2009年10月31日土曜日

諸田玲子『仇花』(2)、大江健三郎『二百年の子供』

 先週来引いていた風邪がようやく治りかけてきた。少し咳は残っているが、比較的楽になった。ただ、回復力も落ちているので、何をするにも、余計に面倒くささを感じている。夜中に何度も目が覚めて困る。空気清浄機と加湿器と少しの暖房をつけて毛布にくるまって眠った。午前中、穏やかで老貴婦人の相貌をもたれているSさんがオルガンの相談に見えた時も、寝間着のままでボーとしていた。もっとも、家にいる時は、いつも、浴衣の寝間着かバスローブのままではある。

 昨夜、諸田玲子『仇花』の残り十数ページを読む。家康の側室「お六」の結末は、一説による日光参詣での頓死ではなく、「神隠し」を装って、一切を捨てて、慕い続けてきた千之助と共に世俗へ帰る計画が進行されているところでおわる。他方、江戸末期の「お六」の方は、桜田門外の変などの世相が混乱する中で、「自分は臆病者ゆえお六一人を守るのが精一杯だ」という亭主の千之助の言葉を受けて、「世の中なんかどうなろうと知ったことか。男は天下を取りたがる。山を崩して、海を埋め立て、お城を建てて・・・。あたしはいらない。高望みなんかするもんか。うだつのあがらぬ臆病者の亭主でたくさん。何度生まれ変わっても、やっぱりこの、ろくでもない裏店暮らしがいい」(389ページ)と思う。

 この江戸末期のお六の思いこそが、この作品の主題であり、そして、それこそが人間が生きることの大きな意味に違いないと、諸田玲子は語ろうとするのではないか。それこそが大事だ、とわたしは思う。

 諸田玲子は、人間が、欲望と絶望をもち、願いと諦めをもち、どうすることもできない状況に生きなければならない姿を赤裸々にする。それが、この作者の優れたところだとあらためて思う。

 昨夜、眠れぬままに大江健三郎『二百年の子供』(2003年 中央公論新社)を一気に読む。大江健三郎は、1994年にノーベル文学賞を受賞し、1995年に『燃え上がる緑の木』が最後の小説として完結したが、1999年に、1995年に地下鉄サリン事件を引き起こしたオウム真理教の事件を受けて、『宙返り』を出し、以後の作品を自ら「後期の仕事(レイト・ワーク)と呼んでいるので、この作品は、その「後期の仕事」の中に位置づけられる作品である。この作品には、「2003年1月4日~10月25日読売新聞土曜日朝刊連載」の旨の奥付があるし、また、「永い間、それもかつてなく楽しみに準備しての,私の唯一のファンタジーです」というカバー書きがある。しかし、だからと言ってこれが「子ども向けのファンタジー」というわけでは決してないし、ある意味では、大江健三郎の作品はすべて、深い思想の施策をもったファンタジーであるに違いない、とわたしは思っている。

 物語は、作家で精神的な不安定さを抱える父親が母親と共にアメリカの大学に行くことになり、残された三人の子どもたちが、夏休みに、父親の故郷である四国の「森の家」で、故郷の伝承に従って、「童子」として時空を越えて冒険をするという話である。三人の子どもたちは、それぞれ、個性的で、長男の「真木」は、重い精神障害を抱えた、しかし、実直で、音楽に深い関心を示し、絶対音階をもつ子どもであり、長女の「あかり」は思いやりの深い、しかし、しっかりと三人をまとめていく子どもであり、中学校2年生として設定されている。次男の「朔(さく)」は聡明で、思慮深い子どもであり、一つ人との事柄をきちんと理解しようとする。

 初めに、この三人の子どもたちの特徴が、大江健三郎らしい仕方で、それぞれに紹介されている。それは、四国の「おばあちゃん」が2年前に最後に訪ねてきた時のお土産のお返しとして「いま好きな言葉」を言ってもらうという仕方で、長女の「あかり」は空色の6本の色鉛筆のお返しとして、「あんぜん」と言い、次男の「朔」は、植物図鑑のお返しとして、「むいみ」と言う。また、長男の「真木」は、おばあちゃんの描いた水彩画の入った紙箱のお返しとして「ながもち」と言う。

 こうした展開が大江健三郎らしいというのは、「言葉」が「実存」であるということ、また、人は実存の言葉を使うべきだということが明瞭に示されるからである。三人の子どもたちの言葉は、「実存そのもの」を表すものとなっている。これは、大江健三郎の作品すべての特徴でもあるし、それが「読みにくい」との印象も与えるものではあるが。

 物語は、おばあちゃんが「真木」にくれた水彩画を基に、おばあちゃんが亡くなった後で、三人の子どもたちが四国の「森の家」で、水彩画に描かれた所と人に時空を越えて会いに行くことで展開されていくが、ある意味で、この作品には大江健三郎がこれまで考えてきたことが見事に凝縮されていると言っても過言ではないような気がする。

 物語の一つ一つの場面は、それぞれ深い意味をもっているし、また、教育的でもある。初めに「真木」が、伝説が残されている「シイの木のうろ(「夢見る人」のタイムマシンと呼ぶ)」の中で眠り、亡くなったおばあちゃんに会いに行く。それは、おばあちゃんが亡くなる前にした「あいさつ」の言葉、「元気を出して死んでください!」と言う言葉を、おばあちゃんが亡くなる前にもう一度言ってくださいと言われた時に言うことができなかったので、その言葉を言うためである。

 言葉が深い意味をもつことがある。否、言葉は深い意味をもつべきで、「元気を出して死んでください」と言うのは、本当に深い意味をもつ言葉である。大江健三郎は、まず、そのことを語るのである。

