雨模様ではないが湿気のある重い空気と灰色の雲が広がって、梅雨の何とも言えない中途半端な気怠さを感じる日となった。首から左肩の痛みが残っていて睡眠がうまくとれないのか、よけい気怠さを感じてしまう。昨日は、少し事務的な仕事をしながら、先日話をした「カフカ論」の草稿に手を入れたり、加筆をしたりしていたが、中途半端な天気は、人間存在の中途半端な姿を描いたカフカ的な天気だと言えるかも知れない。
先日から佐藤雅美『天才絵師と幻の生首 半次捕物控』(2008年 講談社)を読んでいた。これはこのシリーズの七作目で、今のところこのシリーズでは一番新しい物で、本書には「膏薬と娘心」、「柳原土手白昼の大捕り物」、「玉木の娘はドラ娘」、「真田源左衛門の消えた三十日」、「殺人鬼・左利きの遣い手」、「奇特の幼女と押し込み強盗」、「取らぬ狸の皮算用」、「天才絵師と幻の生首」の八編の短編が収められた連作集で、岡っ引きの半次を引き回し役にしてそれぞれの事件の顛末が述べられたものである。
枯れて乾いたような行為や事情だけを淡々と述べた文章によって、火付けとして捕らえられた娘の事情を明らかにした「膏薬と娘心」、兄弟の犯罪を次々と半次によって暴かれた男が逆恨みして半次を狙ったが、柳原土手で捕まえられた男の事件、「玉木の娘はドラ娘」という囃子詞でうわさ話を振りまいた事件、真田源左衛門という浪人を敵として果たし合いを申し入れたが、仇討ちの場に現れなかった双方の事情を明らかにした「真田源左衛門の消えた三十日」、左利きの遣い手と思われる殺人事件の顛末を暴いた事件、押し込み強盗に入ったが十歳の幼女の勇気によって助かった商家の事件、幼なじみの戯作者と絵師の争いの顛末を記した「取らぬ狸の皮算用」、子どもが描いた生首の絵にまつわる事件、などが語られていく。
作者の佐藤雅美は、以前から、事柄のリアリティーを大事にする作家で、勢い、人間の心情や思い以上に事柄の客観的なことが語られる傾向があったが、本書では、その傾向がますます強くなり、たとえば、このシリーズの初期の頃には、半次の岡っ引きとしての苦労や、生活の苦労、彼自身の女性にまつわる話によって半次が反問していく姿が描かれていたが、本書では、事件の顛末が半次の推理と共に淡々と客観的に述べられるだけになっている。
そのために、わたしのような人間にとって、それぞれの事件に関わる人間の「深み」が描かれずに少々の物足りなさを感じるし、シリーズの重要な脇役として登場する奇異な人物である蟋蟀小三郎の存在にも、彼が金好きで女好き、自分勝手で思い込みが激しいがかなりの剣の使い手で、半次と腐れ縁のようにしてもつれていることが語られはするが、また、ユーモアを添える人物として描かれるが、もう一つ膨らみがあってもいいように思われるのである。
現実性(リアリティー)や客観性を重んじると、なるほど人間の姿は、その行為と彼が語る言葉によってしか表すことができない。その意味では作者がたどり着いている地平は、一つの地平ではあるだろう。行為が存在を規定するあり方は現代の特徴でもある。しかし、人間は行為がすべてではない。また、文学が行為の記録だけとなるなら、それは記録や歴史書であって、文学作品とはならないのではないだろうか。実際の作品では、そのあたりの兼ね合いが難しいところだろうが、枯れた文章に魅力を感じつつも、どこか文学作品としての読後感に薄さを感じてしまう気がするのである。
この作品は、それはそれとして面白く読めるのだが、あまりにも淡々とした記述にそんなことを感じさせられていた。
今日はあざみ野の山内図書館に本を返却しなければならない。昨日が整理日とかで休館だったので、本当は昨日返却予定だったが、いくつかの薬を薬局で買う必要もあり、今日出かけることにした。昨日の夕方は、訪ねてきてくれた中学生のSちゃんに数学の「相似」の話をするついでではあったが、古代ギリシャの初期の哲学たちについて話をした。「相似」は古代ギリシャの初期の哲学者タレスによって使われた方法で、タレスは数学的な「相似」を用いることで、実際に測ることができないピラミッドの高さを測った人だが、この時代の哲学者たちの「観察眼」には恐れ入る。タレスは「観察」による学問の方法を確立した人だと言える。物事をよく観察すること、これが方法と結果を生むということを改めて思う。
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