昨日まで晩秋の気配が漂いはじめた仙台にいた。こちらに帰宅しても木枯らし1号が吹いて、急な寒さに思わず身震いしたが、今日は爽やかな秋空が広がっている。季節はこうして巡っていくのだろうなと、思いながら、また、山積みしている仕事を横に見て、ゆっくり時を過ごそうと考えたりしている。
往復の新幹線やホテルで、いくつかの感動的な小説を読んだが、宇江佐真理『夕映え』(2007年 角川春樹事務所)もそのひとつだった。巻末の書註によれば、これは2005年12月から2007年5月にかけて連載された新聞小説をまとめたもので、激動していく幕末の動乱から明治の初めにかけての江戸庶民の姿を、作者らしい温かい筆致で描き出したものである。
社会と歴史の表舞台で活躍した人物に焦点を当てる歴史時代小説はたくさんあり、特に幕末期に生きた人物が傑出した人物であると描かれることは多いが、歴史の表舞台にはならなかった江戸で、しかも歴史と社会に翻弄されながら生きる小さな一膳飯屋の夫婦とその家族の姿を、彼らが営む一膳飯屋を舞台にして描き出すところに、作者の凛とした姿勢があり、拍手喝采を贈りたいような作品だった。
蝦夷松前藩の栂野尾右衛門(とがのお こうえもん)は、商人とつるんで私腹を肥やしていた家老のことを藩主に告げるために江戸に出てきたが、家老の先手によって謀反者の汚名を着せられ、脱藩者とされ、意気消沈して、通っていた一膳飯屋「福助」の出戻り娘と結婚し、侍を捨てて名を弘蔵と改め、一男一女をもうけて、奉行所の同心から手札をもらって岡っ引きをしている。
弘蔵の妻で、一膳飯屋の「福助」を切り盛りしている「おあき」は、一度、深川の船宿に嫁いだが、引き出しから一両の金がなくなる事件で、よく仕えていた姑や小姑に盗っ人呼ばわりされ、その金が仏壇の後ろから出てきた時も、「昨日、今日嫁に来たお前が生意気な口を利くんじゃない」と言われ、夫も「ここは堪えてくれ」と言うだけだったことから、婚家を飛び出し、両親が営んでいた一膳飯屋の福助に出戻っていたのである。「二度と嫁になど行くものか」と思っていたが、福助に通っていた弘蔵に惚れられ、両親も弘蔵の真正直なところが気に入って、弘蔵が福助に転がり込む形で夫婦になったのである。
二人に間に出来た長男の良介は、13歳の時から商家に奉公に出たりしたが、尻が落ち着かずに、あちらこちらを転々としながら、ときおり金を無心に帰って来ていた。娘の「おてい」は、母親を手伝って一膳飯屋で働いている。
「福助」には、近所の者や仕事を終えた職人たちが集まって酒を飲みながら世間話に興じているが、激動していく社会の流れと歴史が、その「福助」での世間話として物語られていく。嘉永6年(1853年)のペリーの来航(黒船騒動)から安政の大地震(安政2年-1855年)、安政7年(1860年)の桜田門外の変から尊皇攘夷の気運の高まり、討幕運動、そうした時代の変遷が「福助」での庶民の世間話として織り込まれていくのである。
考えてみるまでもなく、出来事の詳細を知ることのなかった江戸の庶民にとって、困窮してきた生活の実感と瓦版、あるいは一膳飯屋などでの世間話が情報源であったに違いなく、世相の動きに無関心ではいられなくなっていたのだから、話題はいつもそうした世の中の流れに対する不安だっただろう。彼らは彼らなりに社会について論じざるを得ないし、そうした会話の展開で時代背景が織りなされていくというのは、庶民の立場に立った当然の光景だっただろう。この作品は、そういう構成を取っていることで、いわば、庶民の幕末史にもなっている。
しかし、人々にとっては時代と社会の流れに翻弄されながらも、個人の日々の営みもあり、歴史もある。弘蔵と「おあき」の娘「おてい」は、青物問屋の息子に惚れているが、息子には親が決めた許嫁があった。両親が死んでひとりぼっちになった娘を友人の青物問屋の主が引き取って育て、やがて息子の嫁にするつもりだという。だが、青物問屋の息子は、その娘の気持ちも考えずに、「おてい」と所帯を持ちたいと言い出す。弘蔵も「おあき」も、そんな青物問屋の息子が気に入らず、「おてい」も「人を悲しませたくない」といって諦める。弘蔵と「おあき」の家族は、そんなふうに人の「情」を大事にする家族なのである。
