日中の気温が30度を超える蒸し暑い日になった。こういう蒸し暑さは、疲れやすくなっている身体にこたえる。ひどく眠気を覚えて横になり、うとうとしながらではあるが、宮部みゆき『あやし~怪~』の残りの四編、「女の首」、「時雨鬼」、「灰神楽」、「蜆塚(しじみづか)」を読み終えた。いずれも短編としてはよくまとめられた作品である。
「女の首」は、母親を亡くして袋物屋に奉公に出た子どもが、その奉公先の納戸として使われている部屋の襖に女の首が浮かび上がるのを見て、脅えてしまうが、そのことによって自分の素性が、実はその奉公先から幼い頃に拐かされた息子であったということを知っていく話で、襖に浮かび上がった女の首は、その店の若旦那に勝手に惚れて、悋気して、ひとり息子を拐かし、追われてその息子をカボチャ畑に捨てたが、捕まえられて獄門になった女で、息子を育てたのは、カボチャの葉に守られて助かったのを見つけた女性だった。そして、女の首の亡霊に取り殺されそうになった息子を、亡くなった後も守っていたのである。息子は機転を利かせて女の首の亡者を片付け、守り神としてカボチャを大事にしているという話である。
「時雨鬼」は、男に言い寄られて、今の仕事を辞めて金になるところで働けという甘言で出会茶屋に売られそうになった娘が、不安を抱えて自分に仕事を世話してくれた口入屋に相談に出かけたところ、その口入屋の女将さんだという女が出てきて、自分の過去のことを話し、言い寄ってくる男が信用できないと諭すのだが、昔、時雨時に鬼を見たという話をする。やがて、不安のまま日々を過ごしている娘の所に岡っ引きが訪ねてきて、実は彼女が口入屋を訪ねた時には、その主人は殺されており、その時出てきた女将さんというのは、強盗の一味ではないかと言う。そして、甘言をもって言い寄ってくる男の背後に時雨鬼の幻影を見せる。娘がその後どうしたかは触れられない。
「灰神楽」は、古い火鉢を使っていたまじめでおとなしい女中が、突然、何かに憑かれたように店の主一家の弟に斬りつける。女中と弟には何の関係もない。岡っ引きがその事件を調べ、使っていた火鉢に何か因縁があるのではないかと思い、それを古い寺に預ける。そして、寺の住職から、確かに火鉢から灰神楽がたって、そこから人の怨念が出てきたという手紙をよこすという話である。
「蜆塚」は、亡くなった父親の後を継いで桂庵(口入屋)をするようになった男が、父の友人の病を聞いて蜆をもって見舞いに行き、そこで、何十年も死なずに元の姿で、十数年ごとに仕事の世話を頼みに来る人間がいるという話を聞く。見舞いに行った翌日、その話をした父の友人は死に、彼はその話の証拠を探し始めるが、しばらくして、蜆のいる堀で死んでしまう。そういう人間がいても沿っといておくのが一番だ、という警句を無視したからだろう。彼が死んだ堀に「蜆塚」が建てられた。
これらの短編は、ただ「あやし~怪~」の話である。だからどうだと言うことはない。人間のすさまじい業が「あやし(怪)」として出現する。「あやし(怪)」という姿を借りて、そういう現実を物語ったものである。
わたしのように何事もあきらめの早い人間は、怨念という「念」を抱き続けることもできないが、確かに自分の中には「悪」とでも呼ばなければならないようなものがあるのは事実であり、自分の中に「鬼」が住んでいるのではないかと思えるようなことがある。宮部みゆきは、それを「あやし(怪)」として具現化して作品を書いているが、そこに善悪の判断を軽々しく押しつけないところがよい。ただ、どうせ書くなら、怪談話を超えるようなもっとおどろおどろしたものでもよかったかも知れないが、そこに作者の優しさもあるのだろう。
明日からまた雨らしい。雨の景色をぼんやり眺めるのは本当に好きだが、出かけるにはうっとうしい。そして、雨の日はつくづく寂しさも感じたりする。まあ「ケセラセラ」であり「Let it be」とは思っているが。
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