わたしが住んでいる近くの駅前に、小さなバラの公園が作られていて、今、そのバラが美しく咲いている。ロータリークラブだったか、ライオンズクラブだったか、その人たちが丹精を込めて造園されているのだが、日毎に楽しむことができるのでありがたい。冬枯れていくさまも好きだが、新緑の中で花々が咲く今の季節は美しい。花屋さんの店先には、もう紫陽花が並んでいた。
上質の小説を読むと、どことなく嬉しくなるが、滝口康彦『上意討ち心得』(1995年 新潮文庫)を静かに感動しながら読んだ。これも短編集で、本書には、「異聞浪人記」、「上意討ち心得」、「拝領妻始末」、「血染川」、「その心を知らず」、「下郎首」、「小隼人と源八」、「綾尾内記覚書」の八篇の短編が収められているが、このうち最初の三篇である「異聞浪人記」、「上意討ち心得」、「拝領妻始末」は、講談社文庫として出されている『一命』(2011年)にも収録されているので、ここでは触れないでおく。
「血染川」は、佐賀藩の藩祖といわれる鍋島直茂の甥にあたり、分家として久間城主であった鍋島助右衛門茂治の壮絶な破滅の物語である。鍋島助右衛門茂治は、剛毅で義に厚い人物だったと言われ、領地の久間にも善政を敷いて領民から慕われたと言われている。
彼の破滅は、秀吉の朝鮮の役(慶長の役 丁酉倭乱)の蔚山城攻防(1598年)の時に端を発している。その時に、鍋島助右衛門茂治は、未完成の蔚山城に篭城して飢餓寸前にまで陥った加藤清正ら日本軍の救出に援軍として駆けつけた鍋島勢の中にあって、一説では、餓死寸前で救出された加藤清正が感激して、自分の老臣(重職)の息子と助右衛門茂治の娘を娶あわせて、末永く縁戚を結ぶことを願ったと言われる。
朝鮮の役は秀吉の死をもって終わり、関ヶ原の合戦後、佐賀藩鍋島家は直茂の子の勝茂を藩主として家康から安堵されるが、鍋島勝茂は他国(他藩)との縁組を御法度(禁止)としたために、鍋島助右衛門と加藤清正との間でなされた婚儀の約定を行うことができなくなった。
しかし、どこまでも武士の約束を守ることを貫徹させようと、近所の寺に説法を聞きに行くという口実で、娘を密かに肥後熊本に送り出すのである。助右衛門の娘が若党と駆け落ちしたという他説もあるが、助右衛門が「義」として約束を守ろうとしたというのが真相のようにも思われる。その時、藩主として権力を振るい始めた勝茂に対する反発もあり、「勝茂なにするものぞ」の気概も助右衛門にはあっただろう。鍋島家の本流からすれば、助右衛門が本家筋にあたり、直茂・勝茂は分家筋だったのである。
娘は、行くへ不明となっていたが、実は、肥後熊本の老臣の一人であった正林隼人の息子の嫁となっていた(一説では清正の妾ともあるが、この問題が起こった時には、清正は既に死亡している)。それが鍋島勝茂の知るところとなり、自分が制定した法度が破られたことを激怒した勝茂が助右衛門の娘の引渡しを加藤家に申し入れるのである。
使者として立てられたのは剛直で武名を誇る成冨兵庫之介茂安で、成冨兵庫之介茂安は、朝鮮の役の際に加藤清正が、助けられた礼はどのようなことでもすると言った約束を盾にして、娘の一命を約して娘を連れ帰り、使者としての役目を果たす。だが、佐賀に連れ帰られて監禁状態に置かれていた娘は自害し、勝茂は鍋島助右衛門とその息子の織部に切腹を命じるのである。
助右衛門と息子の織部は、もちろんそのことは覚悟の上で、これらの一連のことが、助右衛門を目の上の瘤と思っていた勝茂によって助右衛門を排除するために行なわれたことも知っており、死の準備を整え、使者を待ったのである。使者が久間に到着したとき、助右衛門と織部は碁を打っており、その一局を済ませて腹を斬るのである。その時、助右衛門の家臣十八人が殉死を願い出て、織部は十八人の首を斬ってから腹を斬ったのである。
その時に流れ出た血が近くの川を赤く染めたので、その川は血川とか血染川とか呼ばれたという。
