ひと雨ごとに秋が深まっていく。このところあまりぱっとしない天気が続いているが、今日も曇ったり晴れたりの空模様となっている。やがて季節は晩秋を迎えようとして、樹々が葉を落としはじめている。今頃の季節、葉を落とした大きな欅の枝が空に向かって枝先を伸ばしている姿が好きで、枝越しによく空を眺めていたことを思い起こしたりする。
昨日の午後から夜にかけて、坂岡真『影聞き浮世雲 ひとり長兵衛』(2008年 徳間文庫)を面白く読んでいた。これもシリーズの書き下ろし作品で、巻末の「坂岡真 著作リスト」によれば、前作として『影聞き浮世雲 月踊り』が2008年3月に徳間文庫から出されている。前作はまだ読んでいない。
表題の「影聞き」というのは、作者によれば、依頼を受けて女房の浮気の証拠を掴んだり、人の嫌がることを探り出したりしていく商売のことで、今でいえば興信所のような仕事のことであり、作品の中で直接この仕事をするのは、「どぶ鼠」と渾名されるような見かけも貧相な伝次という男である。しかし、物語の中心人物は、この伝次が出入りし、頼りにしている町飛脚問屋の「兎屋」の主で、一風変わった浮世之助と名乗る人物である。
浮世之助は三十歳を少しばかり過ぎているが、店を長年勤めてきて信頼できる長兵衛に任せて、若隠居を企み、奇抜な格好をしながら遊んでばかりいて、ふわふわして「腑抜け野郎」と思われているが、どうしてどうして、剣の腕はぬきんでており、鋭い明察力をもち、受容力のある懐の大きな男である。
本書は、この浮世之助の大きさが余すところなく描かれていくのだが、読みながら、昔、秋山ジョージが描いた『はぐれ雲』という漫画の魅力的な主人公を思い起こしたりした。『はぐれ雲』の主人公も、女物の着物をだらりと着て、雲のようにふわふわしながらも、明晰力の鋭さと人格の大きさをもった人物で、本書の浮世之助は、その『はぐれ雲』の主人公の再来のようなものである。こういう人物は、やはり特別の魅力がある。作者は、たぶん、秋山ジョージの『はぐれ雲』を愛読したのではないかと思う。
浮世之助の十九歳になる若女房の「おちよ」は、師走の寒空の下で子犬のように震えているところを浮世之助に助けられ、そのまま居着いて、いつの間にか女房になったのだが、自分よりも若い男を追いかけては家出をしてはふられ、何日か経って、しょぼくれてまた帰ってくるということを繰り返している。浮世之助はこれを受け入れて、月々の手当を出して別に住まわせている。「おちよ」は心底浮世之助に惚れているが、ちゃきちゃきした元気者で、男好きでもある。
本書で取り扱われるのは、「第一話 狂い咲き」、「第二話 乱れ髪女生首」、「第三話 ひとり長兵衛」、「第四話 老剣士」の四話であるが、いずれも浮世之助の懐の深さと活躍が光っている作品になっている。
「第一話 狂い咲き」は、養子に入った男が邪魔になった女房のもつ家作の権利を奪い取ろうと画策し、女房が浮気をするように仕掛け、その浮気の調査を「影聞き」の伝次に依頼するところから始まる。話の筋は単純で、足袋屋の女房は、亭主が仕掛けたことだとも知らず、間男を作り、それを種に間男から強請られ、家作の権利まで奪われようとするのである。間男は亭主から依頼されて女房が浮気をするように仕向けたのである。そして、そこには、ただ養子に入った男だけではなく、さらにそれを操る同じ足袋問屋仲間の主がいて、凄腕の用心棒も雇われている。だが、浮世之助らは事の真相を見抜き、彼らの悪巧みを暴いて、騙された女房を助けていくのである。
この話の落ちが、間男が改心の心を見せて、騙された女房と再び一緒になっていくという話で、男と女の不可思議さであるというのが、なかなか味のあるものとなっている。
