2010年6月3日木曜日

宇江佐真理『晩鐘 続・泣きの銀次』

 よく晴れた初夏を思わせる日になった。先日から隣のマンションで何かの工事をしているらしく、コンクリートを削る音が朝から喧しく、痛めている身体にけっこうこたえる。左肩から腕にかけて走っている痛みは、それでも、幾分かは和らいで、まだ痛み止めの世話になりつつではあるが、なんとか日常生活が送れるようにはなってきた。特に夜はしばらく休んでいると楽になるようになった。

 痛みを覚え始める前の先週、あざみ野の山内図書館に行ったとき、まだ読んでいない宇江佐真理の著作を見つけ、本当に嬉しくなって借りてきていたので、昨日、これを読んだ。宇江佐真理は、わたしが歴史・時代小説の中で最も好きな作家であり、この人の作品はどれを読んでも「はずれ」というものがないばかりか、大きな感動を受け取ることができる。女流作家の中では、わたしの中では最高峰である。この人に直木賞を贈らない直木賞選考委員会はどうかしているとさえ思っている。

 今回読んだのは、『晩鐘 続・泣きの銀次』(2007年 講談社)で、これは表題の通り、1997年に講談社から出された『泣きの銀次』の続編の形をとっており、北町奉行所の定廻り同心の表勘兵衛から手札を受けて岡っ引きをしていた小間物問屋の若旦那「銀次」の、前作から十年後の姿を描いたものである。前作も傑作だったが、これも傑作である。

 銀次は、死人を見るたびに、その死によって生命と運命が断ち切られ、その人の一切が失われたことを嘆き悲しんでところかまわず大泣きをしてしまうところから「泣きの銀次」と呼ばれていた。感情移入が激しい感激屋の男である。わたしも涙もろい人間だから、この銀次の心情がよくわかる。

 しかし、十年という月日は長く、この十年の間に、銀次の小間物問屋「坂本屋」は、二度の火事に見舞われ、没落し、店を任せていた父親と弟が死に、銀次が店を引き受けなければならなくなって十手も捕り縄も返上し、女房のお芳と小さな小間物屋を開いて糊口をしのいでいる。お芳との間には、八歳の長女「おいち」を頭に、次女「お次」、三女「おさん」と、まだ幼い長男の「盛吉」の四人の子がいる。銀次は、小さな小間物屋で何とかしてこの四人の子どもたちを育てているのである。

 銀次の家は貧しいが、四人の子どもたちはそれぞれ個性的にのびのび育ち、家庭はさりげない日常の温かさに満ちている。さりげない日常の中で人間の温かさを描き出す作者の視点は天下一品である。

 その頃、江戸で若い娘が拐かされ(誘拐され)、暴力を振るわれて見るも無惨に乱暴されて殺されるという事件が頻発していた。あるとき、銀次が小間物を木箱に入れて触れ歩いていた時、雨宿りをしていた古ぼけた無人の武家屋敷からうめき声がするのを聞きつけ、そこに拐かされて縛られていた娘「菊」を助け出した。一連の誘拐・暴行・殺人事件の被害者の一人である。

 何よりも生きていること、命を大事にする銀次は助け出した娘に言う。
 「一つ、約束してくんねェか。恩に着せるわけじゃねェが、おいらはお前ェさんの命を助けた。あのままあそこにいたら、お前ェさんはどうなっていたかしれたもんじゃねェ。命拾いしたと思って、これからはしっかり生きて行くんだぜ。日本橋の廻船問屋の娘はせっかく助かったのに、苦しい思いに耐えきれず、とうとう自害しちまった。他人はあれこれ噂するもんだ。だが、それに負けちゃ、本当にお仕舞ェだ。なあに、四十、五十になってみろってんだ。昔はこんなこともあったって、笑い話にできまさァ」(19-20ページ)。

 そして、娘はその銀次の言葉を頼りに、世間の噂に耐えて生きていくが、銀次が昔「泣きの銀次」と呼ばれていた優れた岡っ引きであることを知り、なんとしても下手人(犯人)を捕まえてくれと言う。銀次の子どもたちも、家は貧しく小さな小間物屋だが、銀次に岡っ引きに戻ってほしいと願っている。偶然に出会った同心の表勘兵衛も、今は老いて臨時廻りになっているが、銀次を信頼して、岡っ引きに戻ってきて下手人を捜し出すのを助けてほしいと言う。そして、銀次は娘のために、もう一度岡っ引きに戻って犯人の探索をすることを決意する。

