2010年6月10日木曜日

宮部みゆき『あかんべぇ(上・下)』

 2~3日続いた梅雨を思わせるような天気が一変して、暑い日差しがよく晴れた空に広がっている。首から肩にかけての違和感はまだ残っているのだが、日々の暮らしと仕事は否応なしにあるわけだし、仕事上の千客や電話は万来するわけだから、もっぱらそれに専念することにしている。

 それでも、来週の月曜日に小さな集まりで発表することにしている「カフカ論」を少し進めた。あらためてF.カフカについて考えているわけだが、カフカは作品の中で、「核心に至ることができない人間」の姿を描いているし、いつも「満たされることのない自分」というものを感じていたのかもしれないと思ったりする。

 それにしても、文学が思想や哲学に意味を持たなくなって久しくなるが、哲学的考察の対象となるような作家が少なくなったとつくづく思ったりもする。人間の思想自体が大きな混迷期に入っているのだからやむを得ないとは思うが、思想と思想を具現化する言葉が軽くなって意味をなさなくなった現象が政治や経済に噴出して、相対化がここまで進んでしまうと今後どうなるのだろうかと思ったりする。人間が大切にすべきものを大切にしなくなったことを感じ続けている。

 歴史・時代小説の方は、これはもちろん根本的にファンタジーの世界に属することであるが、宮部みゆき『あかんべぇ(上下)』(2007年 新潮社文庫)を大変面白く読んだ。宮部みゆきは、文学が人間の抱える問題をリアルに織り込んだファンタジーであるとすれば、その優れた旗手のひとりであることに間違いはないだろう。彼女の作品のほとんど(SFや現代小説はまだ読んでいないが)が大変面白く、また意味を持ったものであることは、また、どの作品にも「温もり」というものを感じるのは、彼女が作家として相当の力量をもっていることと、その感性の豊かさを思わせるものである。

 『あかんべぇ』は、深川で料理屋を始めることになった「ふね屋」の十二歳になる娘「おりん」を中心にして、そこで起こる人間の様々な怨念に基づく出来事を解き明かしていく物語である。

 人間は、恨みや嫉妬や欲に絡まれながら生きている。多くの場合、未練を残したまま生きなければならない。その「悪」の部分を、宮部みゆきは、この世に未練や恨みを残したまま彷徨っている亡者、怨霊として描く。だから、十二歳のまっすぐな心を持つ健気な少女「おりん」は、高熱のために死にかけるが、その死の淵から生き返ることで、それらの亡者や怨霊が見える少女として設定されている。

 深川の海辺大工町で始めることになった料理屋「ふね屋」には、不幸にも様々な亡者や怨霊が巣くっている。井戸に投げ込まれて殺され、「おりん」にあかんべぇを繰り返す少女、美男だが少し崩れたところのある侍、黒髪も艶やかな美女、按摩治療が得意で、病気で死にかけた「おりん」を治す老人、見るも異形で刀を振り回す浪人。「おりん」にはそれらの亡者の姿が見えるし、美男の侍や美女の亡者はまた、まっすぐで健気な「おりん」を助けていく。

 料理屋として始まった「ふね屋」は、両親の苦労の甲斐もなく、異形で刀を振り回す浪人の亡者の乱暴や、弟に殺されたと思って料理人の弟に取り憑いてさんざんな悪を働く兄の亡者によってひどい事態に陥る。彼らの姿が見える「おりん」は、ひとり、それらの原因を探っていこうとする。

 他の人には、これらの亡者の姿が見えたり見えなかったりする。その亡者と同じような思いを抱いている人にだけ、その亡者の姿が見えていくのである。「おりん」はそのことによって、自分の周囲にいる人々が抱いている苦しみや悲しみを知っていく。

 そしてついに、それらの原因が三十年前にこの地で起こった悪鬼のような寺の住職による大量殺人と関係していたことを知り、また料理人の兄を殺したのが、実は、その妻が家族の温かみを取り戻そうと誤って毒をもってしまったことによることが明らかになっていく。そして、「おりん」がそれらを明らかにすることによって、亡者たちは成仏していくのである。

