天気予報では秋晴れだが、目覚めた時は雲が広がっていた。昨夜、ビールを飲んでそのまま眠ってしまい、1時半ごろに目覚めた。昨夜は、それから明け方まで、ずっと『宙返り』を読んでいた。昨日、今日と、いくつかの委員会があったり、実務的なことが多かったりして、どうも集中できないでいるし、時間も足りない。こういう日常的な実務は、仕事上処理していかなければならないにしても、なんと意味のないことだろうと思ったりもする。しかし、人生はまた雑務の連続でできているのだから、手を抜くこともしないでいる。
さて、『宙返り』の「第13章 追悼集会のハレルヤ」の続きであるが、この集会の中で、「宙返り」後も信仰を保っていた女性グループのリーダーである重野夫人が、師匠(パトロン)の説教に答える場面が描かれている。これも師匠(パトロン)の「宙返り」と第二次世界大戦後の天皇の「人間宣言」とを並べて、意味を持つものと思われるので、抜粋しておく。
「(師匠-パトロン-の「宙返り」は、)神の子から人間に戻ったというよりも、もともと普通の人間だったのだということですが、それこそ師匠(パトロン)の「人間宣言」ということではなかったでしょうか?ラジオのかわりにテレヴィで、滑稽なほど愛嬌のある身ぶり手ぶりでしっかり「人間宣言」されましたよ。
そこで私は、師匠(パトロン)の「宙返り」を理解したいという一心で、あらためて天皇様の「人間宣言」を見直してみようとしたのです。「宙返り」の後、若い方はみなさんエモーショナルになられたけれども、私はそういう年でもございませんでしたしね。そしていろいろ考えて私の辿りつきました結論は、こういうことです。
天皇様は確かにあの時「人間宣言」をなされたけれども、この国で、この国の人間の心で、天皇様のことはなにも変わりはしなかったのじゃないか?長くなりますから詳しいことははしょりますが、そこで私は師匠(パトロン)のことも次のように考えたのです。師匠(パトロン)はいま、自分は神に直接繋がる者ではない、といわれた。そうであれば、これはどうにも仕方ないのではないか?これから師匠(パトロン)は、神から切り離された師匠(パトロン)として生きられるのだ。私は仲間の人たちと、神と直接繋がっていない師匠(パトロン)を信仰し続ける者となろう。そのように覚悟いたしたのです。」(368-369ページ)
「今日の説教で、あらためて自分は神と直接繋がる師匠(パトロン)に戻ったと軽々にはいわれなくて、本当によかった、と思います。苦しみに苦しまれた師匠(パトロン)が、私たちのところに戻って来てくださって、活動の再開を呼びかけていられるのです。私たちがやはり苦しい十年の後でお迎えするのに、これ以上ふさわしい教会のあるじはいられないと思います。いまあられるままの師匠(パトロン)でいいのです。」(369ページ)
こうして、「宙返り」後の師匠(パトロン)の新しい出発は受け入れられていくのであるが、天皇の「人間宣言」がいったいどんな意味を持つのか、それは、この国の形を考える上では極めて重要な問題でもあるので、この女性リーダーの発言として記されていることは、その後の「新しい教会」の展開が述べられる上でも重要な意味をもつだろう。
「第14章 まぜ、いま師匠(パトロン)は帰って来たか?」は、追悼集会後の記者会見をとおして、かつての急進派のひとりである古賀医師の見解を述べることによって、案内人(ガイド)を死にやった側としての急進派もまた、この「新しい教会」の出発に参与していくことが述べられ、「宙返り」後に、新しく仲間となった「立花さんと知的障害をもつ弟(森生さん-この弟が後で重要な役割を果たしていくことになる)」の受容が述べられる。
この「立花さん」の言葉で、「世界の終わりということも、イエスが十字架につけられて復活されたことと同じに、歴史の時間のある一点で行われたことであると同時に、私たちがつねにそれとともにある出来事だと思います」ということが述べられている。これが、終末思想の基本的視点であるということも興味深い。
「第15章 積年の疲労」は、新しい案内人(ガイド)となった木津の抱えていた癌が進展し、一年ほどの余命となったことが語られ、それは、ある意味では、個人的終末を迎えた時の一つの展開であろう。「第16章 臨床家」は、かつての急進派に属していた古賀医師のこれまでの歩みが語られたもので、自閉的症状に陥り、そのことによって母親を死に追いやった経験を持つ古賀医師が、いかにして、かつての師匠(パトロン)と案内人(ガイド)の信仰に入り、また、その「宙返り」を経験したのかが述べられる。
ここで引用されている二つの詩
「はかなしとまさしく見つる夢の世界をおどろかで寝るわれは人かは」と
「おのが身のおのが心にかなはぬを思はば物を思ひ知りなむ」
は、両方とも和泉式部の歌である。両方ともおそらくは恋歌であるが、大江健三郎は、これを自閉的になった古賀医師へのどうにもならない悔しい思いをもつ母親の心情として用いている。
この古賀医師が「宙返り」前に師匠(パトロン)が語ったこととして次のように述べている。
「この堕ちた世界で決着をつけないかぎり、どこに逃れても魂にとって窮境は続く。ここから逃げだすことが救いであることはありえない。そのように、きみの魂は、肉体を備えたきみに声をかけているのだ。・・・
魂の声を聞きとる者がやらねばならないのは、この世界が堕ちた世界であり、人間は汚れた存在だと目覚めて、つまり悔い改めて、この堕ちた世界の終わり、時の終わりを迎えるよう務めることだ。既にその魂の声を聞く者らが多数現れて来ている以上、世界の終わり、時の終わりが遠いはずはない。むしろ、それはごく間近に迫っている。悔い改めた者としてその到来を準備し、率先してそれを迎え入れることが、すでに魂の声を聞いている者の役割なのだ。そのように覚醒している人間は、きみひとりではない。きみのように大きく痛ましい苦しみをへてきた人間こそ稀であるにしても、私はそのように目覚めた人間の教会を組織している。」
おそらく、この思想は『燃え上がる緑の木』でも展開された思想で、終末論とそれを生きる人間の姿の一つの類型として大江健三郎が描き出すものであろう。その意味では、「宙返り」と「終末の遅遠」は、決して無関係ではない。
物語は、いずれにしろ、こうして「新しい教会」の構成メンバーがそろい、いよいよ新しい出発の段階に入る。上巻がここで終わっているというのは、上巻が「新しい教会」の準備の書であるということだろう。これは、心憎いまでの演出でもある。
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