2009年10月12日月曜日

はじめに

 暇々にまかせて、正直なことを言えば、眠りに入る前の軽い準備運動のようにして、司馬遼太郎、藤沢周平などから始まった時代小説の乱読もかなり多くなり、秋風が吹き始めた日、少し読書日記なるものをつけてみようかと思い立って、パソコンを開くことにした。

 もう一つの理由を強いて挙げるとすれば、この晩秋に「大江健三郎とキリスト教」というテーマで少し話をしなければならなくなり、改めて大江健三郎の小説を読み返しつつノートを取っていたのだが、それがかなりの量になって、これはやはり記録にとどめておきたいことだと思ったし、パソコンで処理した方が早いことに気がついて、それならいっそのこと、結局、毎日何かを読んでいるわけなのだし、精神的な影響もあるわけだから、自分の精神作業の軌跡を知る上でも、記録にとどめた方がよいと思った次第である。

 ここに掲載しているのは、もちろん、そのすべてではないが、この世の生を終えた時に、その不在をほんの少しでも淋しく思ってくれるごく親しい友人たちと、「へぇ、彼はこんな本を読んで、こんなことを考えていたんだ」ということが分かち合えればいいと願ったからである。

 それは、言ってみれば、わたしのささやかなナルシズムであり、自己顕示欲であり、自己満足ではあるが、度を越したそれらの心情は醜悪であるとしても、ひとが生きる上ではゆるされてもよいことではないかと思っている。

 大江健三郎の『万延元年のフットボール』(1967年 講談社)は、昨日読了し、ある程度のノートも取った。彼らしい独特の表現と心理描写に満ちているし、一つの「神話」のようなものに近いものではあるが、妙にリアリティをもった作品でもある。「人間の回復がどこで行われるのか」という重いテーマのゆえかもしれない。しかし、主人公の「根所蜜三郎」(「根所」という名前には、文中の言葉で言えば、「魂の根が集まる所」という意味が、やはり、あるだろう)の回復自体は成し遂げられないのではないかと思ったりする。結末は、和解と許容であるにしても。

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