2009年10月15日木曜日

諸田玲子『犬吉』

昨夜、母から実家の愛犬「リク」が、山ダニがもたらす病気で死んだという連絡をもらった。散歩の途中で山ダニが体内に侵入し、血管を食い破ったのかもしれない。「リク」は、父が死んだ年に弟がどこからかもらってきた純血種のビーグル犬である。子犬の頃から聞きわけがよく、賢い犬であった。食卓のそばでお座りをして、待つことを覚えていた。ついこの間の8月末に帰省した折も、よくなついて散歩に連れて行ったりした。母が一番可愛がっていたので、母の姿が見えないと悲しげに鳴いたりもした。死は、いつも悲しくさびしく、やりきれないものである。

 昨夜、ちょうど、諸田玲子『犬吉』(2003年 文藝春秋社)を読んだ所だった。『犬吉』は、徳川の五代将軍綱吉(1860-1709年)の時代の「生類憐みの令」によって「お犬様狂騒劇」が起こった時代が設定されている。時は、ちょうど赤穂浪士の討ち入りがあった前後である。

 この作品の扉に、シェークスピアの『マクベス』第5幕第5場からの引用が小田島雄志訳(白水社)で掲載されている。

「明日、また明日、また明日と、時は
小きざみな足どりで一日一日を歩み、
ついには歴史の最後の一瞬にたどりつく、
昨日という日はすべて愚かな人間が塵と化す
死への道を照らしてきた。消えろ、消えろ、
つかの間の燈火!人生は歩きまわる影法師、
憐れな役者だ。舞台の上で大げさにみえをきっても
出場が終われば消えてしまう」

 『マクベス』第5幕は、前王を殺して王位に就いたマクベスが次第に不安に駆られ、滅亡していく場面である。引用の1節は、人の生の空しさを「人生は歩きまわる影法師」と歌ったものであるが、この引用は作品構成で大きな意味を持っている。

 さて、物語は、大久保と中野に設けられた大規模な犬囲いで、犬の世話役として働く「犬吉」(本名「吉」)と呼ばれる娘(廓で生まれ育ち、旗本に囲われてさんざんな目にあい、可愛がっていた「雷光」という犬を殺され、この犬囲いに来て、夜は売女として生きる)が、赤穂浪士の討ち入りで狂騒状態にあった男たちになぶりものにされ、そこで依田峯三郎という侍と出会い、犬囲いで行われていた米の横流し事件に絡み、それを暴いていくという過程で起こる出来事を山場として進められていく。

 侍の依田は、障害をもっていたが犬を可愛がっていた彼の妹と重ね合わせて、犬吉を守り、犬吉は依田に恋心を熱く抱く。依田は、事件終結後に、自分の所に来るように誘うが、犬吉は、自分を恥じて、ただ一人あてもなく、しかししっかりと江戸へ向かうところで物語が終わる。

 時代考証もしっかりしているが、何より、自らを恥じて生きなければならない女の姿がしっかりと描かれていて、短い小説であるにもかかわらず、恋あり、事件あり、剣さばきもあり、時代小説としての娯楽性もあって、読みがいのあるものではないかと思う。

 しかし、諸田玲子は、長編に力量を発揮する作家だろうとは思う。女性が女性を描くことができる作家ではないだろうか。ただ、この作品には、彼女にしては珍しい心理描写があり、虐げられて生きなければならない女性の姿が行間にあふれている。

 快晴の秋空が広がっている。いつもの朝の儀式のようなものとして、先ず、起きてコーヒーを入れ、これを飲みながら新聞を1時間ほど丹念に読む。こうしてようやく目が覚めてくる。それからシャワーを浴びて、一杯の果汁ジュースを飲み、仕事のしたくにかかる。この朝も、こうして過ごした。「リク」の死は重いが、日常はいつものように流れていく。
 
 「すべては、高度な遊びのようなものじゃあ」と、ふと、思う。「浮き世」とはよく言ったもの。「遊び」に目くじらを立てる必要もないし、拘泥する必要もない。飲み、食べ、眠り、少しの仕事、本を読み、言ってみれば、好きなように暮らして行け。精神の作業も、肉体の作業も、すべては「遊びのようなもの」、秋雲のように流れていけばよい。しかし、夜は、近くのスーパーマーケットに買い出しにいかねければならない。大根を買って、鯛と一緒に煮付けでも作ろう。

 先日、実習生のTくんとM.ルターの人格について少し話をする。M.ルターは真に強烈な個性の持ち主である。彼はそれを遠慮会釈なくさらけ出すことができた。それがゆるされる人生を歩んだということだろう。

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