 しかし、探索はそう簡単には進まない。その間に別の被害者も出る。犯人が手ひどい暴力を働くところから、ようやく見つけた糸口である蔭間茶屋の蔭間(男娼)も、銀次が話を聞こうとした矢先に殺されてしまう。そうしているうちに、絵を学ぶために津軽藩から出てきて、出奔している兄を捜している少年やその兄と出会い、落ちぶれてやけになっている兄を立ち直らせたり、肥前平戸藩の藩主で隠居している老人と出会ったりする。そして、銀次の家族との温かい交わりを通して次第に元気になってきた「菊」から、犯人が二人の侍ではないかと察するようになる。

 やがて、探索が少し進み、絵を学んでいる少年が描いた似顔絵がきっかけとなり、犯人の一人は元平戸藩の家臣で、息子が辻斬りをしたために改易され、それでも旗本になっている家の息子ではないかと推察されるようになり、もう一人の犯人もその友人の侍だろうと察されるようになってくる。そして、拐かされて乱暴を働かれた「菊」に縁談があがり、その縁談の相手が、実は「菊」に乱暴を働いた犯人が口封じのために申し出たことがわかってくる。その仲介の労を執ったのは、かつての銀次の手下で、今は銀次と身分が入れ替わって大きな料理屋を営むようになって、銀次を馬鹿にするようになっていた「政」であることも、彼が金のために犯人たちの手引きをしていることもわかる。その手引きによって銀次は襲われるが、逆に犯人の一人を捕らえることができた。だが、相手は武家であり、町方の銀次は手を出すことができない。だが、捕らえた犯人の一人は、銀次が知り合った平戸藩の元藩主の尽力もあって切腹の沙汰が降りる。しかし、もう一人の犯人はようとして行くへがしれなくなってしまう。

 その犯人が、逆恨みで銀次の次女「お次」を誘拐する。銀次は必死になって娘を捜す。だが、しっかり者のお次は、犯人の下男の助けもあって、そこを逃げ出し、保護されることができた。

 「泣きの銀次」の渾名の通り、泣きながら駆けつけてきた銀次は、幼いお次に言う。
 「お前ェにもしものことがあったら、おいら、この先、どうして生きて行ったらいいのかわからなかったぜ。だが、無事でよかった」
 「お父っつぁん。それほどあたいが大事?」
 「んなこと当たり前ェよ。おいらが苦労して育てた娘だ。何かあってたまるかってんだ」(205ページ)

 こんな風に言うことができる親と、それを知っている娘が強い絆で結ばれているのは当然のことであり、大きく深い信頼を得ている銀次は娘のお次のヒントもあって犯人にたどり着く。

 手強い拐かしの犯人は、幼いころ義母にいじめられ、虐待され、他家に養子に出され、そのことで心がねじ曲がって、ほかの人間に暴力を働くことに快感を覚えていたのである。父親も関わり知らずの態度をとっていた。だが、その父親も、息子の仕業を知り、一家心中をすることになる。

 銀次はようやくにして、危ういところで知り合った平戸藩の元藩主や津軽藩の立ち直った兄の助けを得て、犯人を捕らえることができた。そして、被害者だった「菊」も銀次を助けた兄と結ばれるようになる。銀次の店も、苦労して考案した「美顔水」が当たって繁盛の兆しが見えてくる。さあ、これから40歳を過ぎた銀次の新しい10年が始まるのである。

 銀次はどこまでも「助ける人」であり、彼が「助ける人」だから、彼の周りの人たちもみんな、犯人たちを除いて「助ける人」である。去る者は去る。だが、彼の回りに残る人々はそういう人たちである。これは値なしのすばらしさである。

 作品として見るならば、この作品には作者がほかの作品でもいかんなく発揮してきた温かい人間模様が余すところなく使われている。親子の関係、夫婦の関係、子どもや老人、温かさに触れて温かくなる人間の姿、そういう姿がここには十分ある。人情物とか市井物とか、あるいは捕物帖物とか、そういう言葉では表すことができない独特の愛情あふれるものがあって、もちろんその苦悩や苦労も描き出されて、作者の中にある深い温かさを感じることができる。宇江佐真理は、本当に優れた作家である。その描き出す人間味がいい。

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