2013年5月31日金曜日

志水辰夫『つばくろ越え』

 今日は梅雨の晴れ間という感じで青空が広がっている。気温も少し高めになっていて、まことに洗濯日よりの感がある。インターネットの接続契約の変更をしなければならなくなって、その手続きをしているのだが、こういう書類などを書いていると、今の社会が本当に「一時的(Temporary)」であることを強く感じる。20世紀の終わりごろにアメリカの社会学者たちが現代社会を「Temporary Society(一時的社会)」と呼んでいたが、ますます社会のシステムそのものが一時的になった気がしてしまう。

 閑話休題。先日、志水辰夫『みのたけの春』(2008年 集英社)を読んで、いい作品だと思い、次に書かれた『つばくろ越え』(2009年 新潮社)を読んでみた。

 しかしこれは、私にとっては少し読むのに時間のかかる作品で、渋味と言えば言えるのだが、描写が押さえ込まれているだけに描かれる人物像がなかなか掴みきれないところがあるような気がしたのである。作家が長く作品を書き続けると、文章が簡素化して、それはそれで味わい深いものになるのだが、「艶」というのが薄れていくからかもしれないとも思う。

 本作は、大金や重要なものを目的地まで各宿の飛脚問屋を通さずに一人で運ぶという「通し飛脚」の仕事をする人物たちを主人公にした短編連作である。江戸で「蓬莱屋」という飛脚問屋をしていた勝五郎は隠居したが、それでも「通し飛脚」の仕事を請け負って、仙造や宇三郎といった健脚で義理も人情にも厚く、状況判断も的確にできる男たちを使って「蓬莱屋」の出店のような仕事をしているのである。

 飛脚というのは、当時の身分制度では武士でも商人でもなく、あるいは博徒や侠客でもなく、どちらかといえば職人に入るような仕事であるが、単に健脚であるだけでなく道中の危険から身を守らなければならず、的確な状況判断も必要とされ、強い忍耐力もいる仕事である。江戸時代は交通基盤も整えられて、一般の飛脚はひと目でそれとわかる格好をしていたが、「通し飛脚」は大金や密書を運ぶことが多かったために、密かに、しかも早く運ぶことができるよう股旅者のような旅人の姿をしていたと思われる。

 この作品でも、道中合羽をまとって、まんじゅう笠をかぶり、道中差しを差しただけの目立たない格好で主人公たちが登場する。このあたりや主人公たちが通る峠や村の地理は、さすがにきちんと踏まえられて、目立たないが確実な人物が主人公になっている。

 さて、表題作にもなっている第一作「つばくろ越え」は、新潟から江戸に向かう山間で「通し飛脚」として大金を運んでいた弥平が襲われ、大金を奪われるのを避けるために谷に投げ捨てて息を引き取ってしまったのだが、その大金の行くへがわからず、弥平の弟分にあたる仙造が、弥平を襲った者たちと金の行くへを探るという設定で始まる。場所は「つばくろ越え」と言われる裏道で、あたりには寒村があるだけのところであった。

 仙造は何度もその峠に足を運び、金のあり場所に見当をつけていたが、金が投げられたと思われる崖の中腹の出っ張った岩場に降りることができないでいた。その探索の途中で、彼はひとりの子どもと出会う。その子は、物貰いをしながら父親と旅をしていたが、その父親がとうとう力尽きて死んでしまうところに行き会ってしまうのである。その子は巳之吉という少年で、巳之吉はしたたかに生きることを覚えた少年だった。

 仙造は身の軽い巳之吉を縄で吊るして岩場に降ろし、弥平が投げた金を探させるが、巳之吉はないという。その時は仕方なく、仙造は巳之吉を近くの村に預けて江戸に帰る。しかし、再び「つばくろ越え」を訪ねて見たとき、巳之吉は預けられた村の家の女中と懇ろになったり、村の娘と交わったりする少年になっており、したたかな生き方をする巳之吉の本性を現した姿になっていた。仙造は巳之吉をそのまま放っておくこともできずに、江戸に連れて帰り、飛脚問屋の蓬莱屋で働かせることにする。

 巳之吉は、しばらくは蓬莱屋で真面目に働く素振りを見せ、他の奉公人からの評判も悪くなかったが、ある時、金をもったまま出奔する。仙造は勝五郎とともに巳之吉の行くへを探し、つばくろ越えの寒村にまできてみると、巳之吉は、実は前に岩場で釣り下ろされた時に金のありかを知っており、その金を取りに来たことがわかる。だが、巳之吉がその金を手にした時に寒村に住んでいた銀三親子に捕らわれて、その金を奪われていた。銀三親子は、弥平を襲って金を奪おうとした人間たちであった。仙造と勝五郎は金を取り返し、助命を懇願する巳之吉を連れて帰る。だが、巳之吉は自分の命が助かった後、再びしたたかぶりを見せるのである。

 物語は、巳之吉のしたたかぶりを示すところで終わるが、貧しさゆえに強盗になって金銭を奪おうとする者、したたかに生きる者、死んだ者を忘れて新しく生きなければならない者、そういう人間の姿がデフォルメされて描かれているのである。

 次の「出直し街道」は、越前丹生郡の陣屋で代官所手代元締加判(元締代理)をしていた男が、在職中の代官の不正に絡んで処罰されるところを逃走し、江戸で八年間もの間苦労しながら貯めた金を故郷の妻子のもとに届けたいと蓬莱屋を訪ねてきたという設定で物語が展開されていく。「通し飛脚」の宇三郎がその任を負い、越前丹生郡宮本村まで出かける。彼はようやくにして男の妻の行くへを探し出すが、男の妻は男を密告してその地位を手に入れたかつての部下の囲われ者になっていた。

 男の妻のすみは、囲われ者として何不自由ない暮らしをしていた。子どもは病気で亡くなっており、彼女を囲っている昔の部下の人品は褒めたものではないが、暮らし向きはいい。だから彼女は夫が託した5両の金と手紙を宇三郎から受け取った時に、迷い、悩み、逡巡する。だが、彼女はついに今の暮らしを捨てて宇三郎と共に江戸にいる夫のもとへ行く決心をする。しかし、彼女の迷いは残る。宇三郎は「生きている人間には、いつだってこれから先のことしかないんです。・・・何回でもやり直しなせえ」(171172ページ)と言う。耳にタコができるほど、何回もそれを言う、と言うのである。

