でも卓越した才能を発揮した安土・桃山時代の狩野永徳(1543-1590年)描いた「永徳翔天」、その狩野永徳と並ぶ画家であった長谷川等伯を描いた「等伯慕影」、狩野探幽に学び狩野派随一の女流画家ともいわれた清原雪信(生没不詳)を描いた「雪信花匂」、数奇な生涯を生きた元禄時代の画家英一蝶(はなぶさ いっちょう 1652-1724年)を描いた「一蝶幻景」の五編が収められている。つまり、江戸時代の画家たちの姿を描き出したものである。

 本書に収められている作者自身の「文庫版あとがき」に「尾形乾山を主人公にした小説を書きたいと思った。兄、尾形光琳のはなやかな存在感に比べれば、弟の乾山は、はるかにくすんだ印象がある。そこに魅かれた。光り輝くものだけが、この世に存在するわけではない。光があれば、必ず、影がある。影だけではない。光のまわりに、やわらかな色彩で温かみとふくらみのある存在があって、光を支えているのではないだろうか」(333ページ)と記され、作者がどういう人間に対して魅かれていくのかという人間に対してもつ姿勢をうかがい知ることができる。

 本書は、その姿勢で、江戸期の五人の画家たちの姿を描き出すのである。ここには、後に見られるような透き通ったような文章はないが、たとえば、派手好きな兄の光琳とは異なり、書物を好み、隠遁生活のようにして参禅する地味な生活の中で、京焼色絵陶器を完成したといわれる野々村仁清(生没不詳)から陶芸を学び、乾山が焼き光琳が絵付けをするといった合作の陶芸品など制作するなどしていた尾形乾山に魅かれていくという地道で誠実な人間を描き出そうとする卓越した人間観があるのである。

 「乾山晩愁」は、尾形光琳が絵師として大成し、名声を得て亡くなった後、弟の尾形乾山が、陶工としての限界を感じつつ、しかもそれまで与えられていた関白の二条家(二条綱平 1672-1732年)の窯を廃止する旨の通知を受け取り、兄の光琳の過去に触れながら葛藤していく姿を描いたものである。

 光琳が亡くなった後、江戸から光琳の子を産んだという女性が子どもを連れて訪ねて来た。光琳は、京のお大尽とまでいわれた実家であった豪商の呉服商「雁金屋」からの莫大な相続を使い潰すほどの派手好きの遊び人で、五年ほど滞在した江戸で女や子どもがいても不思議ではなかったのである。

 女の名は「ちえ」といい、光琳の子を身ごもった後、光琳が京へさっさと引き上げたために、松倉という元福井藩士と結婚したと言う。松倉は光琳が「ちえ」のために残した金が目当てで、結婚すると酒に溺れて暴力を振るうようになり、そこから逃げて京に来たと語るのである。乾山は兄のためにもその母子のめんどうを見ることにする。

 他方、光琳を偲ぶ茶会で、光琳と京都の銀座(貨幣鋳造所)の役人で裕福であった中村内蔵助 (1669–1730) との親交が話題として出て、京の公家の代表でもあった近衞基熙(このえ もとひろ 1648-1722年)が光琳の支持者であった二条家を通じて、光琳に赤穂浪士討ち入りの資金の調達を依頼したのではないか、そして、光琳が中村内蔵助に頼んで京の銀座から討ち入り資金を出してもらったのではないか、赤穂浪士討ち入りの衣装を光琳が考えたのではないか、という話が出るのである。

 そして、それまで支持してくれていた二条家から二条家の庭にある窯を廃する旨の通知が届き、乾山はやむを得ずに粟田口に窯を作り製作に励んでいくことになる。二条家が突然の支持の中止を申し出た理由は、わからない。もしかしたら光琳が赤穂浪士に肩入れしていたことが原因かもしれなかったが、詳細は伏されたままだった。

 そうして月日が流れ、光琳の江戸での女であった「ちえ」とその子は、乾山の計らいで、大阪で古着商を営み、商売も順調そうに見えた。だが、そこに「ちえ」の元亭主の倉松が訪ねて来て、「ちえ」を刺し殺してしまうのである。乾山と「ちえ」は、歳は離れていたが心が通い始めていた矢先であった。

 それから六年後、「ちえ」の子も成人し、江戸の三井呉服店に気に入られて江戸に行くと言う。それを聞いて、乾山も兄の光琳に倣って江戸に行きたいと思うようになる。そして、江戸行きを前にして、なぜ以前二条家が乾山の窯を廃したかの理由に、幕府の機関である京都所司代の公家への弾圧があったことを知るのである。そして、乾山は江戸へ行き、81歳で亡くなる。

 その最後のところで、「結局は人の情や。人の情をしのぶのが物語や絵なんや」という乾山の姿勢を示す言葉が語られ(作者の姿勢でもあるだろう)、「兄さん(光琳)にとって絵を描くことは苦行やった。この世の愁いと闘ったのや。そうしてできたのが、はなやかで厳しい光琳画や。わしは、愁いを忘れて脱け出ることにした。それが乾山の絵や」(60-61ページ)という言葉が記されている。

 作者が本書で描きたかったのが、この二つの言葉で集約されているように思える。ここでは、後に『花や散るらん』で展開されている「赤穂浪士異聞」のようなものの原型もあり、それが面白いが、物語全体が十分な展開をまつ萌芽のような気がしないでもない。しかし、葉室麟という優れた作家の姿勢のようなものが明確に現れた作品だと思っている。

 本書のほかの作品については、ここでは詳細を記さないが、「永徳翔天」は、天下布武を果たそうとして、安土城を築こうとする織田信長によって、天下城としてふさわしい安土城に「天を飛翔する絵」を画くように依頼された狩野永徳が、自らも飛翔させるような絵を描いていく姿を、彼の苦悩や長谷川等伯との争い、そして、本能寺の変や豊臣秀吉による天下統一などの激動していく時代の中で描いたものである。焼失してしまったが、「信長公記」から彼が描いた安土城の絵についてなどの詳細も記されている。

 「等伯慕影」は、当時の日本画の巨匠として上り詰めていた狩野永徳や狩野派との争いを行い、野心と情念をもって画壇に登場した長谷川等伯を描いたもので、彼が上り詰めるために捨てたものや悔恨の中での苦悩などが描き出されている。

 また、「雪信花匂」は、狩野探幽から可愛がられて育った雪信が、女流の画家として生きる以上に、自らの愛に生涯をかけ、そこから女流画家としての新しい歩みをはじめる姿を、井原西鶴を絡ませながら描いたものである。

 「一蝶幻景」は、先述したように元禄時代に活躍した英一蝶の姿を描いたもので、英一蝶は、江戸で狩野派に入門するが、画風があわずに破門され、多賀朝湖という名で町絵師として、また、暁雲という名で俳諧に親しみ、松尾芭蕉などとも親交をもち、風俗画などを描きながらも、吉原通いをして自らも幇間として活動した人である。

 1698年(元禄11年)、47歳の時に「生類憐れみの令」に対する違反として三宅島に流罪された。彼が流罪となった理由として、時の権力者である柳沢吉保が出世するときに自分の側室を将軍である綱吉に差し出したことを一蝶が風刺画にしたことや、町人に禁止されていた釣りをおこなったこと、「馬がもの言う」という歌を広め、動物をつかって社会を風刺したこと、旗本をそそのかして吉原で巨額の浪費をさせたことなどがある。だが、流罪中も三宅島で創作活動を続け、12年後の58歳の時に、将軍代替わりで赦免され、江戸に帰って、英一蝶と名乗り、風俗画を描き続けたのである。

 本書は、こうした英一蝶の姿を幕閣内の勢力争いや赤穂浪士の討ち入り事件と絡ませながら描き出したものである。赤穂浪士の討ち入り事件の裏に、朝廷と江戸幕府の確執、大奥内における桂昌院(綱吉の母)と公家方の女中たちの争いがあったという視点が盛り込まれ、これもまた、後の『花や散るらん』で物語として描き出される源流となっている。

 本書は、後に著される『いのちなりけり』やその続編の『花や散るらん』の源流ともいえるものが随所に見られ、詳細な歴史的検証のひとつの滴のような作品だろうと思う。その意味では、これは江戸時代の画家として活躍した人物たちの歴史小説である。「等伯慕影」のような自らの弱さに悩む長谷川等伯の理解は頭抜けたところがある気がする。

 まだ、後に書かれていく作品で表される葉室麟らしさが隠れてはいるが、おそらく、これから葉室麟が論じられるときには、必ず言及される作品だろう。硬派の文体はわたしのような人間には好ましく思える。