「第二話 乱れ髪女生首」は、旗本の異常な色欲が絡んだ犯罪を扱ったものである。「影聞き」の伝次は、浮世之助がもつ隠居所に集う仲間である浮世絵などの版元から、興奮すると肌に桜色が浮かび出るという透かし彫りをされた女を描いた枕絵に描かれている女を実際に捜してくれと依頼を受け、堀に浮かんだ女の首なし死体を見に行き、そこで怪しげな侍を見かけてつけてみると、それが腰物奉行を勤める大身の旗本の家来であることがわかっていく。首なし死体は、その旗本家に出入りする商家の女房だという。商家の女房は元島原の太夫で、肌に透かし彫りをもつといわれ、好色な旗本が商家に差し出すように命じたのである。だが、商家は、一計を案じて身代わりを作り、これを殺して女房に見立てたのである。
旗本はそれを知り、商家の主を殺し、その女房も見つけ出して、彫り師と共に慰み者にして殺してしまう。そのことを知った浮世之助が、旗本を捕らえ、花火と共に打ち上げて、旗本の行状を世間に曝すのである。淫靡で陰湿な経過の後で爽快な結末を迎えていくことになる。
「第三話 ひとり長兵衛」は、浮世之助が営む飛脚問屋の帳場を預かる老いた長兵衛の話で、孤独に暮らす長兵衛が路上で倒れ、それを助けた娘が絡んだ詐欺事件に巻き込まれるのである。病が癒えてお礼に訪ねたところ、娘は病身の父親と貧しい暮らしをしていて、借金のかたに売られるという。長兵衛はこつこつと貯めた金を渡して娘を助けようとする。そして、ある夜、その娘が訪ねて来て、もってきた団子を食べて長兵衛は眠らせられる。その隙に、娘の父親を名乗った男たちが飛脚問屋に押し込み、蔵にあった大金を盗んでいくのである。完全に騙されて店の大金を盗まれた長兵衛は、責任を取って死のうとする。
だが、事柄を察知していた浮世之助は、蔵にあった大金をすでによそにやっており、死のうとする長兵衛に、「騙すよりも騙される方がいい」といって、長兵衛を騙した娘が長兵衛を助けた気持ちに嘘はないから、謝りに来るはずで、それを待とうと語りかける。
長兵衛を騙した娘は、浮世之助の言葉通り、自分に親切にしてくれた長兵衛を思い、謝りに来て、詐欺と強盗を働いた一味のことを浮世之助に話し、浮世之助たちは強盗たちを糞まみれにしていくのである。娘は、十歳の頃に火事で焼け出され、悪党に拾われて手管として使われていただけであった。そして、事件が決着した後で、一人暮らしをしていた長兵衛と一緒に暮らすことになるのである。
この話の中で、病が少し癒えた長兵衛が店に現れたときに、浮世之助が、いつも長兵衛が坐っていたところに長兵衛を坐らせ、「な、おめえの代わりはいねえのさ。おめえは家族なんだよ」(208ページ)という仕草と言葉が光っている。人には居場所がいるのだから。
「第四話 老剣士」は、理不尽に息子を殺された老いた道場主が、息子の無念を晴らそうと命をかけているのを知った浮世之助が、これを助けていく話である。常陸府中松平家の藩の剣術指南役である仇は、藩主の午前試合で、前日に道場主の息子の手が仕えないように手を打ちたたいていた。息子は手が使えないにも関わらず武士として公然と試合に臨み、そこで打ち殺されたのである。そこには、藩の実権を握ろうとした江戸家老の欲が絡んでいた。
忍従のうちに暮らしていた老剣士は、息子の死に企まれた思惑があったことを知り、ついに、剣術指南役に決闘を望むが、相手は多数の人数を用意してこれをなきものにしようとしたのである。ふわふわした浮き雲のように見えても、その実、及びもつかないような剣の腕をもっていた浮世之助は、老剣士の苦闘を見て、これを助け、ついでに、彼の隠居宅に集う仲間に頼んで藩主である松平播磨守のお出でを願うのである。そして、松平播磨守の英断によって、すべてが不問にふせられることになり、浮世之助のことを面白いと思って、そのうちに浮世之助の隠居宅まで遊びに行くとまで言い出したりして、一件が落着していくのである。
この作品は、登場人物たちの会話で物語が進展していく。その会話の妙があって、明晰な頭脳と優れた剣の腕をもちながらも、ふわふわと生きている主人公の人格の大きさと、彼を取り巻く人物たちの会話が生きて雰囲気を醸し出すように描かれている。その意味では、坂岡真は、人の情を描き出す作品が多いが、この作品もそうで、読み易い娯楽時代小説の一つと言えるだろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