 宇三郎自身、妻がなくなってしまって娘を一人で育てられないのではないかと悩んでいたが、これを機に、娘を自分の手で育てる決心をここでしていくのである。

 人には反復は不可能である。出直すとしたら、人は新しい自分にならなければならないが、それが人に可能かどうか、それは、もちろんここでは問われない。しかし、「出直すことができる」というのは、確かに、人の希望とはなりうる。すみは、一度は自分を捨てて逃げた男を追い、自分を追う男を捨てる。このあたりの機敏は、少なくともわたしには謎で、江戸に出て、元の夫に会ったからといって、新しい出直しができるのかどうか、その結末が触れられないのがいいのかもしれないと思ったりもする。

 第三話「ながい道草」は、越後の小柳村というところにいる医者のところに江戸から薬を届けた仙造は、仁に厚くて病人を放おっておけない医者の道安と妻のりくが、実は「追ってに追われて人目を避けて各地を点々としなければならない身の上」であったことを知る。りくは武家の妻だったが、ただ夫の慰み者としての扱いしか受けず、その夫に背いて道安と駆け落ちしてきたのである。夫が追っ手として差し向けた者のひとりは彼女の息子であった。彼女の夫はその他にも、素破者と呼ばれるゴロツキ侍を雇っており、仙造は道安とりくの人柄や働きに感銘して二人をなんとか追っ手の手から逃れさせようと苦心する。だが、ついに追いつかれてしまう。

 そこで、りくと息子は話をし、母の心を聞いた息子は、そのまま見つからなかったことにして、引き返すことにし、母であるりくと道安は再び村医者としての生活に戻ることができたのである。

 第四話「彼岸の旅」は、長い間飛脚をし、通し飛脚としても勝五郎とは深い結びつきをもっていた半助が、自分の病を知って、突然、故郷へと死出の旅をしていくのを、それを案じた勝五郎が追っていく話である。勝五郎とは長いつきあいであっても、だれも半助の素性は知らなかった。半助は誰にもそのことを語らなかったし、また秘していたのである。

 だが、勝五郎が彼の故郷を探り当て、あの跡を追って行くに従い、山崩れで壊滅した村で生き残った主家の娘に対する秘められた悲しい恋心や彼自身が巻き込まれたとは言え犯した事件などが明らかになっていくのである。半助は、その重荷を負って生きてきて、そうして望み通り故郷の山で死ぬのである。

 これらの作品は、いずれも、生きることの重さを抱えた人間が描かれたものである。この4作の中では「ながい道草」が明白に将来の希望を見出せるものとなっているが、改めて見ると結末は、やはり、かすかな希望が見いだせるものになっている。最後の「彼岸の旅」も、死ぬことによる解放があるのである。これはその後、蓬莱屋の物語としてシリーズ化されているが、重厚といえば重厚で、それだけに読むのに少し疲れを覚えたのである。

2013年5月29日水曜日

柴田錬三郎『人間勝負 柴田錬三郎選集5』

 日本列島の西が梅雨入りしたと発表され、ここでも雨の気配を感じさせる重い雲が広がっている。今年の梅雨は雨量が少し多いそうだ。雨は嫌いではないが、じめじめと湿度が高いのは疲労感を増幅させる気がしないでもない。

 ところで、日本の現代史の中で1960年から70年にかけては、その後の社会構造とものの考え方が徐々に変化していく転換点になった時代だと思っているが、この時代に、時代小説で多くの人に読まれた作家の一人は柴田錬三郎だろう。

 柴田錬三郎の作品は、どれもエンターテイメント性が高くて、その文学性や思想性が論じられることが少ないし、彼の代表作の一つである『眠り狂四郎無頼控』の主人公眠狂四郎の虚無性やニヒル性の印象が強いために、もっぱらその方向で取り上げられることが多いが、改めて読んでみると、その作品の文学性や思想性、あるいはまた作品の質という点ではるかに高いものがあることに気がつく。

 そんなことを思いながら、『人間勝負 柴田錬三郎選集第5巻』(1989年 集英社)を面白く読んだ。

 これは、大阪冬の陣で死んだと言われている真田幸村が、実は死んだのは彼の影武者で、大阪城落城を目にしながら逃れて、やがて船団を率いる海賊となり、莫大な財を獲得して琉球(沖縄)のある島に秘匿し、それを琉球から江戸に持ち帰るために、それぞれ個性豊かで優れた技をもつ10人の男女を選んで琉球に向けて旅立たせたという設定で物語が展開されていくものである。

 この作品には、大阪城で死んだはずの豊臣秀頼が、実は生き延びて薩摩で子をなして余生を送ったとか、島原の乱で死んだと言われる天草四郎時貞も生き延びで、その天草四郎時貞が、実は豊臣秀頼が薩摩でもうけた子のひとりで、女性であったとか、上杉家の直江兼続に並び称されたキリシタン武将の明石掃部助全登(かもんのすけたけのり)の娘が登場したり、大阪城で討ち死にした四国の長宗我部盛親の娘が登場したりして、豊臣家が滅びた大坂の陣から島原の乱に至るまでに歴史を彩どった人々のその後の俗説や奇想天外の発想が多彩に盛り込まれている。

 しかも、これらの事柄がきちんと歴史的に踏まえられているので、そうした非歴史的発想も物語性として違和感なく溶け込んでいる。こういうきちんとした歴史認識の上でなされる荒唐無稽の物語の展開は、作者の意識と思想の具現化されたものであり、そこに作家の深みのようなものを感じることができる。その意味でも柴田錬三郎の作品には深みがあるのである。

 さて、選ばれた10人の男女は、琉球に着くまでに夫婦とならなければならなかった。そこに男女の綾もあるし、それぞれの出生や身分の問題も絡んでいるし、10人が無作為に選ばれているようであっても、幸村の財宝を狙う幕閣の間の争いによって密命を帯びている者や島原の残党、あるいは長宗我部家の残党などが宿命を与えている者もあり、琉球行きを巡っての暗闘が繰り返されていくのである。

 10人のうちのひとりの女性であった吉原の遊女は、キリシタンで、自分は神に身を捧げているので誰とも夫婦にはならないと、真田幸村の企てを否んで死を迎え、残りの9人が江戸から南下していく旅をしていくが、その途中で、欲のために、あるいは自分が背負っている宿命のために次々と殺されていく。暗闘には、権力欲にかられた忍者や公儀隠密、柳生宗矩らが関わっていく。

 物語は、これらの暗闘の中を生きていくそれぞれの姿が展開されるが、そこで人間の悲しみや生きることの難しさなどが丁寧に織り成されるし、読むものを飽かせない構成になっている。

 最後に生き残って、琉球へ渡り、そこから江戸に帰っていくのではなく、新しい天地としてヨーロッパに向かうことになるのは、何の欲ももたない素浪人だが抜群の剣の冴えをもつ佐久間八郎と、豊臣秀頼の落胤で天草四郎時貞の妹である白江の若い男女で、彼らが本質的に素直で素朴なものを持っている人間であるのもなかなかであり、希望で終わるというのが、なるほど時代の産物のような気もしていい。

