時折雲がかかる。ようやく、年一回発行している紀要の編集作業や依頼されていた雑誌の原稿を書き終わり、一息ついたところで、今回はあまり興が乗らない作業だったなあ、と思ったりしていた。物事を熟考して丁寧に進めて行くということからだんだん遠くなっているような気がする。
さて、坂岡真『のうらく侍』(2008年 祥伝社文庫)を読んだので、記しておく。この作者には『うぽっぽ同心』のシリーズがあり、「うぽっぽ」と渾名されるほどのんびりとした性格をして、出世にも金にも縁がないが、人情家で正義感が強く、優れた頭脳と剣の腕を隠し持っている同心を主人公にしたものを面白く読んでいるが、本書も、表題が示すように風采があがらないが凄腕の持ち主である葛籠(つづら)桃之進という奉行所の金公事蔵に与力として勤めることになった人物が主人公である。
「のうらく者」とは、作者の言葉によれば、「脳天気な変わり者で、野心もなければ欲も薄く、ただ波風が立たないように面倒は避け、気働きもしないような、居ても居なくてもかまわない役立たず者」(12-13ページ)ということで、葛籠桃之進は、三百石の勘定方から二百石の奉行所勤めに格下げされて左遷され、しかも、江戸町奉行所は金公事(金銭を巡る民事)を基本的に当事者間で話し合いをすることにしていたために、あってもなくてもいいような金公事蔵勤務になったのである。
葛籠桃之進は、兄が亡くなったために、家督を継いで兄嫁の「絹」を妻女としてもらい、兄の子を養子にし、気の強い母親とどうしようもない遊び人になった部屋住の弟、九歳になるこまっしゃくれた娘の香苗と暮らしをし、家禄が下がったために家人からは白い目で見られている。だが、本人はいたって暢気である。
こういう主人公の設定は、たとえば池波正太郎の原作を元にテレビドラマとして放映された『必殺仕事人』の「昼行灯(ひるあんどん)」と呼ばれて風采があがらず、家族からも小馬鹿にされているが、人の恨みを晴らすという裏稼業では凄腕を発揮する南町奉行所同心の中村主水に通じるものがあると言えるかも知れない。
ただ、本書の主人公は金では動かず、主に、奉行所の上役が絡んだ権力を利用した金欲まみれの権力に主人公の人柄を生かして立ち向かっていくという欲と権力に対する純粋な正義感で動く人物である。正義感といっても、倫理的なことというよりも人の情けを思う心や理不尽に虐げられた人間の側に立つ心と言った方がよいかもしれない。暢気に波風を立てずに風采があがらないままに過ごしていた主人公が、金公事蔵の与力となって、奉行所内の権力者たちのあまりの腐敗ぶりに、次第に正義感を目覚めさせていくのである。そのあたりは、少し単純すぎる気がしないでもないが、事件が権力がらみのために公表できずに裏で処理していくことになる過程など、読み物としては面白い。
事件は、金まみれの奉行所筆頭与力が巧妙に絡んだ前任者の殺害事件(第一話「鯔侍」)、蔵前の札差が奉行所吟味方与力を自家薬籠中の者にしようと企んだ強盗事件に乗って、札差と共に権力欲と金欲に走った吟味方与力が絡んだ強盗事件(第二話「のど傷の女」)、そして、遊び人になっている主人公の弟がからみながら、三年前に無実の罪で自死させられた勘定方の父親と母娘の仇討ちに関わる事件(第三話「無念腹」)の三話である。
事件の中で主人公が強欲な権力に向かいはじめると同時に、日頃は意欲もなく過ごしていた彼の部下たちも、挫折を乗り越えていったり、遊び人になってしまっていると思われた弟が意外な正義感に燃えたり、あるいは第二話「のど傷の女」で登場する強盗に育てられた娘が葛籠家に引き取られて奉公していくようになったり、あるいは新米の若い定町廻り同心が次第に成長していく過程が描かれたりと、物語を面白くする小道具は満載である。
少し量産のきらいがないわけではないが、作者の構成力や筆力は他の作品でも実証済みで、楽しみに読める作品だろうと思う。
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