2013年5月15日水曜日

滝口康彦『上意討ち心得』(2)「下郎首」、「小隼人と源八」、「綾尾内記覚書」


 昨日は汗ばむほどの天気で、今日も快晴の空が広がってきた。昨日は講義の後でバスにタッチの差で乗り遅れてしまい、暑い中、駅までぶらぶらと歩いてみたりしたために足が棒のようになり、おまけにその後に電車で1時間半ほど立ちっぱなしで、少々、疲れを覚えていた。まあ、運動と思えば、それもまた「よし」であろう。

 それにしても、この国の政治家の歴史認識というか、人間や社会に対する認識の浅さに唖然とする出来事がこのところ続いている。「衰退期の悪あがき」という感じがしないでもないが、そのあまりに前世紀の遺物的思考にうんざりしたりする。

 それはともかく、滝口康彦『上意討ち心得』(1995年 新潮文庫)に収録されている「下郎首」は、武士の心得の代表のように言われる「葉隠武士」である佐賀藩鍋島家の家中でも、全くそういうこととは無縁で、ご都合主義で生きた者や出来事があったことを伝えるもので、無念のうちに死ななければならなかった出来事の顛末が描かれたものである。

 事の起こりは、慶安5年(1652年)5月に佐賀藩鍋島勝茂の十男である鍋島左近が江戸に母親を見舞った帰りの東海道原の宿近郊で、京都の役務を終えて江戸に帰る傲慢な旗本一行とすれ違った所にあった。

 その時に、左近一行の中にいた草履取りの剣之助という若者や挟箱持ちの吉左衛門が、喉が渇いて仕方がなく、行き過ぎようとした茶屋で水を飲んだ。そして、剣之助が吉左衛門の求めに応じて気軽に水を運ぼうとした時、つい慌ててしまって、旗本が乗る馬の鼻づらにぶつかり、その水が騎乗の旗本にかかったのである。

 ただこれだけのことだったが、旗本は「無礼者」と大喝し、槍で剣之介を突き刺したのである。吉左衛門は驚き、自分たちは肥前佐賀三十五万七千石の家臣であると名乗る。だが、旗本は直参(将軍家直属)で、無礼討ちは当然であると言う。当時、旗本は直参というだけでそれを鼻にかけるところがあった。そのあまりの仕打ちに、吉左衛門は、思わず脇差を抜いて馬上の旗本に斬りつけた。事柄が大きくなり、左近一行の家臣たちはその場に駆けつけ、吉左衛門を引き取ったが、斬りつけられた旗本は、吉左衛門を引き渡すように要求した。「下郎の首を差し出せ」と要求したのである。

 この悶着に、吉原の宿に泊まった摂津藩尼崎五万五千石の城主である青山大膳亮幸利が仲介に入ることになったが、吉左衛門の死は逃れようもないことになっていく。

 吉左衛門は自ら覚悟を決めていたが、素直な性質で働き者であり、親孝行でもあった剣之助を、いくら粗相があったにせよ、虫けらのように殺したことを黙って見ていることはできなかったし、佐賀の鍋島家は武勇の家風を誇っており、いくら相手が旗本であろうと貫くべき筋は貫き通すだろうと思っていた。

 旗本は強硬で、鍋島左近に直接謝罪させ、吉左衛門の首を差し出せと言い張るが、なんとか左近の直接の謝罪を食い止めるために、吉左衛門の首を差し出すことで、ようやく了承したというのである。喧嘩両成敗ならば、吉左衛門の首を差し出すなら、剣之介を殺した相手の槍持の首も差し出すように要求するのが妥当だった。

 吉左衛門は覚悟を決めると同時に、剣之助を殺した相手の首を要求した。鍋島の家風ならば、それは当然のことだった。しかし、主である鍋島左近はそんな気はさらさらなく、ただことを丸く収めたいだけであった。そのことを苦々しく思っていた左近の旅に同行した須古八兵衛は、吉左衛門に相手の首を約束して首桶をもってきて、せめて下郎としてではなく侍として切腹させ、その介錯をする。

 その時、吉左衛門は、明らかに無念腹とわかる切腹をし、「下郎一人に腹切らせ・・・、鍋島のご家風・・・、見事なものでございます・・・」と言い残すのである(本書223ページ)。八兵衛が持ってきた首桶の中には、相手の首ではなく石が入っていただけであり、吉左衛門はそれを承知の上で腹を切ったのである。

 鍋島左近もその家臣たちも、そのことについてはなんの痛みも感じていなかった。ただ、ひとり、須古八兵衛だけが、帰国後すぐに隠居して、以後は誰とも会おうとしなかった。吉左衛門と剣之助が葬られた寺の住職曰く「世に聞こゆる鍋島家の御家風も、まことに融通無碍なり」(本書 2227ページ)。