 本書の表題が『人間勝負』というものになっているのは、空知庵を名乗る真田幸村が、この計画を起こすにあたって次のように語っているところにあるだろうと思う。

 「わしはな、人間一個の力が、どれだけ、発揮されるか・・・それを見とどけたいのじゃ。・・・思ってもみい、この世の中のことは、人間がつくりあげた。広大な原野を拓いて、田畠をつくり、信仰によって巨大な大仏をつくり、武威をかがやかせるために城をつくって居る。唐土には、万里の長城というやつがあるぞ。人間の力というやつは、恐ろしいまでに、強い。・・・わしは、自分自身の目で、その強さを、その強さを見とどけてやろうと、思うまでよ」(本書 85ページ)。

 柴田錬三郎は、近代を特色づけるものが人間中心主義であることを感じていただろう。それがこの表題となったのだろうと思う。彼は中国文学を専攻しただけに、独特の漢文調の文体を記すし、言葉の力を込めるために、句点を多く使用した。こういう文体もわたしは好きである。ともあれ、面白い。わたしはそう思っている。

2013年5月27日月曜日

宮部みゆき『長い長い殺人』

 九州南部が梅雨入りするかもしれないとの予報が出ていたが、こちらはまだ雲が広がって少々の蒸し暑さを感じるだけである。

 なぜか久しぶりに宮部みゆきの作品が読みたいと思って、先日、あざみ野の山内図書館に行った際に『長い長い殺人』(1992年 光文社 1999年 光文社文庫)を借りてきて読んだ。これは、もちろん時代小説ではなくミステリーであるが、テレビドラマ化もされた作品で、それぞれの「財布」を語り部にしてその持ち主を語りながら殺人事件の真相を綴っていくという異色の作品である。

 こうした文学手法がほかにないわけではないが、持ち主の人格に合わせて財布の語り口も異なり、しかも「見守るもの」としての財布を際立たせて客観性を持たせると同時に人物像を浮き上がらせていくという傑出した、そして、作家の技量が問われるような書き方がされており、それが見事に成功している傑作である。

 物語そのものは、ある男が車に轢き殺されて、それが、最初は保険金目当ての交換殺人の様相を呈しながらも、第三者を使った計画殺人であったということが分かっていくというものだが、そこに複雑な人間心理と人間模様が展開されている。

 事件は、ある晩に一人の男が轢き殺されるところから始まる。彼には多額の保険金がかけられており、彼の妻には愛人がいた。妻の森元法子にはアリバイがあるが、愛人の塚田和彦のアリバイは不明で、容疑は塚田和彦へと向かう。しかし、証拠がない。次に、結婚したばかりの塚田和彦の妻が殺され、彼の妻にも多額の保険金がかけられていた。その時には塚田のアリバイはあるが、愛人の法子のアリバイは不明である。調べてみると、塚田には前妻があり、その前妻もひき逃げ事件で死亡していた。

 森元法子の夫のひき逃げ事件で法子を強請ろうとした女も殺され、その女が残した財布を拾ったバスガイドが危険な目にあったりもする。こうして、塚田和彦と森元法子の共犯による一連の犯行は明らかなようだが、一切の証拠がない。

 マスコミは、この事件を大々的に取り上げ、塚田和彦と法子は「時の人」となっていく。塚田和彦はハンサムであり頭も切れるし、レストランの共同経営者であり、生き方がスマートに見えるし、法子は美女で、いわゆるマスコミ受けがするのである。そのうち、塚田和彦のアリバイを証明するようなことも出てきて、彼らは容疑者から一転して被害者になったりする。塚田和彦も法子も、そうしたマスコミの取り上げ方を楽しんでいるようでもある。彼らは自分たちが絶対に手を下していないという確信があった。

 やがて、自分が真犯人だと名乗り出てくる者も現れたりしていく。そして、ついに自己顕示欲に負けた真犯人が見つかるのである。真犯人は塚田和彦によって心理的に操られていたことがわかるのである。

 この物語には、この事件とは直接関係のない他の事故を装った殺人と万引きの少女が登場するが、それらは、人間の心理の闇を表すもので、塚田和彦の人物像をそうしたことで浮かび上がらせるものとして挿入されているのである。

 こうした人間を描くところには、強烈な自己意識を必要とする現代社会の中で、自己のリアリティの充足をマスコミが大々的に取り上げる犯罪によって求めようとする衝動があることを鋭く掘り下げる作者の視点がある。

 優れた小説は社会の預言的な機能をもつと思うが、実際、この作品が書かれた後の2000年代には、こうした自己のリアリティを求める行動が多出した。病める現代の病める状況が次々と起こったのである。現代人のこの深い問題がミステリーの形を借りた物語として展開されているのである。

 直木賞作品となった『理由』も同じであるが、物語の展開の中で宮部みゆきは現代社会が抱えている人間の問題に深く、そして鋭く迫るのである。彼女の作品が通り一遍のスト-りーではなく、人間の問題を、社会的にも心理的にも鋭くえぐったものであるところに、この作家のすごさを感じる。そして、それと同時に全体がさわやかなのである。深刻な話を深刻にすることは比較的平易だが、深刻な話を深くさわやかにできるのは彼女の天分だろうと思う。日常を楽しみ、日常を大事にするという作家の姿勢が一貫していると改めて思う。宮部みゆきは、面白くて意味のある作品を書き続けている。彼女の作品の中の時代小説の中では『孤宿の人』が最高だと、今でも思っている。

2013年5月25日土曜日

志水辰夫『みのたけの春』(2)

 梅雨入り前という感じで強い陽射しが差して、日傘をさした人々が街を歩いている。今週は少し忙しくしていたので、今日になって疲れがどっと出た感じであるが、昨日仙台から帰宅したら、知り合いのSさんが自宅菜園で採れたレタスを机の上に置いていてくださっていた。さっそくつめたく冷やしてサラダにして美味しくいただいた。疲れきっていたので、本当にありがたいことだと思っている。

 閑話休題。志水辰夫『みのたけの春』(2008年 集英社)の主人公榊原清吉は、老いて病んだ母を抱えながら養蚕によってかろうじて家計を支える貧しい郷士の生活の中で、尚古館で武を学び、柳澤宋元の三省庵で学問をひたすら地道に学びながら、幕末という激動する時代の中を誠実に生きていこうとする。