2012年2月18日土曜日

庄司圭太『沈丁花 観相師南龍覚え書き』

昨夜は雪がちらつき、今日はひどく冷え込んで寒さの厳しい日になっている。

 寒い冬の夜はこたつでのんびりするのがいいと思いつつ、庄司圭太『沈丁花 観相師南龍覚え書き』(1998年 集英社文庫)を読んだので記しておこう。

 作者は、文庫本のカバーに記載されている著者略歴では、1940年に横浜で生まれ、いくつかのテレビ番組の脚本を手がけた後に、本書で作家デビューをされたらしい。従って、これは著者の最初の作品ということになっている。

 本書は、四国松山の武家の三男坊に生まれた主人公が、父親が望んだ学問の道をそれて無頼の徒になり、喧嘩に巻き込まれて斬られ、死線を彷徨っていたときに観相師の吹石龍安に助けられた後で、龍安に弟子入りして「南龍」と名前を変えて観相師をするようになり、懇意にしている北町奉行所の老同心である堀井勘蔵とともに、観相を用いて事件の真相を探っていくという筋立てである。

 観相とは、平たく言えば人相見のことで、顔の造作や目や眉、鼻や口などの配置などで人を判断しようとするもので、いわば類型的人格判断のことである。起源は中国だろうが、日本では江戸時代の中期頃に確立したといわれている。現代の心理学などでも、体型による性格判断などがあって、発想そのものは似たようなものであるし、手相などとあわせて、何故か今でも日本人に好まれるところがある。

 だれもが自分の将来は不安で、少しでも手がかりになることを探したり、関わる人間についての判断は難しいので、その手がかりを求めたくなったりする心情はわからないでもない。しかし、心理学的類型論や人類学的類型論などのようなステレオタイプ的判断は、大きな危険性をもっているとも思っている。

 ともあれ、本書は、主人公南龍の、その観相術によって事件の取りかかりが起こり、南龍と老同心の堀井勘蔵が地道に真相を探っていくというものである。本書には「沈丁花」、「蝉衣」、「雨しずく」の三話が収められて、最初からシリーズ化することが試みられている。

 第一話「沈丁花」は、油商の番頭の水死体が発見され、奉行所の役人の見解は酔って足を滑らせた事故ということだったが、実は、南龍がその二日前に死んだ番頭の観相を見ており、そこには死相がなかったので、これは殺人、しかも金銭の絡んだ殺人ではないかと思うところから始まる。そして、それから次々と同じような死体があがるのである。

 南龍は懇意にしている老同心の堀井勘蔵に相談し、その事件の裏に京極藩の勘定方と廻船問屋が結託した無尽講(金を出し合って、籤でその金を使うものを決めていく)の企みがあることを突きとめていくのである。表題の「沈丁花」は、弟の仕官を餌に、自分に気のある油商の番頭を無尽講に誘うように言われ、その無尽が潰れてしまうことを案じて番頭に真実を打ち明けた女性の姿をなぞらえたものであるだろう。

 第二話「蝉衣」は、正体不明の姫君の観相を依頼された帰りに何者かに襲われた難龍が、自分が観相を見た姫君の正体と何故自分が襲われたのかを探っていく過程で、徳川家斉なきあと、頭角を現して天保の改革を推し進める水野忠邦と、勢力を盛り返そうとする旧幕閣による争いに巻き込まれていくという話である。彼が観相を見たのは、家斉とお伝の方の間にできた娘徳姫で、徳姫の大名家への輿入れによって勢力を取り返そうとした母親であるお伝の方が大きく関係していたのである。

 ただ、普通、「お伝の方」といえば、五代将軍徳川綱吉の側室(瑞春院)で、家斉には多数の側室がいたとは言え、「お伝」という名は見あたらず、また、「徳姫」も見あたらない。これがもし、作者の創作によるなら、天保年間の政争が絡んでいるだけに、「お伝」や「徳姫」という名称には、混同を避けるための工夫がほしいところではある。

 第三話「雨しずく」は、旧知の岡っ引きから他殺死体の身元を割り出すための観相を依頼された南龍が、殺された男が飾り職人で仲間割れの相が出ていたところから始まる。南龍は、自分の観相があたっていることを探るために殺された男の身元を探っていたが、御金蔵破りの口実で大捕物が行われたりして、南龍の昔の遊び仲間が殺されたり、彼自身が捕らわれたりする。南龍は自分を守るためにも、それらの真相を明らかにしようとし、ついに、金座御金改役の後藤三右衛門による貨幣改鋳につながる後藤三右衛門の弟の宗三郎による偽小判作りの事件に行き当たるのである。

 実際には、水野忠邦は、幕府財政の立て直しのために、1835年(天保6年)に銅銭である天保通宝を改鋳している。しかし、含有する金や銀の質を落として、そこから莫大な差益を得ようとする貨幣の改悪が、やがて経済の混乱を招いたのは周知の事実である。本書では、貨幣改鋳に一役買っていた鳥居耀蔵が証拠隠滅のために後藤宗三郎家に火を放って、宗三郎を贋金作りで捕縛したことになっている。

 本書は、いわば捕物帳仕立てである。事件の真相に迫るのが観相師である南龍という人物であるが、謎が政治に絡んだりしているだけに社会現象と関連し、奥深さを見せている。だが、謎そのものが複雑ではなく、比較的あっさり謎解きに進んで行ったりしているきらいがないでもない。それぞれの登場人物たちの深みなどはこれから記されていくのだろうが、本書ではまだそこまでは至っていないような気がする。

 テレビの脚本を書かれていただけに、物語の展開や文章はこなれていて、娯楽時代小説としての筋立ての面白さがある。観相という独自の人間観で人を見ていくというのも、味のある設定だと思っているし、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」という姿勢があるのも、あるいは「人を見た目で判断する」のも現代的であるだろうと思う。ただ、こういう小説は書くのに難しいだろうと察したりもする。

 それにしても、今日は寒い。「2・26事件」の時も東京は大雪だったそうだが、今日の寒さは格別のような気がしないでもない。「春よ、来い」そう願う。

2012年2月16日木曜日

坂岡真『照れ降れ長屋風聞帖 福来』

昨日は所用が重なってこれを記すことができなかったが、今日は、仕事も比較的のんびりと始めた。今日は、寒さがぶり返し、気温の低い曇天が広がっている。三寒四温ではなく、六寒一温ぐらいだろうか、まだまだ、春は遠い。

 昨夜、いささか疲れを覚えていたが、坂岡真『照れ降れ長屋風聞帖 福来』(2009年 双葉文庫)を気楽に読む。何とはなしにこのシリーズを読んでいるのだが、これはこのシリーズの十三作目。本作は、このシリーズの中心的人物である「照れ降れ長屋」に住むうらぶれた中年浪人の浅間三左衛門やその妻で十分の一屋(仲人業)をしている「おまつ」ではなく、浅間三左衛門をひとかどの人物と見込んでいる若い町奉行所同心である八尾半四郎である。この八尾半四郎を中心にした「鳥落としの娘」、「紅猪口」、「福来」の三話がここに収められている。

 八尾半四郎は、町奉行の隠密をしている弓の名手である雪乃に惚れているが、なかなかうまくいかない。この雪乃の物語が、第一話「鳥落としの娘」で、牢破りをした強盗の仁平次を捕らえる密命を帯びて、得意の矢で見事にこれを捕らえるが、その仁平次が江戸送りになるときに何者かに殺されるのである。仁平次は、尾張藩上屋敷から三万両もの大金を奪ったひとりだと言われていた。

 だが、そこには尾張藩勘定奉行の公金流用が絡んでいて、流用した公金を糊塗するために盗まれたことにして誤魔化そうとする企てがあったのである。

 雪乃は単身でそれを暴いていくし、八尾半四郎は仁平次の殺害からその真相に近づいていく。仁平次は見事な矢で射殺されていた。尾張藩には矢の名人と言われる人物がいたのである。奇しくもその時、将軍の命で矢の通し比べをすることとなり、鳥落とし名人と言われた父親の代わりに雪乃が出場することになり、仁平次を射殺した尾張藩士と矢の射かけ比べをすることになる。

 雪乃は半四郎の自分に対する気持ちを知っていたし、その気持ちにこたえようかどうかを迷っていたが、矢の通し比べに見事に勝利し、結婚を諦めて武者修行の旅にでるのである。八尾半四郎には縁談の話が持ち上がっていた。

 第二話「紅猪口」は、浅間三左衛門の妻「おまつ」の連れ子で、日本橋呉服町の大店に奉公に出ていた「おすず」が、大店の娘と間違えられて拐かされる事件を扱ったものである。大店の娘は芝居の役者に入れあげていて、琴の稽古のときに「おすず」と入れ替わって自由を楽しんでいたのである。

 だが、その娘ではなく、入れ替わっていた「おすず」が拐かされて身代金が要求される。八尾半四郎は「おすず」を救うために奔走し、結局、大店の主が男色気を起こしたのがもとで、地回りに強請られ、男色相手であった芝居の役者ともどもに拐かして金を奪う計画を立てていたことがわかっていくというものである。「おすず」は無事に釈放されて戻って来て、拐かしを計画した者たちを八尾半四郎が捕らえるのある。