だが、青物問屋の息子の許嫁は祝言が間近に迫って入水自殺してしまう。様々な思惑が「おてい」を苦しめるが、後で、許嫁が妻子ある店の番頭に惚れてその子どもを身ごもっていたことがわかり、青物問屋は改めて「おてい」に結婚を申し込むのである。そして、見切りをつけていたとはいえ、どうしても息子に惚れていた「おてい」は、その息子と所帯を持つことになるのである。
他方、長男の良介は、浮き草のような生活をしながらも脳天気な性格で、伊勢への抜け参りに行ったりして親に心配をかけどうしだ。だが、弘蔵と「おあき」はそんな息子を大切に思っている。江戸では、薩摩藩士による横暴が繰り返されたりして、尊皇攘夷の名を借りた強盗や押し込みが続き、状勢はますます不安になっていく。やがて、大政奉還(1967年)が起こり、江戸幕府が崩壊し、1986年の正月に鳥羽伏見の闘いが起こり、徳川慶喜が江戸に逃げ帰り、春に江戸城の明け渡しが行われ、江戸は騒然とした空気に包まれていく。そんな中で、息子の良介は、自分は侍の子であるということで、彰義隊に入る。そして、上野戦争で敗北し、親友の首をもって逃げ帰ってくる。
弘蔵と「おあき」は親として気が気ではない。「福助」にも、敗残兵狩りで薩摩藩士が襲ってきたりする。良介は弘蔵の配慮で松前に逃げることにするが、良介が惚れていた娘が薩摩藩士に手籠めにされたことで、薩長連合と闘うことを決心し、榎本武揚の軍艦に下働きとして乗り込み、函館に向かう。松前藩は弘蔵の故郷でもあった。だが、祖父母を訪ねようとしたときに、松前藩士に襲われて殺されてしまう。弘蔵と「おあき」は、嘆きと悲しみのどん底に陥れられる。
時代は明治となり、江戸は東京となって、版籍奉還が行われたりして目まぐるしく変わっていく。世相は一段と変わっていく。だが、暮らしは変わらず、娘の「おてい」にも子どもができたりする。そんな中で松前の弘蔵の父が危篤であるという知らせが届き、良介の墓参もかねて弘蔵と「おあき」の夫婦は松前まで行くことにする。
松前で、弘蔵の父親や家の者から、「おあき」が一膳飯屋をしていることでなじられたり、弘蔵に松前での役職の話なども起こったりするが、二人は夫婦として江戸で変わらずに暮らしていくことの決心を改めてしていくのである。やがて、孫も大きくなり、弘蔵は奉行所の勧めもあって、1971年(明治4年)に警察制度が出来たときに邏卒(らそつ-巡査)になるが、勤めの最中に倒れ引退し、二人は、相変わらず「福助」に来る客と世相に一喜一憂しながら過ごしていく日々を送るのである。
時代と社会に翻弄されながらも、ささやかな日々の暮らしの中で生命を静かに全うしていく姿が松前の夕映えの景色のように描かれ、情感のあふれる作品だとつくづく思う。この中で、主人公のひとりである「おあき」が、おでんの種を銅壺にたしながら、「何があっても自分はこうして毎日毎日、商売の仕込みをして、時分になれば暖簾を出して店を開けるだろう。子どものため、亭主のために飯の仕度をし、洗濯や掃除をするだろ。その他に自分ができることはない。世の中の流れに身を置くしかないのだ。落ち着いた世の中にして欲しいと誰に訴えたらよいのだろう」(94ページ)と思う言葉があるが、それがこの作品の神髄で、そういう人間の姿を描き出すことは極めて大きな意味がある。翻弄されるが、したたかに、しかも愛情を持って温かく生きる、これまで宇江佐真理が描いてきたそういう人間の姿がこの作品には、たくさん盛り込まれているのである。
個人的に、歴史や物事を考えるときに、わたしはこういう視点は欠いてはいけないと思っている。幕末史がこういう日常の形で描き出されたとことには、極めて大きな意味がある。しかも、情のある小説として人間が描き出されるのだから、この作品には拍手を贈りたい。
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