 彼の学友の何人かは、揺れ動く京都の尊王攘夷運動に感化されて、「天誅組の運動」に加担していったり、やがては「生野の変」に加わったりしていく。憤怒に耐え兼ねて公儀役人を斬った諸井民三郎は、追っ手の手を逃れていく。榊原清吉は残された民三郎の幼い兄弟姉妹たちを親身になって守ろうとするし、諸井民三郎を逃がしてくれと尚古館の指導者で「入山衆」の頭領格でもある橘川雅之に懇願する。その中で諸井民三郎の祖母が亡くなった時も、清吉は深い配慮をして民三郎の兄弟姉妹を助けていく。

 清吉の働きによって、諸井民三郎は京都に逃れることができ、幼い兄弟姉妹たちの引取り先も決まっていく。民三郎の兄弟姉妹たちはそれぞれが健気に生きるが、弟の又八は、川に落ちた幼い女の子を救おうとして命を落としてしまう。民三郎の兄弟姉妹たちの健気さにには心を打たれるものがある。

 榊原清吉は、三省庵の柳澤宋元の娘の「みわ」に密かに想いを寄せていたが言い出せないでいた。柳澤宋元は、京都で「ころり」が流行った時に、家族を守るために貞岡の地での学塾の師としての仕事を引き受けて、この地で三省庵を開いたのだが、彼が大事に守った妻が亡くなってしまい、娘の「みわ」が身の回りの世話をしていたのである。宋元は妻を亡くした当たりから次第に生きる意欲をなくして酒に溺れるようにもなっていた。彼がこの地に来たのは、単に「ころり」から逃れるためだけではなく、「安政の大獄」で吹き荒れた弾圧から逃れるためでもあったが、その最愛の妻を失い、時代が大きく変わろうとする中で取り残されていく寂寞感もあったのであろう。

 清吉の学友で塾生の多くは尊王攘夷運動へと心を寄せていき、「天誅組の変」の時には、清吉にも誘いが来るし、「生野の変」の時にも誘いが来る。だが、自分には老いた母がいるからとこれをきっぱり断るのである。百姓衆を農兵として束ねようとする動きにも、彼は知り合いの百姓の息子がその運動に加担しようとするのを止めて、家族の生活を守るように諭していったりするのである。

 多くの仲間たちが時代のうねりに身を投じ、その波に乗ろうとする空気の中で、彼は老いて病んだ母との生活という足元に立ち続ける。清吉は涙が出るほど心優しい。寒くなると母の具合が悪くなるので、囲炉裏で石を温めて湯たんぽ代わりに使うようにしてあげたり、母の痛む手足を何時間も揉みほぐしてあげたり、母親の体を温めるためになんとかして内風呂ができないかと苦心したりする。

 その母親との日常の穏やかな会話の一コマが次のように描かれている。
 「突然鶯が飛び立った。ちょうど母が手を止めたときだった。
 去年も鶯は来た。昨年の母はそれを床のなかで見つめた。冬が長くて寒かったから、なかなか起きられなかったのだ。
 『ねえ、母上、あの鶯、毎年同じ鳥がきてるんじゃないでしょうか。そんな気がしてならないんですけど』
 『同じですよ。ことしきたのは、去年きた鶯の子どもです』
 母は信じ切っている口調で答えた。たしかにそう考えたほうが気分はよくなる。
 いまでも母には教えられることが多かった。くよくよしないのである。少なくともせがれには、そう見えるようにふるまっていた。それをせがれはありがたいと思っている。
 仕事にもどります、と答えて清吉は立ちあがった。」(57ページ)

 この一コマも、なんでもないような情景として描かれているが、母子の温かい愛情の姿と、日常の連続である歴史の重さがひしひしと伝わる場面なのである。

 本書は次のような言葉で終わっている。
 「暗かった。何も見えない。それを歩いた。これが自分の道なのだ。これからも歩いていかなければならない道なのだ。
 行かなければならなかった。帰らなければならなかった。
 母が待っている。
 たったひとりの親が待っている。
 親がいる。子がいる。親と子の暮らしがある。
 親、親、親。親くらいむごいものがこの世にあるだろうか。
 一方で、子の苦しみや喜びを、だれよりも倶にしてくれるもの、それもまた親をおいてないのだ。
 なにもかもひっくるめたその上に、いまの自分がいるのだった」(357ページ)

 「変わりばえのしない日々のなかに、なにもかもがふくまれる。大志ばかりがなんで男子の本懐なものか」と清吉は心底思っているのである。日常のなんでもないことの中の絶大な価値、清吉はそこに立って生きようとするのである。

 彼は、京都に逃れた友人の諸井民三郎が、「入山衆」の頭領の橘川雅之の弟で、過激な尊王攘夷運動を展開する高倉忠政の手先として暗殺者になっていることを知り愕然とするし、その高倉忠政が捕縛されて、事件をもみ消すための「とかげの尻尾切り」として民三郎が殺されることも知る。諸井民三郎も捕縛されて拷問を受けていたが、獄屋を脱走していたことを知り、どうにもならなさを感じて、民三郎の兄弟姉妹たちのためにも、民三郎に自害を勧めに行く役割も引き受ける。清吉は、あらゆる困難を自分の手で引き受けていく覚悟をもつ人間である。そして、山中に隠れていた民三郎を見つけ、民三郎と斬り合うことになり、民三郎を刺す。民三郎も、そのことを自覚して、自ら刺されたようなものであった。清吉は、それら一切のことを黙って背負っていくのである。

 榊原清吉は、病んだ母親を抱えてかつかつの百姓生活をする貧しい郷士だった。彼は目立たず、武芸においても学問においても、人よりも前に出ることをしないような温和な人間だった。好きな女性にも、それを明かすことも泣かれば、土産に買った櫛を渡すこともできないような日々を送っていた。しかし、覚悟をもって、自分の日々の生活を送り、あらゆる風雪に耐えて、優しく、しかししっかりと大地に根をおろす生き方をしていくのである。「みのたけの春」、まさにそうのように生きる姿が描かれるのである。

 多くの者たちが騒乱の流れの中に身を投じていく中で、彼は、家族のために、友人の家族のために、そして村の共同体のために、その平穏を願って命がけの行動を起こす。「変わりばえのしない日常」は、日々の努力の中でしか営まれない。その努力を穏やかに、しかし懸命に果たしていくのである。

 素晴らしい視点と素晴らしい描写が叙情豊かに綴られていく、いい作品だと思う。

2013年5月22日水曜日

志水辰夫『みのたけの春』(1)

