2013年5月25日土曜日

志水辰夫『みのたけの春』(2)

 梅雨入り前という感じで強い陽射しが差して、日傘をさした人々が街を歩いている。今週は少し忙しくしていたので、今日になって疲れがどっと出た感じであるが、昨日仙台から帰宅したら、知り合いのSさんが自宅菜園で採れたレタスを机の上に置いていてくださっていた。さっそくつめたく冷やしてサラダにして美味しくいただいた。疲れきっていたので、本当にありがたいことだと思っている。

 閑話休題。志水辰夫『みのたけの春』(2008年 集英社)の主人公榊原清吉は、老いて病んだ母を抱えながら養蚕によってかろうじて家計を支える貧しい郷士の生活の中で、尚古館で武を学び、柳澤宋元の三省庵で学問をひたすら地道に学びながら、幕末という激動する時代の中を誠実に生きていこうとする。

 彼の学友の何人かは、揺れ動く京都の尊王攘夷運動に感化されて、「天誅組の運動」に加担していったり、やがては「生野の変」に加わったりしていく。憤怒に耐え兼ねて公儀役人を斬った諸井民三郎は、追っ手の手を逃れていく。榊原清吉は残された民三郎の幼い兄弟姉妹たちを親身になって守ろうとするし、諸井民三郎を逃がしてくれと尚古館の指導者で「入山衆」の頭領格でもある橘川雅之に懇願する。その中で諸井民三郎の祖母が亡くなった時も、清吉は深い配慮をして民三郎の兄弟姉妹を助けていく。

 清吉の働きによって、諸井民三郎は京都に逃れることができ、幼い兄弟姉妹たちの引取り先も決まっていく。民三郎の兄弟姉妹たちはそれぞれが健気に生きるが、弟の又八は、川に落ちた幼い女の子を救おうとして命を落としてしまう。民三郎の兄弟姉妹たちの健気さにには心を打たれるものがある。

 榊原清吉は、三省庵の柳澤宋元の娘の「みわ」に密かに想いを寄せていたが言い出せないでいた。柳澤宋元は、京都で「ころり」が流行った時に、家族を守るために貞岡の地での学塾の師としての仕事を引き受けて、この地で三省庵を開いたのだが、彼が大事に守った妻が亡くなってしまい、娘の「みわ」が身の回りの世話をしていたのである。宋元は妻を亡くした当たりから次第に生きる意欲をなくして酒に溺れるようにもなっていた。彼がこの地に来たのは、単に「ころり」から逃れるためだけではなく、「安政の大獄」で吹き荒れた弾圧から逃れるためでもあったが、その最愛の妻を失い、時代が大きく変わろうとする中で取り残されていく寂寞感もあったのであろう。

 清吉の学友で塾生の多くは尊王攘夷運動へと心を寄せていき、「天誅組の変」の時には、清吉にも誘いが来るし、「生野の変」の時にも誘いが来る。だが、自分には老いた母がいるからとこれをきっぱり断るのである。百姓衆を農兵として束ねようとする動きにも、彼は知り合いの百姓の息子がその運動に加担しようとするのを止めて、家族の生活を守るように諭していったりするのである。

 多くの仲間たちが時代のうねりに身を投じ、その波に乗ろうとする空気の中で、彼は老いて病んだ母との生活という足元に立ち続ける。清吉は涙が出るほど心優しい。寒くなると母の具合が悪くなるので、囲炉裏で石を温めて湯たんぽ代わりに使うようにしてあげたり、母の痛む手足を何時間も揉みほぐしてあげたり、母親の体を温めるためになんとかして内風呂ができないかと苦心したりする。

 その母親との日常の穏やかな会話の一コマが次のように描かれている。
 「突然鶯が飛び立った。ちょうど母が手を止めたときだった。
 去年も鶯は来た。昨年の母はそれを床のなかで見つめた。冬が長くて寒かったから、なかなか起きられなかったのだ。
 『ねえ、母上、あの鶯、毎年同じ鳥がきてるんじゃないでしょうか。そんな気がしてならないんですけど』
 『同じですよ。ことしきたのは、去年きた鶯の子どもです』
 母は信じ切っている口調で答えた。たしかにそう考えたほうが気分はよくなる。
 いまでも母には教えられることが多かった。くよくよしないのである。少なくともせがれには、そう見えるようにふるまっていた。それをせがれはありがたいと思っている。
 仕事にもどります、と答えて清吉は立ちあがった。」(57ページ)

 この一コマも、なんでもないような情景として描かれているが、母子の温かい愛情の姿と、日常の連続である歴史の重さがひしひしと伝わる場面なのである。

 本書は次のような言葉で終わっている。
 「暗かった。何も見えない。それを歩いた。これが自分の道なのだ。これからも歩いていかなければならない道なのだ。
 行かなければならなかった。帰らなければならなかった。
 母が待っている。
 たったひとりの親が待っている。
 親がいる。子がいる。親と子の暮らしがある。
 親、親、親。親くらいむごいものがこの世にあるだろうか。
 一方で、子の苦しみや喜びを、だれよりも倶にしてくれるもの、それもまた親をおいてないのだ。
 なにもかもひっくるめたその上に、いまの自分がいるのだった」(357ページ)

 「変わりばえのしない日々のなかに、なにもかもがふくまれる。大志ばかりがなんで男子の本懐なものか」と清吉は心底思っているのである。日常のなんでもないことの中の絶大な価値、清吉はそこに立って生きようとするのである。

 彼は、京都に逃れた友人の諸井民三郎が、「入山衆」の頭領の橘川雅之の弟で、過激な尊王攘夷運動を展開する高倉忠政の手先として暗殺者になっていることを知り愕然とするし、その高倉忠政が捕縛されて、事件をもみ消すための「とかげの尻尾切り」として民三郎が殺されることも知る。諸井民三郎も捕縛されて拷問を受けていたが、獄屋を脱走していたことを知り、どうにもならなさを感じて、民三郎の兄弟姉妹たちのためにも、民三郎に自害を勧めに行く役割も引き受ける。清吉は、あらゆる困難を自分の手で引き受けていく覚悟をもつ人間である。そして、山中に隠れていた民三郎を見つけ、民三郎と斬り合うことになり、民三郎を刺す。民三郎も、そのことを自覚して、自ら刺されたようなものであった。清吉は、それら一切のことを黙って背負っていくのである。

 榊原清吉は、病んだ母親を抱えてかつかつの百姓生活をする貧しい郷士だった。彼は目立たず、武芸においても学問においても、人よりも前に出ることをしないような温和な人間だった。好きな女性にも、それを明かすことも泣かれば、土産に買った櫛を渡すこともできないような日々を送っていた。しかし、覚悟をもって、自分の日々の生活を送り、あらゆる風雪に耐えて、優しく、しかししっかりと大地に根をおろす生き方をしていくのである。「みのたけの春」、まさにそうのように生きる姿が描かれるのである。

 多くの者たちが騒乱の流れの中に身を投じていく中で、彼は、家族のために、友人の家族のために、そして村の共同体のために、その平穏を願って命がけの行動を起こす。「変わりばえのしない日常」は、日々の努力の中でしか営まれない。その努力を穏やかに、しかし懸命に果たしていくのである。

 素晴らしい視点と素晴らしい描写が叙情豊かに綴られていく、いい作品だと思う。

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