 「葉隠武士」といっても、あるいは「武勇を誇る」とか「侍の矜持」とかいっても、また「士道」といっても、それを体現する者は少なく、実態はこのようなものであったというのが、作者の視点である。そして、社会階級の上位にある者は下位にある者を犠牲にして成り立っているのであり、上位にある者はそのことを自責としてもつべきである。これまで、どの社会でも、人間の集団には階層(ヒエラルキー)が形成されてきた。そういう社会や集団というのは一体何なのかというのは社会学の深い課題でもある。しかし、階層形成というのが人間社会の役割上必要ならば、上位にある者はそういう認識を持つべきである。鍋島家も三代目以降になると幕末になるまで大した人物が出てこなくなった気がしないでもない。

 「小隼人と源八」は、厚い友情で結ばれていた若侍が、互いに相手を思いやりながらも一人の娘に求婚した話で、彼らは一緒に連れ立って堂々と結婚を申し込むのである。娘は、この二人のうちのどちらかを選ばなければならずに悩む。ところが、そのうちの一人である源八の父親が殺され、源八は仇討ちの旅に出なければならなくなる。もう一人の小隼人は、源八が仇討ちから帰るのを待って、公平に婚儀の話を進めたいと言う。

 だが、そのうちに娘が藩主の目にとまり、奥に奉公せよとの内意が届く。娘も娘の親も、この藩主の内意を断ることができない。小隼人はそれを知り、源八の帰りを待っていたが、娘を藩主の毒牙から守るために、仕方なく、娘との縁組を届け出て、娘を守る。

 そして、小隼人と娘が結婚した後で、源八が見事に仇討ちを果たして帰ってくるのである。だが、実は、源八が仇討ちを果たしたのは、小隼人と娘の婚儀の前で、源八は娘と小隼人が結婚するのを待って帰ってきたのである。小隼人はそのことを知り、源八の思いを感じていくのである。結婚を申し込んできた二人の若侍を見守る娘の心情もよく描き出されているし、二人の侍の心意気や友情も厚い。こういう作品は作者としても珍しい作品のような気がする。

 本書に収められている後半の作品の中で、最も優れているのは、次の「綾尾内記覚書」である。これは、岡崎藩の目付である綾尾内記が、宝暦12年(1762年)9月11日から1113日までの覚書として綴ったものという形で物語が展開されていく。

 それは、五年前に長年の辛苦の果てに親の仇討ちを果たして帰参した玉置小五郎と下僕の半蔵に、仇討ちとして討たれたはずの相手である勝山造酒と二年前に江戸であったと言い張る内藤伊右衛門という男が現れたことに端を発する事件であった。

 内藤伊右衛門は酒乱の癖があり、あまり信用が置けない人物であり、玉置小五郎も実直であるし、下僕の半蔵もよく主人に仕える人物であり、その真偽の調査を密かに綾尾内記が命じられるのである。

 だが、事柄が公となり、内藤伊右衛門は意地でも自分があったのが討たれたはずの勝山造酒であると言い張る。

 そこで、勝山造酒と思われる人物を探し出して、直接真偽をとうことになり、勝山造酒本人が現れるのである。その時に、下僕であった半蔵が切々と仇討ちの苦労を語り、また身代わりとなった浪人の困窮した姿を語って、真相を告白する。その深い真実の前で、単につまらない意地を張っていた内藤伊右衛門は、自らを恥じなければならなくなり、自決する。

 主人に偽の仇討ちをさせたということで、半蔵も玉置家の親戚の者からの要求で殺さざるを得なくなり、玉置小五郎も自害する。

 そういう話の展開がされるのだが、武士の一分や武士の意地を張ることの愚かさが、人の思いを殺していく悲劇が描かれるのである。それと共に、勇気を持って名乗り出たとされる勝山造酒という人物の、その行為が小五郎と半蔵という真摯な人間を殺すことになることを描くものである。物語の展開は、実に切々としている。

 作者自身が、1960年の『代表作時代小説』に選ばれた時の「作者のことば」として、「あることのために、討たれる覚悟で二十何年ぶりに姿をあらわした一人の男の、一種の英雄的な行為が、二人の真摯な人間を破滅させてしまう・・・それがほんとうに狙いだったのです」と記していることが、本書の清原康正の「解説」に付記されており、なるほどと思った。

 滝口康彦の短編には、何とも言えない切れ味があって、文学的にも上質の作品だとつくづく思っっている。

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