 初夏の陽射しが、時折強く射して、いくぶん汗ばむほどの陽気になってきた。西の空に灰色の雲がかかっているので、これから少し陰ってくるだろうとは思うが、寝具を夏用に取り替え、扇風機を押入れから出してきたりしていた。こうした日常生活を保つ作業もなかなか大変なことではある。しかし、何も考えないでいることができるのもいいものだと思ったりもする。

 先日、図書館で志水辰夫の2作目の時代小説である『みのたけの春』(2008年 集英社)という作品を見つけて、叙情的で静謐な美しい描写の中で人間の生き方を描き出した優れた作品だと思いながら読んでいた。志水辰夫は、ハードボイルド風の作品だったり冒険譚だったりする作品が多くて、あまり触手が伸びない作家だったのだが、2007年から時代小説に転じて、時代小説だと人間が素朴に描かれうることもあって、これは感動を呼び起こさせられるいい作品だった。作品の中で、何度も感動する場面が描かれて、非常に丁寧に書かれたものであるというのが最初の読後感だった。

 物語の舞台は、京都から因幡へと向かう山陰道沿いの天領であった貞岡とされている。実際は、北但馬(兵庫県北部)の豊岡・出石(いずし)盆地であろう。本作では、生野銀山(現:兵庫県朝来市)の産出量が衰退して、かろうじて養蚕に活路を見出して生活が守られているよう寒村地帯とされている。山間に点在する村々の中での生活は、ぎりぎりの生活で、百姓の暮らしは養蚕にかかっているような状態だった。

 この地方一帯に、鉱山の開発などに携わり、山中鹿之助と毛利家の戦いの際には(1578年 天正6年)山中鹿之助の側について滅びの運命をたどった「入山衆」と呼ばれる有力者たちがいて、相互寄り合いとして互助組織を作って、共同自治統治のような形態を保っていたが、その「入山衆」が設置した武道を学ぶ尚古館と、江戸から京都を経てやってきた儒学者の柳澤宋元が学問を学ぶ塾として開いている三省庵に学ぶ青年たちを中心にした物語が展開されていくのである。もちろん、「入山衆」も尚古館も三省庵も作者の創作であろうが、実在したのではないかと思える程のリアリティがある。

 物語は、この尚古館と三省庵で学ぶ郷士の榊原清吉が友人の諸井民三郎と共に、病んでいる学友の武井庄八を見舞いに行くところから始まる。郷士は、戦時下のみ兵となるが普段は百姓として暮らしているもので、苗字帯刀は許されているが実質は百姓である。人別帳でも百姓になっている。その郷士である榊原清吉の家は、一時は「つぶれ」と言われるまで没落し、貞岡のはずれにある西山村というところの荒家で暮らし、かろうじて、養蚕によって借財を返済しながら、郷士の対面を保ちながら、老いて病んでいる母と暮らしているような家であり、諸井民三郎は、祖父と両親、兄という一家の大黒柱を「ころり(ペスト)」で失い、残された幼い四人の兄弟姉妹を抱えてかろうじて生活しているような状態だったのである。彼らが見舞う学友の武井庄八は、学問にも優れた青年だったが労咳を病んでいた。

 時代は幕末の1863年(文久3年)前後で、三省庵の師である柳澤宋元が、その4年前の1859年(安政6年)にこの山地に来て学塾を開いたとされており、安政6年の「安政の大獄」との関わりが暗示されているし、1863年(文久3年)8月の「天誅組の変」と、この地方の豊岡藩と出石藩、天領地の農民を組織して挙兵しようとした「生野の変」が描き出されていく。

 幕末の尊王攘夷運動というのは、実態があやふやなままで、いわば時代の空気のような流れのままに局地的な蜂起が行われたりしていったのだが、その「空気のようなもの」を作者は貧農者の側から描いているのである。京都に近い但馬は、昔から尊皇の気風があり、尚古館と三省庵の青年たちも、その尊王攘夷の空気に巻き込まれていくのである。挙兵のための農兵を集める運動が展開されていく。

 さて、榊原清吉と諸井民三郎は、武井荘八の見舞いに行く途中で運悪く生野代官の代行格であった新村格之進と出くわしてしまう。新村格之進は公儀の役人あることを笠に着て、二人に頭の下げ方が悪いと激怒し、雨の中を這いつくばらせ、身分の違いを嫌というほど思い知らせるのである。新村格之進は、郷士に対して陰湿で不遜な態度をとるし、それがやがて、堪忍袋の緒を切らした諸井民三郎の怒りとなり、民三郎が新村格之進を斬るという大事件に発展し、民三郎とその兄弟姉妹の運命を変えていくことになる。

 物語の展開は、後に記すことにして、少し感じ入った描写があるので、それを、まず記しておこう。それは、榊原清吉が労咳を病む武井庄八を見舞っている場面である。

 「部屋の隅に、文机と書箱が片づけてあった。重箱状の書箱が三つもある。蓋がしてあるところを見ると、いまでは本を開くこともかなわなくなっているのかもしれない。
 部屋は二方に開け、西方も障子になっていた。西日が当たっている。
 『清さん。すまないけど、そこの障子を開けてくれませんか』
 光が軒の上へ消えかけているのを見て、荘八がいった。
 『開けてもいいんか』
 『うん。夕日を見たいんだ』
 それで二枚の障子を開け放してやった。
 風が吹き込んできたみたいに澄んだ気配がはいってきた。
 向かいが庭の西隅に当たるようだ。前方は土塀で取り囲まれているが、堀の上に氷ノ山をはじめとする山並みが横たわっていた。
 日が落ちかけている。いまの時期は氷ノ山より西側へ落ちる。
 『ああ。きれいやなあ』
 庄八が目を細め、うっとりとした顔で言った。
 『大雨が降ったからねえ。靄がとれて、こんなにきれいな夕日は久しぶりだよ』
 正八のところからだと、首をねじ曲げなければ夕日は見えなかった。清吉は布団を引っぱり、楽に見られるよう方向を変えてやった。ついでに二尺くらい前へ出してやった。これで夕日が山に落ちるところまでながめられるようになった。
 ありがとう、と庄八が言った。」(2931ページ)

 これはなんでもない情景のように見えるが、主人公の榊原清吉の人柄をよく表すと同時に、何を大事に生きているのかを端的に示す。そして、それと同時に、沈みゆく夕日を二人で「きれいやなあ」といって眺める美しい光景は、庄八が抱える人生のはかなさと重なって、しみじみと胸に響く。

 そして、こうした光景の描写が随所にあって、その度に味わい深く読まされる。優れた作品というのは、こういう描写の作品だろうと思う。もちろん、そこに人間と人生への深い理解がにじんでいるからである。続きは、また次回に記すことにしよう。