 第三話「福来」は、かつて裏店の住人たちからも慕われていた岡っ引きであった彦蔵が勤める池之端七軒町の自身番が襲われ、彦蔵が殺されるという事件が起こり、その事件の裏に、私腹を肥やそうとする町奉行所の同心と、彼が操るどうしようもない大名家の家臣の息子たちの欲望が渦巻いていたという真相を八尾半四郎が暴き、死闘を繰り返して、これを討つというものである。そして、八尾半四郎は雪乃ではなく、縁談のあった奈美という娘と結婚することになるという落ちが、最後に語られる。

 物語そのものはどうということもないが、物語の展開にどこにも無理がなく、書き慣れた作品であるとの印象を受ける。凝った文書もなく、気楽に書かれた作品のようで、気楽に読める。何となく、ただそれだけのような気もしないではないし、こういう気楽な作品ばかりだと時代小説という分野は飽きられていく気がしないでもないが。

2012年2月13日月曜日

山本兼一『ええもんひとつ とびきり屋見立て帖』

晴れたり曇ったりの天気で、気温も10度以下だが、太陽が顔を見せればほんの少し温かみを感じる。先日、荷物を整理していたら黒澤明監督『七人の侍』のビデオが出てきて、再見して、これはやはり名作だと思った。ストーリーが大胆であると同時に、細部に渡って細やかな配慮がされ、人間を決して美化せずに、思想性が明確な作品で、面白いだけのエンターテイメントとは全く異なっていると思ったりした。そういえば、最近、映画館には行っていないなあ。

 それはともかく、山本兼一『ええもんひとつ とびきり屋見立て帖』(2010年 文藝春秋社)を図書館から借りてきて読んだ。

 これは、前に読んだ『千両花嫁 とびきり屋見立て帖』(2008年 文藝春秋社)の続編で、京都三条大橋で「とびきり屋」という古道具屋を営む真之介と妻「ゆず」を主人公にした物語で、幕末のころの混乱した京都を背景とし、新撰組の芹沢鴨、坂本龍馬などが登場したり、本書では桂小五郎も登場したりして、時代の波に巻き込まれながらも、「ほんもの」の目利きをすることを大事にしながら古道具の商売をし、夫婦の絆を深めていくというものである。

 わたし自身には骨董の趣味もないし、道具へのこだわりもないが、人であれ物であれ、「ほんもの」を見分けていくには、たくさんの「ほんもの」に触れる経験と、その経験を自分のものにしていく精神が必要だと思うし、「ほんもの」が人生を豊かにしてくれるとも思っているので、「見分ける」ことを主眼にしたこういう作品は、比較的面白く読める。

 本書には、「夜市の女」、「ええもんひとつ」、「さきのお礼」、「お金のにおい」、「花結び」の五話と「鶴と亀のゆくえ とびきり屋なれそめの噺」が収められ、最後の「鶴と亀のゆくえ とびきり屋なれそめの噺」で主人公の真之介と「ゆず」が夫婦になるときのことが記されているほかは、連作の形になっている。

 第一話「夜市の女」は、古道具売買の形を借りて長州藩が新式銃であるミニエー銃を買いつける話で、幕末の頃に桂小五郎を助けていった芸者の「磯松」がその役割を任された人物として登場している。世の中が激しく流動する中で、「うっかりしていると、知らんあいだに、どこかの味方に組み込まれてしまう。よう考えて、自分らの生き方をはっきりさせんといかんわい」(42ページ)ということである。

 表題作となっている第二話「ええもんひとつ」は、香道を教えていた老公家侍が手放す香道具の中でただ一つだけ「ええもん」があり、それを手に入れるために真之介があれこれ苦労するが、「ゆず」が老公家侍の家に行き、懐かしい食事のにおいをさせたり、老公家侍の心を豊かにさせたりすることで、老公家侍から「ええもん」を買い取ることができたという筋立ての中で、道具を買うときの極意が「ええもんをひとつだけ買うこと」であることが語られる。

 「とびきり屋」となじみのある坂本龍馬がやってきて、「書画骨董ではないが、買わなければならないものがあるので、買うときの極意を教えてほしい」と尋ね、真之介と「ゆず」がそう教えるのである。
「ええもんを一つだけ買う」、これは暮らしを豊かにする極意でもあるし、人間の判断の極意でもあるだろう。だが、今は、見栄えばかりはよいが、「ええもん」が少なくなった。

 第三話「さきのお礼」は、何かを神頼みしたり、人に頼んだりするときには、先にお礼を言ってからする、という「ゆず」が習性として行っていることに絡んだ話で、商売のために新しい物を仕入れしようと「ゆず」が苦心し、やがてふとしたことで、窯場で手伝いをしている女性が焼いた蛍焼きの茶碗に巡りあっていくというものである。京の老舗の保守的な体質の中で、大胆に行動していく「ゆず」とそれを支える真之介の姿が爽やかに描かれる。

 第四話「お金のにおい」は、「とびきり屋」で働く手代から「目利きの奥義」を尋ねられた「ゆず」が「ほんまにええ道具というのんは、お金のにおいがする」と答える話である。「お金のにおい」というのは、真実に価値ある雰囲気がいい道具にはある、ということである。

 その主題のもとで、農家から買いつけてきた中にあった李朝白磁の徳利は新撰組の芹沢鴨にとられてしまうが、欲深い芹沢鴨がお礼目当てで連れて行った壬生の郷士の家で高値を払って買いつけさせられた壺の中に宮廷で使うために作られた高価な官窯の壺があることに「ゆず」が気づき、真之介がそれを対馬藩に売ることを思いついて、損が数倍もの得になって帰ってきた話が展開されている。

 第五話「花結び」は、幕吏や新撰組の手から逃げる桂小五郎の変装の場所として提供することになった「とびきり屋」だが、桂小五郎から書簡をあずかり、それを壺の中に隠し、上蓋に花結びをしていたところ、しつこく「ゆず」に言い寄ってくるお茶の若宗匠が買うと言いだし、そこに新撰組の芹沢鴨が現れ、万事休すとなりそうになるが、「ゆず」と若宗匠が花結びの争いをして、桂小五郎の書簡をまもるという話である。「ゆず」の度胸と駆け引きが描き出されている。桂小五郎があずけた書簡というのが「磯松」への恋文かもしれないというのがいい。

 第六話「鶴と亀のゆくえ とびきり屋なれそめの噺」は、少し遡って、真之介と「ゆず」が夫婦になる経過が記されており、愛する者のために懸命に生きようとする真之介の姿が中心に描かれている。

 とりわけてどうということはないが、「ほんもの」を見つけようとして懸命に生きる夫婦の知恵と姿が爽やかに展開されている。しかし、真之介が古田織部の血筋の者であることが前作で示されていたので、今後、そのことの展開があれば、話に重みが出るのではないかと思ったりもした。

 ただ、「いいものをひとつ」という発想は、人でも物でも大事なことだと改めて考えさせられた。もちろん、身の廻りに高価な物は何もないが、自分が好きな物や好きな人、好きなことが「いいもの」だろうと思ったりする。

2012年2月10日金曜日

隆慶一郎『隆慶一郎全集1 吉原御免状』

よく晴れ渡っているが、気温が低い。だが、この寒さもあと少しだろう。全体的に低迷した状況の中で、なかなか馬力がかからないままで毎日を過ごしているが、昨日、久しぶりにあざみ野の山内図書館まで行ってきた。図書館はあざみ野駅から坂道を登ったところにあるが、この坂がなんともきつい。短い坂なのだが、のぼりつめて息が切れてしまった。日頃の運動不足を痛切に感じる。

さて、葉室麟『蜩ノ記』をかなり長く書いてきたが、先日、隆慶一郎『隆慶一郎全集1 吉原御免状』(2009年 新潮社)を面白く読んでいたので、記しておくことにする。

隆慶一郎(1923-1989年)は、本名、池田一郎で、長い間多くの映画やテレビドラマの脚本を手がけ、いまでも彼の脚本に基づく作品がたくさん放送されたりする人で、1957年(37歳)の時から始めた脚本家としての活動は、日本のテレビ界を支えたとまで言われている。彼が作家として活動を開始したのは還暦を過ぎてからで、その理由として、師であった小林秀雄が在命中は怖くて小説など書けなかったと、自ら語っている。戦後に東大に復学した後、小林秀雄が参画していた出版社である創元社に入社している。

隆慶一郎が作家として活動をはじめて僅か5年足らずで死去したために未完のものや構想だけのものも多いが、1984年に発表した処女作『吉原御免状』を初め、『影武者徳川家康』、『一夢庵漂流記』など完成度の高い優れた作品を残している。ちなみに、『一夢庵漂流記』は、1990―1993年にかけて原哲夫が『花の慶次 雲のかなたに』というタイトルで漫画化している。

