2012年11月30日金曜日

葉室麟『柚子は九年で』


 曇って雨の気配がする。昨日、散髪の予約を入れていたのをすっかり忘れてしまい、気づいたら夜ということになってしまっていた。「忘却とは忘れ去ることなり」というのは「君の名は」の名セリフだが、意識の外に置かれたものはすぐに忘れるように脳が働く証拠のようなものだろう。認知症は脳機能の低下ではなく、脳の別の働きのような気がしないでもない。

 閑話休題。小説ではないが、葉室麟の随筆集である『柚子は九年で』(2012年 西日本新聞社)を大変興味深く読んだ。この表題は、同氏が2010年に朝日新聞社から出された『柚子の花咲く』という本のテーマとなっている「桃栗三年、柿八年、柚子は九年で花が咲く」という言葉から取られたもので、2012年度の直木賞受賞後に、50歳で執筆を始められたというその軌跡を、それまで西日本新聞などで発表されていた短い文章で記されたものを含めて、まとめたものである。

 「桃栗三年、柿八年、柚子は九年で花が咲く」には、さらに「梨の大馬鹿十八年」というのもあって、わたしなどは梨を上回る大馬鹿者だが、この随筆には、同氏の粘り強さと誠実さが行間に溢れている気がした。本書には、十九篇の短文が「たそがれ官兵衛」として、また、四編の短文が「折々の随筆」、二篇の随筆が「直木賞受賞後に」と題して収められ、巻末には2005年に西日本新聞で発表された短編「夏芝居」が収められている。

 随筆や短編の文章は、同氏の他の作品ほどの「きれ」はないが、文学者として、あるいはひとりの人間としての誠実さを追い求める姿が浮かび上がってくるし、「ゲゲゲの鬼太郎」から白土三平の漫画「影丸」、寺山修司、五味康祐、松本清張、唐詩人の張九齢まで取り上げられるし、三島事件も取り上げられる。そして、これまでの作品の背景となった歴史的人物についても言及され、随題は多岐にわたっている。フランス文学を専攻した後で時代小説を書く、そういう妙味もある。

 これを読みながら、文学がある思想を表すことができる世代に同氏が属しておられることを改めて感じた。思想家は思想を体系化するが、文学者は思想を具体化する。そういう世代に属しておられるから本格的な歴史・時代小説が書けるのだろうと思うし、文学が読み取られて初めてそれが可能になる。葉室麟の作品は、いつかそういう読取られ方をするだろうと思ったりもする。心優しい作家が心優しい人物を時代や状況の厳しさに置いて描く。それが彼の作品だろうと思う。

 作家の随筆を読むのは随分と久しぶりだったが、あっさりと、しかしちょっと立ち止まるような感じのする随筆集だった。

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