2013年5月20日月曜日

浅田次郎『憑神』


 雨になった。昨夕から降り続いているが、しばらくぼんやりと雨の景色を眺めていた。今日は所属している研究会で『現代社会の分析』という少々やっかいで大きすぎるテーマについて話をすることになっており、現代の社会学者がよく用いている「ロジスティック曲線」について考えていた。社会現象を微分関数で表すことで、歴史と社会をうまく説明できるのだが、歴史を鳥瞰しようとするヘーゲル的史観の延長かもしれないと思ったりもする。

 それはともかく、浅田次郎の時代小説で2007年には降旗康男によって映画化もされている『憑神』(2005年 新潮社 2007年 新潮文庫)を、軽いタッチで重い主題を描いた作品だと思いながら読んだ。重い主題といっても近代精神の具現化のようなものであり、内容が重いわけではない。

 主人公の別所彦四郎は、下級御家人の次男で、文武ともに優れているのだが、どうにも運が開けずに悶々としている状態に置かれていた。昌平坂学問所で彼と同輩の榎本釜次郎(榎本武揚)は、彼よりも劣っていたにもかかわらず、とんとん拍子に出世しているにもかかわらず、彦四郎は養子先に離縁されて兄の家に居候として出戻っているような状態だった。

 彼は、実家よりも上級の役職を持つ家に婿養子で入り、過不足なく、真面目に勤めていたが、後継となる子が出来るや否や、養家の父親の奸計で、離縁させられ、家を追い出されていたのである。養家としては、「種馬」の役割を果たしたのだから、早々に彦四郎の追い出しを計ったのである。

 そんな中、ある夏の夜、眠られずに出かけた蕎麦屋の主から榎本釜次郎の出世の原因が向島の「三囲(みめぐり)稲荷」の神通力のおかげだというような話を聞き、その帰り道に酔って転げ落ちた土手の下に、寂れた稲荷の祠があり、「三巡(みめぐり)稲荷」とあるところから、その祠に手を合わせて出世を神頼みするのである。

 ところが、彼が神頼みした「三巡稲荷」の神は、貧乏神、疫病神、死神の災いの神が次々と巡ってくるというもので、まず、最初に貧乏神が現れる。貧乏神が彦四郎に憑くやいなや、たちまち彼が居遇する兄の家の家計が立ち行かなくなり、長年の借金の返済を急に迫られて、あげくは御家人株を売って武士を止めるところまで話が進んでいく。

 脳天気な彦四郎の兄は、御家人株が500両で売れるという話を聞いて、苦労するよりもそのほうがいいと考えたりするが、実際は食い扶持をなくすだけで、困窮は目に見えているし、別所家は軽禄の徒歩とはいえ、家康以来の影鎧の管理という役務と共に、いざとなったら将軍の影武者になるという先祖伝来の役務を負ってきていた家柄だった。真面目で実直な彦四郎は、武士としてその役務を放棄することはできないと考えて、苦慮する。

 そして、それらすべてのことは貧乏神がもたらしたことであるので、なんとか貧乏神と交渉する。取り憑いた貧乏神は、彦四郎の実直な人柄に負けて、禍をほかの誰かに振るという「役替え」があることを教え、彦四郎は自分を追い出した婿養子先にその禍を振る。するとたちまち、彼を追い出した旗本の家が火事となる。だが、彦四郎を追い出したとは言え、そこには彼の妻と一人息子がおり、彼らが路頭に迷うことになったのを彦四郎は後悔する。彼は、どこまでも「人がいい」のである。

 だが、こうして貧乏神の役割が済んだと思ったら、今度は相撲取りの姿をした疫病神に取り憑かれるのである。疫病神は徳川家茂に取り憑き、孝明天皇に取り憑いて政局を大きく変えたという。事実、この二人の死によって、時局は大きく変化し、時代は大政奉還から明治維新へと急展開していくのである。諸物価は高騰し、江戸市民は混乱する。その疫病神が、彦四郎の兄を重い病にし、別所家の「お役」が果たせなくするのである。彦四郎が禍の役替えを兄に振ったからである。

 こうして、彦四郎は兄の代わりに別所家の役務を果たすことになるが、禍を他人に転嫁する自分に対して許せない思いももっていたし、彼の息子は自分の家が火事となり、祖父がお役御免になったことに対する恨みをもって、それが彦四郎の仕業だと思って、その恨みを晴らそうとしたりした。

 そうしているうちに、邪神の中でも最も強力な死神が、今度は小さな女の子の姿で取り憑く。彦四郎は、今度ばかりは命に関わることだからと、その禍を自分で引き受ける決心をしていく。

 彦四郎は、武士としてどこまでも家役を守り、徳川家に忠節を尽くそうとするが、将軍となった徳川慶喜は、鳥羽伏見の戦いの後に大阪城から江戸に逃げ帰っており、愕然とすることが多かった。そして、やがて上野の彰義隊の戦いになっていく。

 彦四郎は、勝海舟や官軍から新政府入りを勧められるが、これを断り、徳川家の終わりを認識しつつも新しい時代の礎となるために、自分の死を恐れず、旧来の武士が武士の本文を全うしたことを示すため、徳川慶喜は上野から既に水戸へと移っていたが、自ら徳川将軍の影鎧を着込み、慶喜となって上野に向かうのである。

 この作品には、社会の激変の中でも自らの矜持を全うしていくことが大筋としてあり、その中で、人間の命には限りがあるが、それゆえにこそ尊い生き方があるということ、そういう魂の問題が盛り込まれているのである。

 幕末から明治にかけての日本近代史を見るたびに、もう少しあの時に深く考えられたり、特に明治政府にもう少し優れた人物がいたりしたら、少しは日本はよかったのではないかと思うことがしばしばあるが、社会の激変という現象の中で、変わらない人間の生き方というのもあり、この作品の主人公を通してそういうことに想いを寄せることができる作品だった。読んでいるうちに、仕事もできないし頼りにもならず、楽なことを求めたがる彦四郎の兄さんというのもなかなかの人物ではないかと思ったりする。浅田次郎は、「うまい」作家だとつくづく思う。

2013年5月17日金曜日

千野隆司『命の女 槍の文蔵江戸草子』


 さわやかな碧空が広がって、昔、岡林信康が歌った「申し訳ないが気分がいい」というような天気である。一昔前なら「涼暮月」と呼んだのかもしれないと思ったりする。

 このところ社会学関連の書物を読んでいたが、その中で、ちょっと軽いものをと思って、千野隆司『命の女 槍の文蔵江戸草子』(2011年 学研M文庫)を読む。これはこのシリーズの三作品目で、前回(2012年8月10日)に一作目の『恋の辻占』を読んでいて、間に『残り蛍』という二作目があるが、その二作目はまだ読んでいない。