この人の作品をこれまで読む機会がなかったのだが、『水戸黄門』や『鬼平犯科帳』、『ご存知遠山の金さん』などの脚本家として知っていたし、彼の師であった小林秀雄は、文学的にも思想的にも極めて優れた評論家で、彼のドストエフスキー論などはわたしも大きな影響を受けた。それで、改めて全集本を読み始めることにした次第である。

『吉原御免状』は、発表されてすぐに直木賞候補となった作品で、肥後(熊本)で晩年を過ごした宮本武蔵に育てられて二天一流を学んだ松永誠一郎が、武蔵の遺言に従って江戸の遊郭である吉原を訪ね、そこで自分が後水尾天皇(1596-1680年)の落胤であることを知ると同時に、遊郭である吉原が、徳川家康から御免状を得ることによって、幕府や町奉行所の介入から自由の民である傀儡子(くぐつ・・傀儡)を守るための城塞でもあることを知り、御免状を奪って吉原の自由を認めようとしない老中の酒井忠清やその手先である裏柳生(柳生列堂儀仙)と死闘を繰り返し、吉原を守っていくというものである。

作品そのものの発想は奇抜で、たとえば、なぜ吉原だけが御免状をもらうことができたのかということについては、関ヶ原の戦い以後の家康は影武者で、吉原を作った庄司甚右衛門(甚内)が傀儡子の出であり、家康の影武者も傀儡子の出で、ともに自由の民を守るためであるとされていたり、あるいはまた、柳生宗冬の弟の列堂儀仙が公儀隠密刺客を行う裏柳生を統率する者であるという設定になっていたりする。晩年の徳川家康が影武者であったという発想は、後に書かれた『影武者徳川家康』の基ともなっている。これらの発想が歴史的事実の中できちんとはめ込まれて、エンターテイメントの無理のない大きな要素となっている。また、主人公が後水尾天皇の落胤というのも、後水尾天皇は子だくさんで性的にも奔放な人物であったので、考えられないこともない設定である。そして、もちろんそこには、家康―秀忠―家光の時代の幕府と朝廷との確執もきちんと描かれている。二代将軍徳川秀忠の人物像も、なかなか面白い。

そして、何よりも、傀儡子を自由の民として位置づけ、それを守り抜こうとする姿勢が、吉原という特殊な遊郭を守ることで徹底されていくという視点が極めて優れているように思われる。江戸幕府が身分制度を定めて差別を徹底させようとしたことと自由の民の砦である吉原を守ることとで、対峙するものとして描かれていくのである。

傀儡子(くぐつ)は、元々は「山の民(山窩―さんか)」と呼ばれる狩猟を中心にした非定住の民で、人別(戸籍登録)などもなく、山間を移動して生活をしていたと言われ、平安時代ごろから諸国を旅して芸能などによって生計を維持していた人々のことを指す。

多くは寺社などで、人形劇や奇術、剣舞、相撲、滑稽芸などを行い、呪術の要素も持ち、女性は詩を唄ったり、お祓いをしたり、あるいは、客と閨をともにしたとも言われる。やがて、寺社に抱えられたことによって、一部は公家や武家に庇護され、それが猿楽や人形浄瑠璃、あるいは能楽(能や狂言)や歌舞伎となっていった。寺社に抱えられなかった多くも、旅芸人や渡り芸人となったりしていた。また、それらを客寄せとして用いる香具師とも深い繋がりをもっていた。

人別が作られ、住民登録が厳しくされる中で、これらの人々は抑圧され、弾圧され、差別されていったが、隆慶一郎は、これらを「優れた自由の民」として、吉原という遊里を自由と被差別の砦とすることによって、本書の中で甦らせたのである。

本書に収録されている縄田一男氏の「解題」に、「吉原には、至福の美と共に、壮大な謎がある。何故、徳川家康は、庄司甚内だけ、吉原の設立を許したか、・・・何故、吉原だけが、夥しい大火の歴史をもっているか、何故、家光、綱吉、吉宗の三人は、吉原に弾圧を加えたか、・・・その謎に挑もうとしている」という作者自身による「作者の言葉」を紹介し、また単行本の作者自身の「後記」が引用されている。その中で、隆慶一郎は、

「徳川幕府の制度から見ればまことに驚くべきことだが、吉原の内部には完全な自治が認められていた。・・・江戸の中で、これほどの自由が許されているのは寺院しかない。そして寺院と吉原に共通していることはただ一つ、無縁ということだ。無縁とは俗世間や、そこにいる一切の身内、親族、友人と完全に縁を絶つことを云う。・・・これほどの自由が許される場所を示す言葉は一つしかない。中世の公界(くかい)である。公界とは、酒井や桑名に代表される、権力不入の地、今風にいえば自由都市のことだ。・・・徳川幕府が、この中世の公界を抹殺するためにどれほどのことをしたかは歴史に明らかである。・・・僕は、この僕にとっては初めての小説の中で、敢えてこの巨大な謎に挑んでみた」(本書425-426ページ)

と述べて、社会差別の問題に真っ向から、それもエンターテイメントの形で、向き合っているのである。

武家による支配の強化と税収のために、徳川幕府は身分制度を強化し、人間を差別化する政策をとった。「芸人」も「川原こじき」と呼ばれもした。だが、被差別部落民への差別政策は明治政府の方が激しかったかもしれない。現代でも、住民登録や国民総背番号制の導入は、「自由の民、遊民」を許さない枠組みであり、基本的には支配の強化と税収の増加が目的であろう。だから、自由であろうとする者は息苦しくなる。作者が『吉原御免状』で描く吉原は、そうした自由のための闘いでもある。

縄田一男氏の「解題」で個人的に面白いと思ったのは、作者自身によるこの作品のシノプシス(構想)が紹介されていることで、それによれば、作者は「一話一話は、吉原の行事、遊女の種々相としての生活、遊女をとりまく人々(やりて婆からお針まで)の哀歓、吉原で生計をたてる種々の商人の実態と生活等に題材をとり、なるべく一話完結(エピソードの完結)の形をとるつもり」と構想をねっていたらしい。おそらく、その構想に従って資料も集められたのだろう。作品の最初の題名は『吉原犯科帖』で、当初は捕物帳的要素の加味が意図されていたかもしれないという。

本書は、この最初の構想からはずいぶん違った展開になっているが、完成した作品は、その奇想天外な発想も含めて、大きな意味をもつ作品になっていると思う。手にしているのは全集なので、これから少しずつ読んで見たいと思っている。

2012年2月8日水曜日

葉室麟『蜩ノ記』(6)

寒冷前線が通過して緩んだ冬型の気圧配置が戻って来て、寒い日になっている。ヨーロッパでも今年は異常な寒波の襲来になっているが、寒いと、やはり、身も心も縮む気がする。

 さて、葉室麟『蜩ノ記』の最後であるが、やがて、檀野庄三郎と薫は結婚する。それは、次世代の新しい出発であり、本書が希望で終わることの象徴でもある。源吉の父万治も戻って来て、心を入れ替えて働くと言う。村を守るために播磨屋の番頭と郡方役人の矢野啓四郎を手にかけた源兵衛は、亡くなった者を弔うために頭を丸めて長久寺に入ると言う。そして、郁太郎の元服も終わり、十年の歳月をかけて家譜が完成する。秋谷は完成した家譜の原本を長久寺に預けるために慶仙和尚を訪ね、そこで和尚の計らいで「お由の方」と再会する。終わるものと始まるもの、それが圧巻の姿で描かれていく。

 「お由の方」は、秋谷のために茶を点て、二人は静かに昔語りをする。そこには、互いに想いを秘めながらそれぞれ違った道を歩んできた者だけがもつ再会と別れの哀しさが漂う。そして、八月八日の朝、秋谷は普段と変わらずに起き出し、妻の織江に「われらはよき夫婦であったとわたしは思うが、そなたはいかがじゃ」と問いかける。織江は「決して悔いはございませぬ」と言い、秋谷も「わたしもだ」と言い、「ともに眺める景色をいとおしむかのように、ふたりは庭を眺め続けた」(323ページ)のである。そうして秋谷は黙々と切腹に赴いていくのである。

 一方、戸田秋谷に殴られた家老の中根兵右衛門も、こうした秋谷の姿で変わっていく。中根兵右衛門は訪ねてきた水上信吾に「そなたは、秋谷がなにゆえ切腹の命を、何も言わずに受け入れたかわかるか」と尋ね、「われらは源吉なる向山村の百姓の子を死なせてしもうた。本来ならば、わしが責めを負わねばならぬところを、秋谷はわしに代わって源吉に詫びるために切腹をいたすのだ。なればこそ、向山村の百姓たちも秋谷の心を慮り、一揆を思い止まったのであろう」、「それが武士というものだ、と秋谷はわしをなぐって諭しおった。わしは秋谷に大きな借りが出来てしもうた」(324ページ)と言うのである。そして、秋谷の子の成長を待つと語る。

