2012年11月28日水曜日

中村彰彦『知恵伊豆と呼ばれた男 老中松平信綱の生涯』


 このところ寒い日が続いている。日没が早いので、気づけば、もう真っ暗ということが多くなっているが、昨日は、薄く暮れゆく薄藍の空に白い月がぽっかり浮かんでいるのを坂道を登りながら見ていた。冬の月も冴えざえとしていていい。

二日ほどかけて中村彰彦『知恵伊豆と呼ばれた男 老中松平信綱の生涯』(2005年 講談社)を読む。作者は歴史資料を丹念に当たって独自の視点から歴史上の人物を描き出すことに定評があるし、わたし自身もいくつかの作者の作品を読んで、いわいるその「史伝」に感じ入ることが多いのだが、作者が取り上げる歴史上の人物には「知者」と呼ばれた人が多いような気がする。

 本書は、「知恵伊豆」とまで称された江戸時代の知者を代表する人物であった松平信綱(15961662年)の生涯を描いたもので、松平信綱を取り扱った作者のほかの作品として『知恵伊豆に聞け』(2003年 実業之日本社)がある。

 松平信綱は、家康の家臣で武蔵国小室(現:埼玉県北足立郡伊奈町)の代官をしていた大河内久綱の長男として生まれたが、6歳か8歳の時(二説がある)、代官の子では御上の近習を勤めることは叶い難いので、松平姓をもつ叔父の松平正綱の養子にして欲しいと懇願して松平家に入ったと言われる。これは、もちろん、信綱の知者ぶりを示すために後に語られたことだろうが、信綱が松平正綱の養子となり、やがて直ぐにやがて二代目将軍となる徳川秀忠に謁見し、慶長9年(1604年)に徳川家光が生まれると、家光付きの小姓に任じられている。信綱8歳の時で、翌年の慶長10年(1605年)には五人扶持を与えられている(扶持はだいたい大人一人の男で一日に一合の米で計算されたとして年間でおおよそ360合(一年の日数はいろいろあったので360日で)、五人扶持で1800合、おおよそ270キロぐらいで、仮に10キロを4000円とすれば、現在のお金で110万円ほどであろうか。もちろん、貨幣価値が異なっているが)。

 信綱は小姓時代にから利発さを発揮し、ひたすら真面目に忠勤に励み、秀忠や於江に目をかけられていたようで、いくつかのエピソードが残され、本書でも取り上げられている。18歳くらいで、後に横須賀藩主となり老中となった井上正就の娘と結婚し、次々と加増されて、寛永5年(1628年)には一万石の大名となっている。彼が加増されたのは、知恵働きや忠勤ぶりで家光の覚えもめでたく、家光が将軍位を嗣ぐときの上洛に従い、その采配ぶりが見事であったためと言われる。信綱は先見の明があり、先を見越した準備に怠りがなく、合理的な精神を発揮したからであると言われる。そのエピソードもいくつか残されて、まさに「知恵伊豆」と呼ばれるほどの才能を発揮している。

 時代は武から官に移ろうとした時代で、彼のような才能を持つ人物を必要とした時代であったとも言えるだろう。武から文、それがこの時代であった。寛永9年(1632年)に大御所となっていた秀忠が死去し、名実ともに家光の時代になった寛永10年(1633年)に幕政の実務を行う「六人衆」となり、さらに老中に任じられ、3万石で武蔵国忍(おし 現:埼玉県行田市)の藩主となっている。信綱は老中として幕府における職務制度(老中職務定則、若年寄職務定則、寺社奉行や勘定頭などの職務)を次々と制定して、江戸幕府の基礎を作り、後には武家諸法度の改正や鎖国政策を完成させている。江戸幕府の幕藩体制は彼によって形成されたといってもいいかもしれない。

 寛永14年(1637年)に「島原の乱」が起こると、江戸幕府は乱の鎮圧のために最初は総大将に板倉重昌を任命したが、乱が長期化し、寛永15年に総大将に任じられ、大きな犠牲を出しながらも結局は兵糧攻めによってこれを鎮圧し、寛永16年(1639年)に3万石を加増され、6万石で川越藩主になった。この時に彼が藩主として川越の城下町を整えたり川越街道を整備したり、玉川上水を開削したりしたのが、今も残っている。寛永15年(1638年)から老中首座であった。

 慶安4年(1651年)に家光が死去し、その家光の遺言によって4代将軍となった家綱に補佐役として仕え、由井正雪らが反乱を企てた「慶安事件」を鎮圧したり、明暦3年(1657年)の「明暦の大火(これによって江戸城の天守閣も焼け落ちた)」の対応をしたりした。そして、寛文2年(1662年)、老中在職のままで病によって死去した。享年67(満65歳)の生涯である。

 松平信綱は、秀忠から家綱までの3代の将軍の時代に、江戸幕府の治世の基礎を築いた人間で、彼によってその後の250年以上にも渡る政治体制が築かれたといっても過言ではなく、「困ったら伊豆に聞け」と言われるほどの知者ぶりを発揮した人物であった。そして、謹厳実直を絵に書いたような生活をし、隙を作らず、面白みがないために同僚などからは「才はあっても徳はなし」と揶揄されたところもあるが、人徳もかなりあった人で、本書はその彼の才と徳を描き出そうとしたものなのである。

 ただ、何らかの人物を描き出そうとするときは、その人物に肩入れして、いわば惚れ込む形でないと描き出せないが、作者はかなり松平信綱に肩入れし、「あばたも笑窪」ではないが、いくつかの点で高評価し過ぎの気がしないでもない。彼は官僚としては極めて優れた人物であったが、その分独善的なところも多分にあったと、わたしは思っている。彼が発揮した知恵も、金と力がある人間の側のものであるように思えるからである。

 ともあれ、松平信綱という人間がどういう人間であるかを知る上では、資料がよくまとめられていて、エピソードもたくさん盛り込まれ、面白く読めた。歴史小説として、ここからもう少し膨らみを持たせることができるのではないかと思えるほど内容は豊かであった。巻末に作者が作成したと思われる松平信綱の詳細な年表が収録されていて、これは貴重な年表になっている。作者の労の多い作品である。

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