 シリーズの主人公である新見文蔵は、播磨の小藩の二十俵二人扶持という小禄の下級武士だが、槍術に長けた青年武士であり、料理の腕もあるという人物で、江戸勤番となって間がない田舎侍である。

 しかし、彼は情もあり、正義感もあり、純朴で、知り合った貧乏長屋に住む元掏摸で辻占売りをしながら健気に生きている「おけい」という娘や、小料理屋の息子で岡っ引きをしている丹治や、宝蔵院流の槍術の道場主である細沼長十郎とその出戻りの娘である早苗、そうした人々とのつながりの中で、なんとか江戸住まいを続けていくという設定になっている。

 本書には、「鶴渡る」、「命の女」、「雪の行列」の三作が連作の形で収められており、「鶴渡る」は、鶴の渡来にかけて、出奔してしまった因業な金貸しの息子が帰ってくるという展開になっている。

 「おけい」が住む長屋の大家であり、因業な金貸しでもある紅葉屋が金の取立ての帰りに辻斬りに会い、たまたまそこを通りかかった「おけい」の機転で傷を負っただけで済んだが、辻斬りの顔を見ているということで辻斬りに命を狙われるようになる。

 犯人の捕縛を急かされた岡っ引きの丹治は、頼りとする文蔵に助力を依頼し、辻斬りを捕縛するという展開だが、辻斬りに襲われた紅葉屋の夫婦は金が命のような夫婦で、かつては小料理屋をしていたことがあった。そして、息子が博打で借金を作り、その借金のために店を手放していたのである。その息子は勘当されて行くへがわからなくなっていた。しかし、そういう事情の中で、息子が板前の修行をして一人前になって帰ってくるのである。夫婦の因業な金貸しぶりは変わらないが、二人が希望をもったという展開になっている。

 第二話「命の女」は、派手で遊び好きの船宿の娘が、婚約が決まっても、役者のような顔立ちの男と遊び、ついには行くへがわからなくなるという話である。友人の家に遊びに行くといったまま帰らない娘を案じた兄が岡っ引きの丹治のところに相談に来る。丹治は文蔵の手を借り、また、「おけい」の手伝いで娘の行くへを探す。娘が二枚目の男と出会い茶屋(現:ラブホテルのようなもの)に行ったまではわかったがその先がわからない。

 文蔵たちがその男のことを調べてみると、それはとんでもない男で、娘をたぶらかして売り飛ばす計画をしていたのである。丹治は娘の居所を突き止めようとするが、男の仲間にさんざん痛めつけられてしまう。丹治はかつてその娘から弄ばれたことがあったが、娘に対する愛情は残っていたので、無理をする。そこに、文蔵たちが駆けつけて、男と仲間を捕らえ、娘を助け出すことができたのである。こうして、助けられた娘は無事に結婚する。まあ、丹治にとっては、どんな女であれ、惚れた女であり、「命の女」であるが、「遊び女」の典型でもあるだろう。

 第三話「雪の行列」は、宝蔵院流の槍術道場主である細沼長十郎のところに一人の男の子が預けられる。早苗が営む手習い所でもやんちゃな子であるが、上総の小藩の大名が女中奉公に来ている娘に手をつけて生まれた子であった。

 そして、その小藩の中で、後継者をめぐる跡目相続の争いが起こり、その男の子を担ぎ出して、藩政を牛耳ろうとするものと、そうはさせまいとする勢力の争いがあったのである。男の子の身辺は騒がしくなり、身を守るために細沼道場に預けられたのである。

 男の子の母親も宿下がりをしており、彼女も男の子も、侍として藩主の跡目を継ぐことなど考えてもいずに、商人になりたいと思っていた。そこで、事情を知った文蔵は、藩主にその旨を直接訴えるために駕籠訴をして、跡目相続騒ぎを収拾していくのである。

 こうして見ると、まあ、どれもお定まりの展開といえば言えなくもないが、登場人物たちのそれぞれ情があって、彼らの情が中心に展開されるので、気楽に読める一冊になっている。こういう作品は、たぶん、今の時代が求めている軽さのような気がしないでもないが。

2013年5月15日水曜日

滝口康彦『上意討ち心得』(2)「下郎首」、「小隼人と源八」、「綾尾内記覚書」


 昨日は汗ばむほどの天気で、今日も快晴の空が広がってきた。昨日は講義の後でバスにタッチの差で乗り遅れてしまい、暑い中、駅までぶらぶらと歩いてみたりしたために足が棒のようになり、おまけにその後に電車で1時間半ほど立ちっぱなしで、少々、疲れを覚えていた。まあ、運動と思えば、それもまた「よし」であろう。

 それにしても、この国の政治家の歴史認識というか、人間や社会に対する認識の浅さに唖然とする出来事がこのところ続いている。「衰退期の悪あがき」という感じがしないでもないが、そのあまりに前世紀の遺物的思考にうんざりしたりする。

 それはともかく、滝口康彦『上意討ち心得』(1995年 新潮文庫)に収録されている「下郎首」は、武士の心得の代表のように言われる「葉隠武士」である佐賀藩鍋島家の家中でも、全くそういうこととは無縁で、ご都合主義で生きた者や出来事があったことを伝えるもので、無念のうちに死ななければならなかった出来事の顛末が描かれたものである。

 事の起こりは、慶安5年(1652年)5月に佐賀藩鍋島勝茂の十男である鍋島左近が江戸に母親を見舞った帰りの東海道原の宿近郊で、京都の役務を終えて江戸に帰る傲慢な旗本一行とすれ違った所にあった。

 その時に、左近一行の中にいた草履取りの剣之助という若者や挟箱持ちの吉左衛門が、喉が渇いて仕方がなく、行き過ぎようとした茶屋で水を飲んだ。そして、剣之助が吉左衛門の求めに応じて気軽に水を運ぼうとした時、つい慌ててしまって、旗本が乗る馬の鼻づらにぶつかり、その水が騎乗の旗本にかかったのである。

 ただこれだけのことだったが、旗本は「無礼者」と大喝し、槍で剣之介を突き刺したのである。吉左衛門は驚き、自分たちは肥前佐賀三十五万七千石の家臣であると名乗る。だが、旗本は直参(将軍家直属)で、無礼討ちは当然であると言う。当時、旗本は直参というだけでそれを鼻にかけるところがあった。そのあまりの仕打ちに、吉左衛門は、思わず脇差を抜いて馬上の旗本に斬りつけた。事柄が大きくなり、左近一行の家臣たちはその場に駆けつけ、吉左衛門を引き取ったが、斬りつけられた旗本は、吉左衛門を引き渡すように要求した。「下郎の首を差し出せ」と要求したのである。