 秋谷の切腹が長久寺の境内で行われた。蜩が一斉に鳴き始めた。秋谷の命が絶たれたことを察した郁太郎は、顔を空に向けて泣くのをこらえ、「父上も源吉も立派に行きました。ふたりに恥じぬよう生きねば、泣くことはゆるされぬと思います」と声を振り絞って語る。「蜩の鳴く声が空から降るように聞こえる」(327ページ)の一文をもって、物語の幕が閉じられている。

 疑うことによってではなく、ただひたすら信じることによって、愚直なまでに愛する者のために限られた年月の中を変わらず坦々と生きていく。この物語はそういう物語である。そして、それを見事なまでに直截に描きだした物語である。

 本書の中程に(186-187ページ)、主人公戸田秋谷の姿を示すものとして、千利休が参禅の師であった古渓和尚から贈られた言葉が用いられている。

 「心空及第して等閑に看れば、風露新たに香る隠逸の花」

 という言葉である。すべてのこだわりを捨ててみれば、世に隠れてはいるが孤高で優れた花の香りがわかる、というほどの意味であろう。物語の中では、長久寺の和尚である慶仙が訪ねて来た郁太郎と薫に父親の秋谷の姿を示すものとして使われているのである。慶仙は、秋谷こそが「隠逸の花」だという。

 だが、これは作者が「かくありたい」と思う姿でもあるだろうし、この作品に託した姿でもあるだろう。世の中に認められても、認められなくても、そんなことには関わりなく、坦々と自分の歩みを続けていく。そういう姿勢がここにはあって胸を打つ。なぜなら、読者であるわたし自身も、たぶんこのまま枯れるようにして生を終えるし、それでいいと思っているが、自分の歩みを坦々と続けることができれば、と願うばかりだからである。

 その意味でも、この作品は誠実に、正直に生きようとしている人たちへの応援の作品でもあるだろう。もちろん、わたし自身は誠実さにも正直さにも欠ける者ではあるが。

 この作品が、2011年3月11日の東北大震災の後で出たことも大きな意味があるかもしれない。未曾有の破壊と福島の原子力発電所の事故で、ただ茫然と佇むしかない中で、「ひたすらに自分の道を歩むこと」を最後まで貫いた主人公の姿に、凛とした生き方があることを覚えることができるからである。「時が良くても悪くても」、うまくいってもいかなくても、世間の評価がどうであれ、そんなことに関わりなく、自分の心に誠実に歩み続けること、そういう姿がこの作品には醸し出されている。

 ともあれ、深い感動をもって読み終えた。完成度の高い名作で、こういう作品が歴史・時代小説の中で出てきたことを心底嬉しく思っている。

2012年2月6日月曜日

葉室麟『蜩ノ記』(5)

冷たい雨が降っている。だが、しばらく拭き掃除もしていなかったし、壁紙も黄変しているので、そろそろ塗り直す時期かもしれないと思いつつ、朝から壁や床などを雑巾がけしていた。

 だいたい月曜日は疲れを覚えるのだが、掃除の後で、整理なければならない書類や連絡事項もあって、今日は少し頑張って見ることにして、雑務をこなし、ようやく一段落ついたところ。それで、葉室麟『蜩ノ記』について、少々長くなっているが、それだけこの作品は完成度の高い濃密な内容をもつ作品だと思っていることもあって、これを記している。

 いよいよ物語の後半だが、冬はこともなげに過ぎ、その間に源吉の父の万治の動向や播磨屋の番頭と矢野啓四郎を殺したのが、戸田家に出入りする市松の父の源兵衛ではないかとの推測が記されている。しかし、それはまだ明白ではない。武士の横暴さから村を守るための苦肉の策として源兵衛が殺したことが推測されるだけである。

 そして、春となり、福岡で「お美代の方」の出生の秘事と播磨屋との関係を調べていた水上信吾が帰ってきて、「お美代の方」が武家の出ではなく、実は播磨屋の娘で、藩内で権力をもとうとした中根大蔵が播磨屋と手を組んで仕組んだことであることが明らかにされていく。そこには藩主三浦家の継嗣問題に繋がる恨みと中根家の先祖が遠島に処せられて苦労してきたことの二重の恨みがあり、こうした策略が行われたのではないかと秋谷は推測する。「お美代の方」の由緒書が重要な意味をもってくるようになるのである。力を欲する者は力で破れ、だいたい残るのは恨みだけで、その恨みは、そこに欲が絡むといつも粘着質のものとなる。そして、中根兵右衛門が抱く恨みは、彼が力をもつだけに、悪質な策略となる。

 その数日後、檀野庄三郎のかつての上司であり、家老中根兵右衛門の手先となって働いている原市之進が「お美代の方」の由緒書を探しに戸田家に訪れ、傲慢な脅しをかける。「お美代の方」の由緒書を渡さないなら、亡くなった矢野啓四郎が、戸田秋谷が村人を扇動して一揆を企てた疑いがあると報告していたので、それを取り調べると言い出すのである。秋谷は、源兵衛が自分を守ろうとして先に矢野啓四郎を殺したのではないかと思うが、原市之進の申し出や脅しをきっぱりと断る。

 その話を聞いて、郁太郎は、もし取り調べが行われるなら、播磨屋の番頭と矢野啓四郎を殺したのではないかと噂を立てられていた万治が疑われるし、しかもその取り調べが拷問であることを案じ、そのことを息子の源吉に知らせに行く。そして、源吉は父親の万治を村から逃がす算段をし、山に逃がす。

 しかし、原市之進の意を受けた郡方目付が来て、万治が戸田家の郁太郎と友だちだということもあり、源吉を捕らえ、棒叩きの折檻をする。だが、源吉は一言もしゃべらない。そして、折檻が三日間続いた後、源吉は、とうとう死んでしまうのである。源吉の遺骸は無惨だったが、妹のお春を悲しませたくないために顔だけは笑っていた。源吉の死は予想外の権力による殺人にほかならなかった。

 郁太郎は源吉を死なせた咎はだれにあるか、と秋谷に問う。秋谷は、「源吉は命をかけてわれらを守ってくれた。それに報いねばならぬゆえ、話して聞かせる」(263ページ)といって、「此度のことの源は、中根ご家老がお美代の方様に関わる秘密を守り抜こうとしたことにより発しておる」と教えるのである。郁太郎は「向山村は中根ご家老様の知行所でございます。源吉のことをご存じでしょうか」と問い、秋谷は「いや、知るまいな」と答える。郁太郎は、そのことで思うところがあり、その夜、家を出て中根屋敷に向かうのである。

 秋谷は息子の郁太郎が出かけたことを知っているが、それを黙って見送るだけである。檀野庄三郎がそれに気づいて秋谷のゆるしをえて郁太郎の後を追う。この時の秋谷に、自分の息子が一度決めたことを信じ、尊重し、それを見守りながら見送る父親の姿がある。それは、息子を心底信じる父親の姿にほかならない。心配する母の織江と姉の薫に、秋谷は「源吉の友として、なさねばならぬと思い定めたことを果たしにまいったのであろう」(268ページ)と郁太郎を案じつつも決然と語る。決然と生きる武士と武士の子なのである。

 追いついた庄三郎に郁太郎は「源吉があのように死なねばならなかったことに、わたしはどうしても納得がいきません。すべてを命じられたご家老様が、源吉のことを知らないままでいるのは許されないと思います。だから、どうしてもご家老様に一太刀浴びせたいのです」と語り、「源吉は本当にいい奴でした。わたしは源吉の生涯の友でいたいのです。いま何もしなかったら、源吉の友とは言えません」と言う。それを聞いて、庄三郎は、「わかった。止めはせん」と語り、中根屋敷まで案内していくのである(267ページ)。ここにも、子どもとはいえ、男が一度心底から決めたことを尊重する姿がある。

 秋谷は、織江と薫に言う。「武士の心があれば、いまの郁太郎は止められぬ。檀野殿は郁太郎を見守るつもりで追ってくれたのであろう」「檀野殿は武士だ。おのれがなそうと意を固めたならば、必ずなさずにはおられまい。檀野殿の心を黙って受けるほかないのだ」(269ページ)。

 戸田家の人々、そしてそれに繋がる檀野庄三郎は、この危機的な状態の中で、いわば生も死も越えた人としての信頼を示すのである。死のうと生きようとまっすぐに信じて生きていく。それが戸田秋谷の姿である。そして、秋谷に接してきた檀野庄三郎も「わたしも源吉を好きでした。源吉は穏やかながら、常にしっかりとした考えをもち、自らを律し、家族のために尽くすことを知っていました。おとなになれば、村のひとびとを助け、多くの者を幸せにしたのではないかと思います。源吉のために何かをするのは、武士としての自分の務めです」(271-272ページ)と語り、自ら咎を受けることを承知で郁太郎とともに中根兵右衛門に会うのである。

