2012年11月17日土曜日

西條奈加『御師 弥五郎 お伊勢参り道中記』


 雨が降って寒い。「国民の信を問う」という形で国会の衆議院が解散され、政治が慌ただしくなっている。誰かが「うんざり自民党、がっかり民主党、わけのわからぬ第三極」と言っておられたが、真に今の国民の心情を言い当てていると思う。あらゆる「政治的な事柄」とは無縁でありたいと思い続けてはいるが、生活を生き難くさせ、国民に無理を強いるような政治は御免こうむりたい、というのがわたしの率直な感想で、社会の病巣の根が深いので、社会的システムの構造を根本から見直すべきだろうと、非力ながら思っている。

 閑話休題。西條奈加『御師 弥五郎 お伊勢参り道中記』(2010年 祥伝社)を、やはりこの作者の作品は誠実で味があると思いながら、とても面白く読んだ。

 これは江戸時代全体を通して非常に流行した「伊勢参り」の世話をする弥五郎という「御師」を主人公にして、ある藩(砥野藩という創作上の藩)の商人が巻き込まれた事件の顛末をお通して、様々な人間模様を描いたものである。

 「御師」というのは、もともとは祈祷を行う神職であったが、各地で「講(お金を貯めで神社に参るもので、江戸時代には庶民の遊興も兼ねていた)」を作り、その旅の世話から参拝までの一切の事柄の面倒を見たもので、今の旅行会社の添乗員のような働きをし、それぞれ、寺の檀家と同じような檀那と呼ばれる贔屓があり、また担当する縄張りも御師毎に決まっていた。神社や仏閣参りは、物見遊山を兼ねた江戸庶民の最大の遊興でもあった、

 伊勢神社の御師の手代である弥五郎が侍たちに襲われている日本橋の材木商巽屋(たつみや)清兵衛を助けるところから物語が始まり、伊勢参りに行くという巽屋の世話と護衛を依頼されるのである。弥五郎自身、彼の上役に当たる手代頭から「坊(ぼん)」と呼ばれたりしていわくがある人物であるが、巽屋の伊勢参りにも深い事情がありそうで、それぞれが伏せられたまま、ともあれ、本所相生町の伊勢講の人々と共に江戸から伊勢に下っていく旅が始まっていくのである。

 人々は旅の途中の風光や名物を楽しみながら賑やかに旅を続けていくが、途中で同行を願い出た百姓が、実は巽屋を殺すための刺客であったり、情けをかけた小さな子どもたちが巽屋の荷物を狙うために雇われた「胡麻の蝿(盗人)」であったりするし、「おかげ参り」の一団が仕組まれたものであったりするということが続き、弥五郎はその度に一緒に連れてきていた友人で岡っ引きの下働きをしている亀太と共に難局を切り抜けていく。

 また、父親を心配した巽屋の一人娘が同行することになったり、講で一緒に来ていた女性が駆け落ちを企んでいたりもする。巽屋も何度か襲われる。それらのこ出来事を、持ち前の勘と剣の腕で弥五郎は切り抜けるのである。

 弥五郎は、実は御師の家の次男で、伊勢で暴れ者と喧嘩してこれを傷つけたために武家に預けられ、その武家も改易となったために、御師の家の手代頭が再び御師の手代見習いとしていたが、伊勢には戻りたくない事情を抱えていたのである。しかし、巽屋のどこか死を覚悟したような態度に気づき、彼の伊勢への旅を助けることにしたのである。

 巽屋は、元は砥野藩の家臣であったが、先代の藩主から藩の財政窮乏を救うために商人になることを命じられ、自分は吝嗇といわれるほどの切り詰めた生活をしながらも材木商として儲けた利益は全て藩に収めるという人物で、幕府の吉野杉を横流ししたのではないかという疑いがかけられていた。砥野藩は伊勢の隣の大和にある小藩で、藩の御用達商人が幕府の吉野杉を横流ししたことが幕府に知られれば大事に至ることが恐れられていた。巽屋は、自分と砥野藩との繋がりを消すために自分が仕えてきた砥野藩が自分に刺客を送ったのではないかと思っていた。

 こうして前途多難な旅が続いていくのだが、やがて、伊勢に入り、弥五郎はかつて自分が傷つけた相手の立場を損なわないように和解し、巽屋を襲ったのが砥野藩ではなく、彼と同じようにして商人になった仲間たちが、自分たちの生活の安定と稼いだ財を自分で使えるようにするために、藩との縁切りを仕組み、謹厳実直な巽屋を疎んじ、これを亡きものにしようとしていたことを突き止めていくのである。

 大まかな筋はそういう展開だが、見事だと思っているのは、この作品には誰ひとり悪人が登場しないことである。巽屋を襲う浪人にも彼なりの事情があるし、胡麻の蝿である子どもたちにも、また、巽屋を殺そうとした商人たちにも事情がある。そういう事情が丁寧に描かれて、それぞれの事情から出来事が起こってしまうことが記されていくのである。そして、「人を生かすことができて、はじめて一人前の御師」ということが語られ、「人を生かす」ことに結末していくのである。

 伊勢参りは、「変わりばえのない暮らしと、きつい仕事に追われる日々」を生きている人々にとって、希望であり、生きるための張り合いであり、極楽を提供するものだと、作者は語る。人間には、そういうものが必要だとわたしも思う。この作品自体が「人を生かす」という視点で人物が描き出されているから、この結末がすんなりくる。

 そして、作者は自分が小説を書くのも、そういうことであったらいいと願っているのではないかと思う。わたしも、自分の仕事についてそう願うところがある。しかし、人間の欲が悪を生み出すのは事実で、世の中には、その欲だけで生きているような人がいるのも事実だろう。欲は力を生むが、「力が正義」というのは、つまらない世の中であるに違いない。人の能力も含めて。

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