この話は『葉隠』の巻六に記載されており、『葉隠』は、「人物をもたない者の悲劇」として描いているのだが、滝口安彦は、これを藩主の勢力欲に対して壮絶に一徹さを貫き通した武士の物語としているのである。それは、滅びの美学と言えるかもしれないとも思う。
「その心を知らず」も、『葉隠』巻九から題材が取られたもので、男女の不義密通事件を取り扱ったものである。
ある武士が家に帰った時に、女房と家来とが寝間で密通を働いている現場に出くわし、女房を斬り殺して、子どもの恥になることだからと病死として処理し、不義密通を働いた家来は後日に暇を出して(解雇追放)、家名を守ったという話である。『葉隠』は、この出来事が江戸で起こったこととしているが、本書は佐賀藩の城下で、しかも不義を働いた女房の妹を主人公にして、対面を保つことのつまらさなを描いたものである。
「みな」は、姉の突然の死を知らされる。姉は四つになる子を残したままで、姉の夫の夏目陣内は二十五歳、姉は二十二歳だった。夫の評判も良く、家内は安定しているように見えた。「みな」の兄の小弥太と陣内が親しく、姉の婚儀もごく自然な成り行きだった。
姉の死後、陣内は後添いをもらうこともなく、姉のために立派な墓も建て、小弥太との交わりも欠かすことがなかった。だが、「みな」はそのどこかに違和感を覚えていたのである。そして、やがて姉の一周忌が過ぎ、夏目陣内は、子どもがなついている「みな」との結婚を申し出る。だが、陣内には隠していたことがあった。
それは、「みな」の姉が死んだのは、実は病死ではなく、家来と不義密通を行っていた現場に陣内が出会い、姉を斬り殺したことによるものだった。その際、陣内は、冷静に血飛沫が飛ばないように処理し、不義を働いた家来には当分今のままで過ごすように命じ、女中に医者を呼びに行かせ、その医者が来る途中で、姉がもう死んだと告げることで、病死を繕ったのである。
ことが明るみに出れば、それは夏目陣内にとっても恥となり、姉の兄である小弥太にとっても恥となるし、息子もつらくなるだろうから、すべてを内分にして病死としたのである。対面を取り繕うことが行われたのである。夏目陣内が「みな」に結婚を申し出たのも、万一にも秘密がもれても、不貞な妻の妹を嫁に迎えたりはしないはずだと、その秘密をだれも信じないだろうという計算が働いていた。
「みな」はその事実を知る。そして、兄の小弥太が、家名と人間の真実のどちらを取るか、で悩んできていたことを知るのである。「みな」は、それを知りながら、一応は陣内との婚儀を承諾するが、直接、陣内にあって、その気持ちを確かめようとする。
「みな」は陣内に、姉を殺した時に憐れむ心はなかったのかと問う。陣内は、不義を働き侍の顔に泥を塗ったのだから、一瞬の迷いも憐れむ心もなかったと言い張る。陣内は冷静に事を処理した。そこに「みな」は陣内の姉に対する一片の愛情もなかったことを知るのである。しかし、陣内の心は揺れた。だが、それも一瞬で、彼は再び家名を守るために、厳然と振舞おうとするのである。
だが、それから三日後、夏目陣内は佐賀の城下から姿を消す。そして、「みな」は姉の墓参りの時に、姉と密通した男と出会う。男は姉との不義が本気だったといい、それでも陣内のために死ぬわけにはいかなかったと言う。「みな」は、本心を隠して生きなければならない侍の哀しさを思うのである。
江戸時代も中期以降になるとサムライというよりも武家は対面や格式で生きるようになるが、対面を保とうとするときには人間性というものが押しつぶされていく。作者は、その押しつぶされる人間性が、押しつぶされてもな吹き出るところに真実があり、その真実の前では、対面や格式などは意味を持たなくなることを暗示する。「みな」というひとりの女性が、その真実を大切にしたいと願う姿を描き出すことで、『葉隠』が記していることとは違う視点で人間を見ることを物語るのである。
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