 中根兵右衛門は、「朝粥の会」と称する若手の吏僚たちとの打ち合わせをしていた。権勢を誇る中根兵右衛門のところに集まる若手の吏僚たちは、ただおもねるだけで、その中にいた原市之進は、郡方のひどい取り調べで源吉が死んだという失策を中根兵右衛門の叱責を恐れて報告しなかった。こういう光景は、いまの企業で行われていることを反映させたものであろう。そこにあるのは「いやらしさ」だけである。

 そこに郁太郎と檀野庄三郎がやってくる。庄三郎は元上司や家老の前でも毅然とした態度で臨むし、郁太郎は源吉の死を明確に告げる。郁太郎は、「源吉は、わたしの父をめぐる藩内の確執から死に至らされたようなものです。それなのに、源吉が死んだことをご家老様がご存じないのは許せないと思いました」と言う。中根兵右衛門は、「わしは藩を預かる家老である。さような百姓の小倅のことまでいちいち気にかけているわけにはいかん」とうそぶく。だが、郁太郎はひるむことなく、「いえ、自らがなさったことで、領民がひどい目に遭ったことを、藩の家老として、向山村を治める者として、ご家老様には知っていただかねばなりません。そのために、わたしは参りました」と言って、中根兵右衛門に一太刀浴びせようとするのである。

 だが、中根兵右衛門は、刀を抜けば、死を免れないだけでなく、家族もただでは住まなくなるばかりか、源吉の家族も捕らえて磔にすると脅す。郁太郎は、恐がりのお春がそんな目にあったらどれほど脅えるだろうと抜きかけた脇差しから手を離し、「卑怯・・・」と言って断念する。檀野庄三郎は、それを見て、「郁太郎殿、見事であったぞ。いま、ご家老は武士としてあるまじき言葉を吐かれた。・・・郁太郎殿は、源吉のために間違いなく一太刀浴びせることができましたぞ」と言い、二人は捕縛される(278-282ページ)。

 二人を座敷牢に閉じ込めた中根兵右衛門は、二人を処罰すれば屋敷内でのごたごたが明らかになってしまうので、戸田秋谷に、二人をゆるす代わりに「お美代の方」の出生を書いた由緒書を渡すように申し出る。秋谷の切腹の取りやめも言上すると言う。中根兵右衛門は、二人をゆるす気などとうていなく、別の日に処罰するつもりだし、秋谷の切腹についても、ただ申し出るだけで、そのために働く気などさらさらない。

 だが、座敷牢に閉じ込められた郁太郎は、それぞれに覚悟を定めていく。庄三郎は郁太郎に「志を果たしたと思うのなら、源吉のように笑っておればよいのです」と語り、自らも向山村で秋谷と接するうちに、「ひとは心の目指すところに向かって生きているのだ、と思うようになった。心の向かうところが志であり、それが果たされるのであれば、命を絶たれることも恐ろしくない」と思うのである(289ページ)。

 一方、中根兵右衛門の使者となった水上信吾から中根兵右衛門の申し出を聞いた戸田秋谷は、中根の真意を見抜き、案じる織江と薫のためにも二人を救出に中根屋敷へと向かう。そして、正面から堂々と入っていき、あやまる郁太郎に「何をあやまることがあろうか。そなたは、友のためにしなければならぬと思い定めたことをやったまでだ。武士としてなんら恥じることなき振る舞いだ。わたしはそなたを誇りに思うぞ」(298ページ)と語りかけ、「お美代の方」の由緒書を渡して中根兵右衛門と渡り合う。

 中根兵右衛門は、そのような戸田秋谷を見て、思わず、自分が若い頃から戸田秋谷を意識し、競い合うように生きてきたのだと露吐する。むろん、秋谷には人と競い合うなどという発想そのものがなかった。だが、兵右衛門の父の中根大蔵が兵右衛門に秋谷と競い合うように仕向け、やがて権力を手に入れた中根兵右衛門が、秋谷を郡奉行から外して江戸に追いやり、しかも事件を画策した赤座与兵衛の裏切りを恐れて切腹させたことを語り出すのである。中根兵右衛門は秋谷が「お美代の方」の由緒書を差し出したことで、秋谷が自分の前に屈したと思ったのである。

 ところが、秋谷は、「それは、もはやただの紙切れ同然でござる」(309ページ)と言い放つ。長久寺の慶仙和尚に寺の記録として残すようにすでに依頼したので、どんなに隠しても歴史として残ると言うのである。そして、兵右衛門を殴りつけて「源吉が受けた痛みは、かようなものではなかったのでござる。領民の痛みをわが痛みとせねば、家老は務まりますまい」(312ページ)と言って、捕らわれていた二人を連れて堂々と帰るのである。

 この最後の山場は、いわばまっすぐに、ひたすらまっすぐに己の信じるところを生きてきた戸田秋谷と、策を弄して自分を守り、地位を得ようとしてきた中根兵右衛門の直接の対決である。表面的には、秋谷は切腹するであろうし、中根兵右衛門は家老としての職にいつづけるであろう。もちろん、作品の主張から言って、勝敗などが問題なのではない。だが、秋谷はなんと清々しく、堂々としているのだろう。傲慢になることもなく、卑屈になることもなく、坦々と己の道を生きている姿が、ここで貫かれているのである。

 この作品について、もう少し記しておきたいこともあるので、この感動的な物語の結末とわたしなりの思いは次回に記すことにする。

2012年2月3日金曜日

葉室麟『蜩ノ記』(4)

昨日はとてつもなく寒い日だったが、いまの寒波もピークを越えたとのこと。しかし、今日も寒い。「春はまだ遠い」思いがある。

 葉室麟『蜩ノ記』について、長くなっているが続きを記しておく。

 残された時間が後一年半を切ったとき、戸田秋谷の娘薫は、父親の切腹の原因ともなった「松吟尼(お由の方)」を檀野庄三郎とともに訪ね、「松吟尼」が父親のことをどう思っているのかを聞く。

 「松吟尼」は、「秋谷殿のことを、わたくしもさほど存じ上げておるわけではございません。ただ江戸にて殺められかけたわたくしを助けてくださいましたおりに、ひととしての縁を感じたしだいです」と語る。そして、その「縁(えにし)」について「縁で結ばれるとは、生きていくうえの支えになるということかと思います」と言うのである(179-180ページ)。「松吟尼」にとって秋谷は「生きていくうえでの支え」となったと言う。「ただ、それは秋谷殿のあずかり知らぬことです」とも語り、景色に目を転じて「あのように美しい景色を目にいたしますと、自らと縁のあるひともこの景色を眺めているのではないか、と思うだけで心がなごむものです。生きていく支えとは、そのようなものだと思うております」(180ページ)と言うのである。

 「薫殿、ひととは哀しいものです。たとえ想いが果たされずとも、生きてまいらねばなりません。されど、自らの想いを偽ってはならぬと思うております。そのこと、お許しください」(181ページ)と正直に「松吟尼」は薫に語る。

 ここにも、現実には藩主の側室にならなねばならないとしても、自分の心に正直に生きる女性のすがたがある。だから、「松吟尼」の心は美しい。自分の心に正直で、秋谷を想うことを隠すことも恥じることもない。それだけに、「松吟尼」がもつ愛情には深いものがあり、その心が薫に伝わるのである。

 そして、「松吟尼」は、自分を殺そうと画策した赤座与兵衛から彼の死の前に預かったという書状を檀野庄三郎に見せる。それによって秋谷を何とか救い出せないかと願ったからである。そこには、現藩主三浦義之の生母である「お美代の方」の出生に関する秘事が記されていた。

 戸田秋谷と檀野庄三郎は、そこに記されていた「お美代の方」の出生について調べを進めていく。檀野庄三郎は、それが秋谷を救う手だてになることを考えているが、秋谷は純粋に家譜を正確に記すためであった。調べてみると、「お美代の方」は、藩主三浦家とも繋がりがある別家の娘とある。だが、祭りの夜に何者かに殺された播磨屋の番頭とも繋がりがあるようで、家老の中根兵右衛門は、その番頭の姓を名乗る武家の娘を妾にしていた。中根兵右衛門は、播磨屋とも「お美代の方」とも繋がることになる。謎は残ったままである。

 その間に、檀野庄三郎と薫とのそこはかとない愛情の交流が挿入され、父親の切腹を防ぐために懸命になる庄三郎の姿に惹かれていた薫に、庄三郎は、思わず、「それがしがお守りしたいのは、戸田様だけではござらん。奥方様も郁太郎殿も、そして薫殿もです」と告げ、「それがしは、薫殿を生涯、お守りしたい、と思っております」と言ってしまう。その薫の返答は、朝餉のおりに一つの卵を庄三郎の膳に乗せることで現された。(こういう演出は、まことに心憎い演出で、その巧みさにうなってしまった。)

