2009年10月12日月曜日

諸田玲子『あくじゃれ瓢六』

 大江健三郎の作品は、次に、『燃え上がる緑の木』の続編でもある『宙返り』を再読して見ることにするが、精読するにはちょっと「しんどい」ので、昨日、図書館から借りてきた諸田玲子の『あくじゃれ瓢六』(2001年 文藝春秋社)を読み始めた。以前、この作品の続編を読んでいたので、面白く読み進めている。小説は、面白くなければならないと、わたしは思う。諸田玲子は、なかなか感覚が鋭いし、描写も巧みである。登場人物の設定も嬉しくなるような設定である。

 この作品の最初に収められている「地獄の目利き」は、登場人物を自然に紹介する設定にもなっているが、かつて岡っ引きをしていた伊助の娘「おみち」が殺され、賭場で捕縛されて大牢に入れられていた「瓢六」(元は、本名六兵衛、長崎で古物商「綺羅屋」をし、唐絵目利きで、阿蘭陀通詞見習いもした地役人、蘭医学、天文学、本草学の心得もあり、本物と偽物を見分ける、芸者の「お袖」が瓢六にベタ惚れ)を与力菅野一之助(この人物もまた特徴があって、飄々とした中で核心をつく指示を与える人物として面白い)の命によって、同心篠崎弥左衛門(この人物は、この作品の主人公の一人で、瓢六とは対照的にいかつい顔をし、真面目で、不器用であるが、瓢六からは本物の人間として見られている)が獄から出し、事件を解決していくというものである。

 事件が決着を見た後、この「地獄の目利き」の最後で、篠崎弥左衛門の心情が述べられる。「瓢六もお袖も、何があってもへこたれぬところは、とうてい自分の相手ではない。いや、一番の上手はその二人を利用した菅野さまかもしれぬ。・・・・・吐息をもらし、粕谷にうながされて門をくぐる。詰所へ急ぐ弥左衛門の肩に、在りし日のおみちの幻か、白梅の花びらが舞い落ちた。」と結ばれている。

 この結末の描写は、真に心情に訴える描写であるように思われる。こういう所が時代小説の良さではないだろうか。諸田玲子は、大仰に構えることなく、市囲で生きなければならない人々の悲しみを描く。

 ところで、わたしが住むこの場所は、多摩丘陵を東急電鉄が開発した新興(といってもすでに半世紀ぐらいたつが)の都市で、人工的な匂いが強い街並みをもった所で、周囲の騒音も激しく、洗濯物もすぐに黒くなるほどの空気の汚れがあって、読書や思索には全く不向きな場所であるが、どちらかと言えば仕事上やむをえず住んでいるのであり、それが幾ばくかの鬱々とした精神状況に影響を与えているだろうとは思う。今日も隣でビルの改修工事が喧しく行われている。

 ただ、読書のための書物は、ここから電車で10分ほどの「あざみ野」という所にある横浜市立の山内図書館が利用できて便利である。一度の借り出し冊数が6冊で2週間という限定はあるが、少なくとも2週間に一度は散歩がてらに出かけることができるので、その点では立地条件を有効に利用していると言えるかもしれない。「あざみ野」には、好みのコーヒー豆を販売している「神戸珈琲物語」というお店が駅構内にあって、それも便利である。この店は従業員の対応が丁寧であって、気に入っている。

今日は、曇りがちな空の下で、洗濯をし、日曜日のための準備を午前中ずっとしていた。階下では「アルコール依存症」の人々のための集まりが行われていた。夜、また、ビールを飲みながら『あくじゃれ瓢六』の続きを読むつもり。今飲んでいるビールはキリンの「秋味」という銘柄。

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