 この悶着に、吉原の宿に泊まった摂津藩尼崎五万五千石の城主である青山大膳亮幸利が仲介に入ることになったが、吉左衛門の死は逃れようもないことになっていく。

 吉左衛門は自ら覚悟を決めていたが、素直な性質で働き者であり、親孝行でもあった剣之助を、いくら粗相があったにせよ、虫けらのように殺したことを黙って見ていることはできなかったし、佐賀の鍋島家は武勇の家風を誇っており、いくら相手が旗本であろうと貫くべき筋は貫き通すだろうと思っていた。

 旗本は強硬で、鍋島左近に直接謝罪させ、吉左衛門の首を差し出せと言い張るが、なんとか左近の直接の謝罪を食い止めるために、吉左衛門の首を差し出すことで、ようやく了承したというのである。喧嘩両成敗ならば、吉左衛門の首を差し出すなら、剣之介を殺した相手の槍持の首も差し出すように要求するのが妥当だった。

 吉左衛門は覚悟を決めると同時に、剣之助を殺した相手の首を要求した。鍋島の家風ならば、それは当然のことだった。しかし、主である鍋島左近はそんな気はさらさらなく、ただことを丸く収めたいだけであった。そのことを苦々しく思っていた左近の旅に同行した須古八兵衛は、吉左衛門に相手の首を約束して首桶をもってきて、せめて下郎としてではなく侍として切腹させ、その介錯をする。

 その時、吉左衛門は、明らかに無念腹とわかる切腹をし、「下郎一人に腹切らせ・・・、鍋島のご家風・・・、見事なものでございます・・・」と言い残すのである(本書223ページ)。八兵衛が持ってきた首桶の中には、相手の首ではなく石が入っていただけであり、吉左衛門はそれを承知の上で腹を切ったのである。

 鍋島左近もその家臣たちも、そのことについてはなんの痛みも感じていなかった。ただ、ひとり、須古八兵衛だけが、帰国後すぐに隠居して、以後は誰とも会おうとしなかった。吉左衛門と剣之助が葬られた寺の住職曰く「世に聞こゆる鍋島家の御家風も、まことに融通無碍なり」(本書 2227ページ)。

 「葉隠武士」といっても、あるいは「武勇を誇る」とか「侍の矜持」とかいっても、また「士道」といっても、それを体現する者は少なく、実態はこのようなものであったというのが、作者の視点である。そして、社会階級の上位にある者は下位にある者を犠牲にして成り立っているのであり、上位にある者はそのことを自責としてもつべきである。これまで、どの社会でも、人間の集団には階層(ヒエラルキー)が形成されてきた。そういう社会や集団というのは一体何なのかというのは社会学の深い課題でもある。しかし、階層形成というのが人間社会の役割上必要ならば、上位にある者はそういう認識を持つべきである。鍋島家も三代目以降になると幕末になるまで大した人物が出てこなくなった気がしないでもない。

 「小隼人と源八」は、厚い友情で結ばれていた若侍が、互いに相手を思いやりながらも一人の娘に求婚した話で、彼らは一緒に連れ立って堂々と結婚を申し込むのである。娘は、この二人のうちのどちらかを選ばなければならずに悩む。ところが、そのうちの一人である源八の父親が殺され、源八は仇討ちの旅に出なければならなくなる。もう一人の小隼人は、源八が仇討ちから帰るのを待って、公平に婚儀の話を進めたいと言う。

 だが、そのうちに娘が藩主の目にとまり、奥に奉公せよとの内意が届く。娘も娘の親も、この藩主の内意を断ることができない。小隼人はそれを知り、源八の帰りを待っていたが、娘を藩主の毒牙から守るために、仕方なく、娘との縁組を届け出て、娘を守る。

 そして、小隼人と娘が結婚した後で、源八が見事に仇討ちを果たして帰ってくるのである。だが、実は、源八が仇討ちを果たしたのは、小隼人と娘の婚儀の前で、源八は娘と小隼人が結婚するのを待って帰ってきたのである。小隼人はそのことを知り、源八の思いを感じていくのである。結婚を申し込んできた二人の若侍を見守る娘の心情もよく描き出されているし、二人の侍の心意気や友情も厚い。こういう作品は作者としても珍しい作品のような気がする。

 本書に収められている後半の作品の中で、最も優れているのは、次の「綾尾内記覚書」である。これは、岡崎藩の目付である綾尾内記が、宝暦12年(1762年)9月11日から1113日までの覚書として綴ったものという形で物語が展開されていく。

 それは、五年前に長年の辛苦の果てに親の仇討ちを果たして帰参した玉置小五郎と下僕の半蔵に、仇討ちとして討たれたはずの相手である勝山造酒と二年前に江戸であったと言い張る内藤伊右衛門という男が現れたことに端を発する事件であった。

 内藤伊右衛門は酒乱の癖があり、あまり信用が置けない人物であり、玉置小五郎も実直であるし、下僕の半蔵もよく主人に仕える人物であり、その真偽の調査を密かに綾尾内記が命じられるのである。

 だが、事柄が公となり、内藤伊右衛門は意地でも自分があったのが討たれたはずの勝山造酒であると言い張る。

 そこで、勝山造酒と思われる人物を探し出して、直接真偽をとうことになり、勝山造酒本人が現れるのである。その時に、下僕であった半蔵が切々と仇討ちの苦労を語り、また身代わりとなった浪人の困窮した姿を語って、真相を告白する。その深い真実の前で、単につまらない意地を張っていた内藤伊右衛門は、自らを恥じなければならなくなり、自決する。

 主人に偽の仇討ちをさせたということで、半蔵も玉置家の親戚の者からの要求で殺さざるを得なくなり、玉置小五郎も自害する。

 そういう話の展開がされるのだが、武士の一分や武士の意地を張ることの愚かさが、人の思いを殺していく悲劇が描かれるのである。それと共に、勇気を持って名乗り出たとされる勝山造酒という人物の、その行為が小五郎と半蔵という真摯な人間を殺すことになることを描くものである。物語の展開は、実に切々としている。

 作者自身が、1960年の『代表作時代小説』に選ばれた時の「作者のことば」として、「あることのために、討たれる覚悟で二十何年ぶりに姿をあらわした一人の男の、一種の英雄的な行為が、二人の真摯な人間を破滅させてしまう・・・それがほんとうに狙いだったのです」と記していることが、本書の清原康正の「解説」に付記されており、なるほどと思った。

 滝口康彦の短編には、何とも言えない切れ味があって、文学的にも上質の作品だとつくづく思っっている。