 そして、かつて城中で足を斬った友人の水上信吾が訪ねてくる。水上信吾の江戸での学問の師が藩校で講義をすることになったので国許に帰ってきたのである。水上信吾は、江戸で学問に精進する中で、己の生き方を変え、檀野庄三郎も戸田秋谷と接する中で己の生き方を変え、二人は和解し、庄三郎は福岡で「お美代の方」の出生に関わることを調べてくれるように依頼する。

 水上信吾は戸田家におもむき、秋谷と会い、その家族と会って、自分が福岡で調べることが叔父の中根兵右衛門に関わることであるにもかかわらず、秋谷の真摯な姿にうたれて調べることを承諾する。「わたしは江戸に出て吉永先生のもとで学問の道を進み、庄三郎は戸田様と会ってひととしての道を進んでいる。そう考えると、われらの間で起きた刃傷沙汰は無駄ではなかったということかもしれぬな」(208ページ)と言う。庄三郎と信吾は、共に前向きでさっぱりした人間になっていたのである。

 だが、そこでひとつの事件が起こる。郁太郎の友人で愛情深く懸命に生きていた源吉が郡方の役人である矢野啓四郎にひどく鞭打たれたのである。見廻りに来た矢野啓四郎が馬から下りたときに馬糞を踏みつけたのを見て、源吉の妹のお春が笑い、それをかばって源吉が声を上げて笑ったために激怒して鞭打ったという。矢野啓四郎は、元は勘定奉行所の役人だったが、商人から賄賂をもらっていたことが問題となり郡方に配属された狷介で傲慢な役人であり、村人たちは嫌っていた。

 源吉は「中身もねえのに威張る奴は、先々ろくなことあねえ。腹立てるまでもねえよ」と郁太郎に話す(211ページ)。そして、「おれは世の中には覚えていなくっちゃなんねえことは、そんなに多くはねえような気がするんよ」と言って、覚えていなくちゃならないのは、「おとうやおかあ、お春のことは当たり前じゃけんど、他には郁太郎のことかなあ」と言って、「友達のことは覚えちょかんといけん。忘れんから、友達ちゃ」(211ページ)とさっぱりと話すのである。

 そこに矢野啓四郎が馬で通りかかる。お春は脅えるが、源吉はお春を庇う。矢野啓四郎は再び鞭を振り上げて源吉を折檻しようとする。郁太郎は源吉を庇って前に進み出て「なにゆえの折檻でございますか」と堂々と渡り合う。そして、折檻ならば先ほどで済んだこと。再度の折檻は合点がいかない。それに郡方が村人に手をかけることは禁じられているはずだ、と理路整然と言うのである。わずか十歳ぐらいの子どもに過ぎないが、戸田秋谷にまっすぐに育てられた郁太郎はひるむことがない。

 矢野啓四郎は、郁太郎が戸田秋谷の子と知って「戸田秋谷は来年には切腹のはずだ。そろそろ夜逃げの支度でもしたほうがよいのではないか」とうそぶいて嘲笑して去ろうとする。郁太郎は我慢ならずに石礫を投げようとするが、源吉がそれを止めて、郁太郎の袖に止まっていたカナブンを指ではじき飛ばし、そのカナブンが矢野啓四郎の馬の耳に入り、矢野啓四郎は馬から振り落とされる。郁太郎と源吉、そして源吉の背に負われたお春は、そそくさとそこを去り、しばらくして笑いながら家に帰っていくのである。

 こういう挿話があるが、この矢野啓四郎が後に大きな問題となっていく。その年の秋、天候が急に不順となり稲の収穫を前にして嵐が来る予感があった。秋谷は、取れ高が少なくなるが、稲刈りを早めることを提案する。村の庄屋もそのことを同意する。しかし、郡方の役人である矢野啓四郎がゆるさない。年貢が少なくなったらどうするかと郡奉行にさえ横車を押しているという。矢野啓四郎は家老の中根兵右衛門のお声掛かりで、播磨屋とも関係し、播磨屋の番頭が殺された事件の探索を中根兵右衛門から命じられているのではないかという。

 凶作になり、年貢が納められなくと百姓たちは金を借りなければならなくなり、金を貸す播磨屋が村の田畑を買い漁りやすくなる。そういう策略があるというのである。

 その話を聞いて、戸田秋谷は、矢野啓四郎が庄屋に稲刈りを早めることを禁じる達しをするために出てくる場所に出て行くことにする。幽閉の身であることから咎めが案じられるが、戸田秋谷は平然と出かけていくのである。檀野庄三郎も郁太郎もともに行くと言い、三人は矢野啓四郎が達しをする庄屋屋敷に出かけていく。

 秋谷は、その場の険悪な雰囲気の中で庄屋に世間話をする形で、かつて今年と同じような天候の時に、取れ高が少なくなることを恐れた郡方の役人が、稲刈りを早めることに反対し、実際に大風、大雨となって凶作になったときにその責任をとる形で自害したという話をするのである。そして、矢野啓四郎に「ひょっとするとお手前にやりたいようにやらせたうえで、腹を切らせようと目論んだ者がおるのかもしれませんぞ」と言う。矢野啓四郎は、それを聞いて稲刈りを早めることを不承不承に承諾する。だが、腹立ちまぎれに、そこにいた源吉を見つけて「先日、わしが落馬したおりに笑いおったな」と言って、いきなり源吉をなぐりつけたのである。

 その時、源吉の父親の万治が息子を庇うが、万治が殺された播磨屋の番頭から金をもらって手先として働いていたことを暴露するのである。万治はそのために村人の信用を失い、村八分となる。村の中のことに口を出すことが出来ない戸田秋谷と郁太郎は、万治と源吉を残して帰らざるを得なかった。郁太郎は源吉のことが気がかりで、予測されたとおり大嵐が来て瓦岳が土砂崩れを起こし、源吉の家も壊れたときに、その修復の手伝いに出かける。父親の万治は相変わらず飲んだくれているし、村人のだれも源吉の家の修理には手伝わなかったからである。

 手伝いに来た郁太郎に源吉は言う。「えらいことやけど、どこの家も同じじゃから、文句は言えん」と言い、郁太郎が万吉のことを言うと、「この間、庄屋さんのところでお役人になぐられた時、おとうはおれのことをかばってくれた。あの時は嬉しゅうて、やっはりおとうじゃからあげんしちくれたち思うちょうるんよ。あれからおとうは村の衆から相手にされねえが、おれにとっては大事なおとうだ」(227ページ)と言って手伝いを断るのである。

 郁太郎の話を聞いて、村人から除け者にされている源吉の家の修理に、檀野庄三郎が行くと言い出す。源吉は手伝いを何度も断るが、檀野庄三郎は「武士がいったん言い出したことを、そなたは拒むのか」と言って押し切り、屋根の修理を仕上げる。そして、源吉だけでなく母親もお春も涙を流さんばかりに喜び、源吉が「郁太郎におれがすまんかったと言うてたと伝えてください。この前おれは、せっかく手伝いにきてくれた郁太郎につめたいことを言うてしもうた」と言うと、庄三郎は「さようなことは自分で申せ。友とはいつでも心を打ち明けて話せる相手だぞ」と言う(229ページ)。

 檀野庄三郎も、いつの間にか、思いやりの深いまっすぐな人間になっている。だが、そうした嬉しい出来事があった後、郡方の矢野啓四郎が何者かに鎖分銅に巻きつけられて殺されるという事件が起こり、事態が急速に展開していく。取り調べが行われたが犯人はなかなか見つからない。村では、播磨屋の手先であることを暴かれた万治がやったのではないかとの噂がでる。やがて冬がきた。

 この後の展開は圧巻で、涙なしには読み進むことができなかった。次回にその展開を記したい。

2012年2月1日水曜日

葉室麟『蜩ノ記』(3)

晴れて、寒さの中日とも言おうか、最高気温は10度を超えるそうだが、風が強い。ドアがガタガタと音を立て、風が空を鳴り渡っている音が聞こえる。今日から如月で、如月は人の精神のバイオリズムが低くなる月でもあり、どこか気持ちが批判的になってしまう。だが、梅の便りも聞こえ始めるだろう。

 さて、葉室麟『蜩ノ記』の続きをさらに記そう。

 不作のために年貢に耐えきれなくなり、百姓一揆や強訴を起こそうと近隣の村々と談合しているのではないかと案じた戸田秋谷は、その談合が行われている場所におもむいていく。かつて秋谷が郡奉行をしているときに農民の生活救済のために「青筵」の生産を奨励したが、それがいつのまにか博多の播磨屋という商人によって独占され、買い叩かれたために百姓たちの不満も高まっていた。秋谷は、その不満を抑えてきた責任もあるという。そして、村方の騒動に関わったことで咎めを受けるかも知れないが、檀野庄三郎も意を決して同行することにする。