 亡者は亡者である。しかし、宮部みゆきは、一人一人の亡者が抱いている恨みや後悔や未練の姿をやむにやまれぬ悲しい姿として丹念に、そして温かく描き出す。美男の剣士は、遊び人として誰からも理解されなかったが、ひとり、悪鬼のような殺人を繰り返す寺の住職を討つために、寺に乗り込んでそこで死んでしまったのであり、美女は寺の住職の愛人として生きていたのであり、異形の浪人は、身過ぎ世過ぎのためにどうすることもできずに住職の手先となって殺人を繰り返していたのであり、あかんべぇの少女は、実は住職の子で、その住職によって殺されたのである。按摩の老人は、住職が悪行をしていることを承知しながら住職の治療をしていたのである。

 美女の亡霊はおりんに言う。
 「いつもいつも、目先の欲と色恋ばかりを追いかけて、間違いばかりを繰り返していたあたしの人生の、最後に行き着いた先がそこだったのさ。人でなしの情婦(いろ)さ。だからこそあたしは、あの人の魂がこの世にしがみついているうちは、浄土へ行くことができなかったんだ」(文庫版下 321ページ)

 そして、その悪の根源である住職もまた、自分がなぜ人殺しを続けたかということについて、
 「仏などおらぬ。どこにもおらぬ。わしはそれを確かめた。多くの者を殺し、その血をこの身に浴びることで確かめた。・・・わしはいつも問いかけていた。大声で問いかけていた。仏はおわしますかと。おわしますならばすぐにでもわしの目の前に現れて、わしにふさわしい罰をお与えくださいと。しかし仏は現れなんだ。呼んでも呼んでも現れなんだ。現れなんだからわしは殺生を続け、呼び続け、とうとう声が嗄れてしもうたのじゃ!」(文庫版下 306ページ)と言う。

 人間はかくも悲しい存在である。その悲しい存在であることによって悪が生まれる。だから、宮部みゆきは、その悲しみをそっと包もうとするのである。

 それゆえ、この作品の中に、「おりん」をはじめとして、美男の侍の甥である隣家の貧乏旗本の夫婦、「ひね勝」と呼ばれて健気に生きている捨て子の少年、自分が捨て子で苦労したために成功して孤児や貧しい子どもを引き取って育て上げる「おりん」の祖父母、一所懸命に生きようとし、捨てられていた「おりん」を神からの授かり物として愛し、慈しむ「おりん」の両親、などさわやかな人間や健気で懸命に生きている人間を登場させるのが光る。

 物語の始まりが、その「おりん」の祖父の生涯であるのも、よく考え抜かれた心憎い演出であり、物語の最後が捨て子の「ひね勝」を「ふね屋」で引き取って、新しい始まりを伝えるのもすばらしい。

 文章の中で、たとえば、曇り空を描くのに、「今日はあいにくの曇り模様で、空いっぱいに、綿屋が商いを広げている。それもつやつやの真綿でなしに、灰色の古い綿だ。誰かが天の神さまの布団の打ち直しをしているのかもしれない」(文庫版上 158ページ)という表現や、「今夜は夏がもうひと稼ぎしようという腹づもりであるらしく、ひどくむしむしと寝苦しかったから、団扇のつくる淡い風も嬉しかった」(文庫版下 96ページ)という表現があって、作者の豊かな感性と知性をうかがわせる。曇り空を「綿屋が商いを広げている」とか、蒸し暑さを「夏がもうひと稼ぎしようという腹づもり」とかいうことができるような感性は常人にはなかなか思い浮かばないことである。こういう感性は作者の天性のものかもしれないと感銘を受ける。

 人間は悲しく、業深い存在だが、それを温かく包むという作者の姿勢は、本当にすばらしい。

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