 三人の子どもたちは、次に、「助けあって」(これもおばあちゃんが残した大事な言葉として使われる)、故郷の伝説の始まりとなったメイスケさんの事件に歴史を遡って行く。1864(元治1)年にメイスケさんを中心にして起こった「一揆」の場面に行くのである。「メイスケさんの伝説」は、大江健三郎の作品のいたるところで登場する。

 その場面に始まりのところで、国民学校の三年生だったパパが描いた「じつにひどい絵」が紹介される。それが「谷間と森」を描き、村を作った「大女」とメイスケさんの絵で、「世界の絵」と題されている。

「-「世界の絵」は日本列島を描いて・・・朝鮮半島も、台湾もカラフトの半分も入れて・・・そこから世界じゅうに「日の丸」が広がっている。当時はそれで正解だったんだ。
 パパは、谷間と森の言い伝えを描いて、先生を怒らせたのね。」(57ページ)

 それは、「世界とは何か」という問題への実存的な解答である。世界とは、地理上の広がりや物理的な宇宙を指すのではない。世界とは、常に、自分が生きている環境とその環境を作って来た歴史にほかならない。大江健三郎は、若い頃、サルトルの影響を受けているが、世界を実存的にとらえるという視点は、彼の全作品に通じている。人にとって、世界とは決して抽象ではなく、自分の周りの具体的な時間と空間の広がり、そこにある存在との関わりにほかならない。

 「シイの木のうろ(「夢見る人」のタイムマシン)は、そこで眠る子どもたちが「心から願う」ことで、子どもたちが見たかった世界へと連れていく(134ページなど)。そして、子どもは、「心から願う」ことにかけて、大人とは比べものにならない力をもっている。「心から願う」と言うことは、大江健三郎が使う「祈り」である。大江健三郎は「祈りの力」を大事にする。それがこの物語を構成している。

 146ページに、「父が、古い言葉に出会ったら、新しい言葉でどういうか、また外国語ではどうか確かめるのがいい、といった。朔はそれを守っているわけなのだ」という言葉がある。それは、言葉による経験を自己の存在の確証として自らのものにしていく精神的作業にほかならない。大江健三郎は、そういう精神的作業を大事にする作家でもある。おそらく、大江健三郎自身がそうした作業を繰り返してきたのだろうと思う。言葉には、過去と未来と広がりがある。それらを自分のものとして、自己の存在を確証していくのには、そうした作業が必要なのだ。大江健三郎は、そのことを、さりげなく、しかも教育的に語るのだろう。

 163-164ページには「復元力」という言葉が使われる。「人間にもさ、「復元力」の大きい、小さいがあると思う」という「朔」の言葉が記されている(164ページ)。これもまた、大江健三郎が自らの主題として考え続けてきた「恢復・回復」ということのひとつではないかと思う。172ページには「新しい人」という言葉も使われる。「新しい人」は、『燃え上がる緑の木』や『宙返り』で重要な意味をもつ概念である。「『新しい人』は、『新しい言葉』から作られる」という。それは、三人組が日本で最初に留学した八歳の女の子(三人組の先祖のひとり)に会いに行こうとする場面で用いられる。「新しい人」は、ここでは明らかに「未来を切り開く人」である。その「新しい人」については、273ページでも、ヴァレリーが引用されて、「ひとり自立しているが協力し合いもする、本当の『新しい人』になってほしい」と父親が朔にファックスで伝える。

 大江健三郎が、もし、この作品を子ども向けに、つまり、教育的に、あるいは啓蒙的に書いたのだとしたら、それは、お互いに助け合い、協力しながら、心から願いをもち、「自立しているが協力もしあう」新しい人として生きること、つまり、未来を自分で切り開いていく、そういう人間として生きるようになってほしいという願いを伝えるためだろう。

 「私らの大切な仕事(傍点)は、未来を作るということだ。私らが呼吸をしたり、栄養をとったり、動きまわったりするのも、未来を作るための働き(傍点)なんだ。ヴァレリーは、そういうんだ。私らはいま(傍点)を生きているようでも、いわばさ、いま(傍点)に溶け込んでいる未来を生きている。過去だって、いま(傍点)に生きる私らが未来にも足をかけているから、意味がある。思い出も、後悔すらも・・・
私が「ピンチ」だったのは、自分のいま(傍点)に未来を見つけないでさ、閉じてしまった扉のこちら側で、思いだしたり後悔したりするだけだったからじゃないか?もう残されているいま(傍点)は短いが、そこにふくまれる未来を見ようと思い立ってね。
それが「ピンチ」を脱け出すきっかけになった。」(276-267ページ)

とも言う。この作品は、そうした意味で、短いファンタジー仕立ての物語ではあるが、大江健三郎の集大成のひとつではないかと思ったりもする。大江健三郎は、自分の歩みを一つ一つ深く検証しながら作品を書くので、いつも、彼の作品はその時点での集大成であるとも言えるが。

 これを書いている途中で、近所に住まわれているI夫人が、わたしが体調を壊しているのを聞きつけて、夕食を差し入れに来てくださった。わたしは、大江健三郎の『二百年の子供』に没頭していて、目の前の窓越しに立たれるまで気がつかなかったが、好物の「梅干し」を時折持って来てくださったり、分別ゴミを処理してくださったりする74歳の夫人である。ここに転居してきた時からお世話になっている。いつも毅然とされているが、そういえば、わたしのまわりの老婦人は、どなたも毅然とされている方が多い。時折、その中で、わたしは自分の人生が愚か者の人生であったことを感じたりもする。

 今日は天気も良いので、外を少し歩き、青葉台まで出て、スターバックスでコーヒーでも飲もうかと思う。

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