 秋谷は談合が行われている小屋の外から声をかけて農民たちを説得する。だが、納得がいかない者たちもあり、鎖分銅の音をさせながら夜道をつけたりする。

 そういう大人たちの動きの中で、郁太郎と源吉の姿が挿入されている。源吉は郁太郎に「おれは早くおとなになって一所懸命働いて、田圃を増やしてえ、と思うちょる。そしたら、藺草も作れるようになる。安く買われるって言うけんど、藺草は銭になる。そうすりゃ、おかあに楽をさせてやれるし、お春にいい着物も買うてやれる。おれはそげんしてえから、不作だの年貢が重いだの言ってる暇はねえんだ」(100ページ)と言う。大人たちの騒動をよそに、源吉と郁太郎は人間としてまっすぐ歩く道を見つめていくのである。そして、秋谷の説得が功をそうしたのか、その年の秋は村での騒動はおこらなかった。

 そうしているうちに、年が明けた春、檀野庄三郎は、突然、家老の中根兵右衛門から呼びつけられ、監督不行届を叱責される。そして、思わず、秋谷が「松吟尼」と名を変えている「お由の方」に会ったことがあるという「蜩ノ記」の日記の記述を話たことから、戸田秋谷が七年前の事件を家譜にどう記すのかを知るために「松吟尼」に会うことになる。中根兵右衛門の思いとは別に、檀野庄三郎はなんとかして戸田秋谷を救う方法がないかを探すために事件の当事者である「松吟尼」に会うのである。

 「松吟尼」は、前藩主三浦兼通が死ぬ前に自分をゆるしたとき、戸田秋谷にもゆるしが出た、と言う。秋谷と「松吟尼(お由の方)」が一夜を過ごした夜は、だれに話しても何の不都合もなく何事もなかったのであり、兼通も赦免する内意があったのだ、と語るのである。だが、藩内では誰もそれを知らず、しかも秋谷は何も語らずに自ら死を選んでいるのである。それはなぜか。

 「松吟尼」は、自分と秋谷との関わりを静かに話す。「お由(松吟尼)」は秋谷が生まれた柳井家の下働きをし、戸田家に養子にいった秋谷は勘定奉行所に勤めていた。そして、「お由(松吟尼)」が使いに出た折り、偶然、同役の者たちに囲まれて折檻をされようとする秋谷と遭遇するのである。「お由」がそこにいることを知って三人の同役たちは秋谷への折檻を断念するが、同僚たちは私利私欲のない秋谷を煙たく思っていたのである。そのとき、「お由」と秋谷は、はじめて会話したという。

 だが、「お由」も秋谷も、共に相手への思いがあったのである。事件の折り、刺客に襲われた「お由」を呉服屋に匿って、一晩中護衛をしていたとき、なぜ、功もないかもしれぬのに自分を守ってくれるのかという問に、秋谷は「それがしの想いでやっていることもございますれば」と答え、「若かったころの自分をいとおしむ想いかもしれませぬ」と言うのである。そして、「お由」もまた、「あのころのわたくしをいとおしく思います」と答えるのである(119ページ)。二人の間にあったのは、ただそれだけである。そして、それは心の内奥に秘められたものに過ぎなかった。

 檀野庄三郎は、「松吟尼」の話を聞き、なぜ秋谷が死を選んでいるのか、まだ理解できないでいた。そして、その帰りに、かつて秋谷が事件の折に斬った赤座弥五郎の縁者の者たちに襲われているのを目撃する。武芸に秀でた秋谷はこれを難なく退けるが、その後で、秋谷はなぜ自分が弁明をして兼通の誤解を解こうとしなかったかを語る。

 秋谷は言う。疑いをかけてきたのが、自分を信じてくれているはずの相手でも、弁明をしようとするか、と。「忠義とは、主君が家臣を信じればこそ尽くせるものだ。主君が疑心を持っておられれば、家臣は忠節を尽くしようがない。」「疑いは疑う心があって生じるものだ。弁明しても心を変えることはできぬ。心を変えることができるのは、心をもってだけだ」(125-126ページ)と語るのである。そして、戸田家の人々には、疑うという気持ちをもった者がいないから、家の中に清々しい気が満ちている、と感じていくのである。

 この姿勢こそが、本書の鍵である。おそらく、作者がいちばん描きたかったことだろう。力をもち、権力を持って疑心暗鬼に策を弄するものと、疑う気持ちなど初めからなくて信じるこことで生きて行こうとする者の対比、それが切腹という命のぎりぎりのところで演じられていく。改めて、この物語は、そういう物語ではないかと思う。

 そして、事件の裏にあった赤座与兵衛の陰謀が明らかにされる。赤座与兵衛は、秋谷が斬った小姓の赤座弥五郎の父である。赤座与兵衛は馬廻役であったが、当時出入りの商人から賄賂をもらって私腹を肥やしたいた勘定奉行所の役人たちなどのまとめ役をしており、そうした風習を払拭しようとした戸田秋谷に脅しと警告をかけていた。そして、勘定方の役人たちに折檻をされそうになったときに秋谷と「お由の方」が行き会って話しているのを見て、その間柄を邪推し、嫌がらせをするために「お由の方」を藩主の兼通の側室として勧めたのである。そして、藩内の形勢が不利になったときに、現藩主を産んだ「お美代の方」側につくための証しとして息子の弥五郎に「お由の方」の暗殺を命じたのである。

 だが、その暗殺が秋谷によって失敗し、息子の弥五郎まで斬られたので、「お美代の方」派からも否まれた。「お美代の方」派を率いていたのは、国許では現家老の中根兵右衛門であり、江戸では江戸家老の宇津木頼母で、赤座与兵衛は二人にそそのかされて陰謀を企てたのである。赤座与兵衛は、前藩主兼通が亡くなった後で切腹していた。たいていの事件の裏には、いつでもあまり上等でない人の欲に絡んだ短慮があるが、赤座与兵衛は、そういう人物であった。

 こういう形で、戸田秋谷の事件の裏に、藩の実権を巡る争いが色濃く渦巻いていたことが徐々に明らかにされていく。だが、物語はこうした権力を巡る深刻な話の後で、秋谷の娘薫と檀野庄三郎とのそこはかとない交流が描かれていく。心憎い構成といえる。

 源吉の父が酒を飲んで怠けているのを案じて見舞いに行く薫の共をして源吉の家まで行き、瓦岳の寺まで使いに行くのである。その途中で、村の娘たちと薫との会話があったりして華やぎ、村の祭りの話が出てくる。その中で、戸田家のためにいろいろと下働きを引き受け、薫に想いもある市松が、村の青筵を独占している博多の商人である播磨屋が、村人に金を貸しつけ、返済できない者の田畑を買いあさり、小作人として儲けを企んでいることが告げたりする。この播磨屋のことが後に大きな展開の鍵となっていく。こうした構成の無駄のない見事さが、本書には随所にあるのである。薫は、播磨屋が祭りで村人に酒を振る舞い、それを市松が嫌っているので、祭りの日に何事か起こるのではないかと案じている。

 播磨屋は家老の中根兵右衛門にもかなりの金を使い、自分の妹を妾として差し出すなどして癒着し、山間部の田畑を買いあさり、藩内でも有数の大地主になていた。そして、もし、百姓たちが騒動を起こせば、賞罰されて田が買いやすくなるので、百姓たちが騒動を起こすことを望んだりしていた。播磨屋を嫌う市松の動向が案じられる。

 向山村の祭りは、若い男女が乱れる「暗闇祭り」であり、薫は檀野庄三郎に同行を依頼し、郁太郎、源吉とお春の兄妹たちと出かけていく。祭りが行われる神社では、播磨屋の番頭や手代たちが高張り提灯をかざして酒を振る舞っていた。祭りで太鼓をたたくことになっている市松はそれを見て、祭りは篝火だけで行うことに決まっているから高張り提灯を消すように言い、播磨屋の番頭と口論になる。その場は檀野庄三郎の仲立ちで収まるのだが、その夜、播磨屋の番頭が鎖分銅を使ったと思われる鎌で何者かに殺されてしまうのである。市松は鎖分銅を使う。そして、役人は市松を殺人犯として捕らえ、城下に引き立てていった。市松は、自分はずっと太鼓をたたいていたので殺していないと主張する。

 太鼓の音を証拠に秋谷は市松の無罪を証しし、市松は放免されるが拷問を受け、藩に対して恨みを抱くようになっていた。秋谷はこの恨みが一揆に繋がることを案じたりしていた。日常は変わらずに流れ、遂に秋谷の切腹まで一年半を切るようになる。秋谷を助ける術はまだ何もない。そうした慚愧の念を抱き続ける檀野庄三郎のところに、慶仙和尚から「松吟尼」が来るので、寺に来るようにとの手紙が届く。そのことを知った薫も「松吟尼」に会いたいので、自分も寺に行くと言う。

 こういう形で、父親が切腹を申しつけられていることを知る娘が、そのことをどう思っているのかが記されていくのである。展開の妙がここにもある。以後、物語は波瀾を含みながら展開されていくが、今日はここまでとし、そのことについては、また次に記すことにする。まことに筆力に恐れ入る。