2009年10月17日土曜日

大江健三郎 『宙返り』(1)

 肌寒い日になった。風邪が少しひどくなったかもしれない。今日は煙草を買いに出る以外には外には出るまいと思う。肉体が養生を強いている。おまけに、竹トンボのように空を舞うヘリコプターと地上を走る車、人工的な騒音が今日も満ちて五月蠅い。

 このところ体が重くて「だるさ」を感じているが、すべてのことが「面倒」と思えるようになって久しいのだから、これはいつものことだろう。何かをするというのは、この面倒くささを乗り切って行われるのだろうが、今のところ、面倒くささが勝っている。とは言え、今日も『愛することと信じること』のデジタル化の作業をし、日曜日の話のために考えた「後の先」ということを考える。

 さて、大江健三郎『宙返り 上下』(1999年 講談社)をゆっくり読み始めた。これは『燃え上がる緑の木』の後、新興宗教教団である「オウム真理教」事件が実際に起こったために、『燃え上がる緑の木』で語られている宗教教団の形成と崩壊を補完する形で、急遽、その続編として発行されたものである。もちろん、『宙返り』は、それ自体独自の物語となってはいる。大江健三郎は、彼の故郷である四国の愛媛県喜多郡大瀬村を下敷きにした閉鎖社会での共同体の、いわば「神話」を物語って来たのだから、その共同体の姿を「宗教教団」として描き、そこでの社会と人間の問題を語るのは、ある意味で、もっとも彼らしい設定だと言えるかもしれない。

 ただ、彼はいつも「知識人」を取り上げる。それは饒舌な論理を展開する上で必然的なことではあるが、物語の構成と視点と言うことからいえば、同じような宗教教団(実際は大本教)の形成と崩壊を物語った高橋和巳の『邪宗門』(1966年 河出書房新社)や東北地方で独立国家を形成しようとした井上ひさしの『吉里吉里人』(1981年 新潮社)の物語性は大江健三郎の『燃え上がる緑の木』にも『宙返り』にもないと言えるかもしれない。

  『宙返り』は、「犬のような顔の美しい眼」と題する一つのエピソードから始まる。それは、アメリカの学習機材会社と日本の文具輸入会社が共催したプラスチック片で造る未来風景の公募展での出来事であり、審査を勝ち抜いてきた少年の未来の都市模型の作品が、不幸にも舞台で踊っていた少女の股間に挟まり、どうにもならなくなった状態の時、その少年が長い間かけて制作してきた自分の作品を叩きつけて壊す、という出来事である。

この少年と少女が、やがて物語の重要な役割を果たしていくが、この序章のエピソードが、これから展開される宗教教団(共同体)の崩壊を象徴するものとなっている。未来は壊されるのである。

 最初に全体の構成を示すとも思われるエピソードを入れるというこの文学手法は、日本の小説では珍しいと言えるかもしれない。ただ、欧米文の文章構成は、最初に重要なことを述べるのだから、大江健三郎は、そうした文章構成を意識して、この長い物語を描いたとは言えるのではないだろうか。

 「無邪気な青年」と呼ばれる「「荻」という青年は、ある国際文化交流財団で働く青年であるが、仕事上、かつて宗教教団の指導者であった「師匠(パトロン)」と「案内人(ガイド)」と知りあう。そこには、成長した少女(ダンサー)がいて、その「案内人(ガイド)」が脳梗塞で倒れる所から物語が始まる。言うまでもなく、「パトロン」と「ガイド」というのは世界と人類の魂のパトロンでありガイドであることが意味されている。

 こうした設定によって、大江健三郎が描く『燃え上がる緑の木』と『宙返り』が世界の未来と魂の救済を問題にした作品であることが明瞭に示されているのである。彼の主眼は、高橋和巳や井上ひさしとは異なって、共同体の問題であるよりも、むしろ人間の魂の救済の問題である。それが、彼の作品を複雑に、そして饒舌にするのだと言えるだろう。

ともあれ、ゆっくり読み進めてみよう。

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