2009年10月20日火曜日

大江健三郎『宙返り』(3)

 秋の風が吹く気持ちのいい日々とはいえ、相変わらず、車の騒音とビルの改修工事の音、加えて今日はその作業員の大声での会話もあって、まことに黙考にはふさわしくない環境に包まれている。しかし、それが今のところわたしの環境なのであり、この中で小さい秋を見つけることにしよう。

 さて、大江健三郎の『宙返り』をゆっくり読み進めているが、なかなか時間がとれずに停滞気味である。

「第5章 モースブルッガー委員会」は、「荻」青年を中心にした新しい師匠(パトロン)の活動の始まりを述べたものであるが、「荻」青年は、「宙返り」後の師匠(パトロン)に連絡をくれた人々に新しい始まりを伝える活動を開始する。そこで、偶然、兄嫁の友人であった「津金夫人」と再開し、彼女と性交渉をもつ。その性交の場面がかなり濃密に描かれる。

しかし、一概に、大江健三郎が性交の場面を描く際、ホモ行為や肛門性交、あるいは異常な傾向においてもであるが、その行為が詳細に描き出されれば出されるほど、どの場面も個性がない。大江健三郎の初期の作品(『個人的な体験』以前)は、人間の存在の根拠としての「性」の問題に集約されていく所があったが、それは、そこに人間存在のアイデンティティを見出そうとしたからであり、それなりの意味もあった。すべての者が、自分の存在の確かさを求めて性交する。性交は存在の確認行為である。

しかし、『宙返り』において、「荻」青年と「津金夫人」の性交渉の場面を描くことにどれほどの意味があるかのか、今のところよくわからないというのが、正直な感想である。

「第6章 案内人(ガイド)」は、脳の動脈瘤破裂から回復の兆しを見せた「案内人(ガイド)」が、彼の立場からの「宙返り」後の再出発を志そうとする。物語は、神の声を再び聞きたいと願う「育雄」への案内人(ガイド)の対応を語り、それによって、案内人(ガイド)が師匠(パトロン)とは異なった立場から、新しい事態を受け止めようとすることを示すものである。

ただ、この「第一の案内人(ガイド)」は、第8章で、再び動脈瘤が破裂し、回復が困難となり、第二の「新しい案内人(ガイド)」-それは、『宙返り』の観察者であり、「育雄」とのホモ関係を結んだ木津である-が選び出されることになる。運動の継承がこうして起こるのである。

「第7章 聖痕」は、師匠(パトロン)の脇腹に大きな傷があることを述べるものである。もちろん、これは十字架刑の後のイエス・キリストの脇腹にあった刺し傷(聖痕)のことが意図されている。弟子のトマスが、「この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(ヨハネによる福音書 20章25節)と語ったのは有名な話である。

師匠(パトロン)の傷は、傷跡ではなく生々しい傷である。その傷が、十年前に「宙返り」をした時も開いたままだったのか、あるいは、その後の十年に傷ついたのか、あるいはまた、新しい活動を開始しようとする時に開いたのか、不明である(189ページ)。しかし、師匠(パトロン)の脇腹の傷は、キリストの十字架を暗示するものであり、人間の罪と過ちを背負い、それにゆるしと救いをもたらすキリストの十字架が、師匠(パトロン)の「宙返り」とその後の出発に当たることを示唆する象徴的な物語である。「宙返り」が、人間の罪や過ちを負うことと無関係ではないことを示すのである。

 こうした視点は、たとえば、遠藤周作の『沈黙』(1966年 新潮社)での「ころびバテレン」などの主題にも見られるものであるが、人間の罪がどこでゆるされていくのかは大きな問題であり、大江健三郎にとっても、これは大きな問題で、言ってみれば、『宙返り』の主題でもあるだろう。この短い章は、その意味でも、本書の重要な章であるに違いない。

 「第8章 新しい案内人(ガイド)が選ばれる」は、先述したように、かつての教団の急進派の残りに襲われた案内人(ガイド)が、再び回復不可能な脳の動脈瘤の破裂に陥り、新しい案内人(ガイド)として、木津が選出される過程を描いたものである。木津は、自分が描いた水彩画と師匠(パトロン)が語ることの一致によって、新しい案内人(ガイド)としての歩みを確かなものにしていくが、こうした木津と師匠(パトロン)との想念の一致という想定は不要かもしれない。

また、師匠(パトロン)が語る「神」との関係の内容は、古典的な古代ギリシャ思想における人間観(人間は神のエートスをもつ)やグノーシスの神理解に近いものがある。あるいは、スピノザの神観に近いと言えるかもしれない。もっとも、師匠(パトロン)の思想は一種の神秘主義であるのだから、新しい活動がある種の神秘主義に基づくものであることを示す上では、こうしたことは必要があったのかもしれない。

 「第9章 そのなかにすべてが書かれていながら、生きることはそれを書き続けることである本」は、その師匠(パトロン)の神秘思想を述べたものである。ここで述べられている思想自体は、文学者の我田引水的な陳腐なものである。ただ、「人生は一冊の本ごとし」でもあるということではあるだろう。

 今日のところは、ここまでとしよう。今日は、5月に召天されたHさんのことを思い浮かべた。Hさんは、小さい頃に結核や数々の病に冒されておられたが克服され、小学校の教員を長く勤めあげ、わたしがここで出会った人であるが、最後まで、信頼をもって接してくださった方でもある。わたしは、彼女の手術の間中、ずっと病院で彼女の側に立っていたこともある。一日がかりの、癌を摘出する大手術だった。その後少し回復されたが、手術が彼女の寿命を縮める医療行為ともなったかもしれない。Hさんは誠実なキリスト教徒で、短い回復期からお亡くなりになる前まで、「自分がキリストに包まれていることを感じる」とずっと語っておられた。それは、彼女のある種の幸せな神秘体験であるだろう。享年79歳であった。

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