2009年10月21日水曜日

大江健三郎『宙返り』(4)

 秋風の中で、晴れたり曇ったりの天気が続く。コスモスが優しげに風に揺られている姿を思い起こさせるような天気である。いつものように、少しあわただしい日々が過ぎていく。

 昨日、『宙返り』上巻を読み終わった。「第10章」と「第11章」は「通夜躁病は果てしなく続く」と題される二つの章であるが、共に、ついに案内人(ガイド)が死に、その追悼集会とその案内人(ガイド)について述べられたものである。

 第11章で、亡くなった案内人(ガイド)の父親について師匠(パトロン)が次のように語っている所が興味深い。(307-309ページ)

(長崎での被爆後)「赤ん坊の案内人(ガイド)を、母親の遺体の収容先で発見して、引き取ってくれた伯父の医師は、信仰の厚い人だった。・・・・
 長崎の原爆の際、父親は中国の戦場にいた。復員して来たかれは、まだ五島列島の疎開先に暮らしていた義兄の家を一度だけ訪ねて来た。しかし息子を引き取っていかなかったばかりか、医院を再建して伯父一家が長崎市内に戻ってからも、まったく連絡がなかった。一度だけ義兄を五島列島に訪ねた際も、福音将校は普通でなかったのである。酒を大量に飲んで、かれはこういう話をした。
 中国で日本人将校が言語につくせぬ残虐行為をするのを自分は見た。もし自分にも同じ残虐さで農民を殺戮し、婦女を強姦することをもとめられるならば、抵抗したいと考えていた。一方で、自分が同じことをやらないというだけではだめなのではないか、とも考えた。
 あわせて、軍医として戦線にあることにも気がかりを感じることになった。魯迅が次のように書いているのを読んだから。要上戦場、莫如做軍医、・・・既英雄、又穏当。戦場に出るなら、軍医になるがいい。・・・英雄であって、しかも安全だ。自分は試されることをまぬがれていた。それが神のおはからいだったのか?案内人(ガイド)が、子供の時から、神のおはからいということを頭に浮かべることがあったのは、育ての親から聞いた父親の話が記憶に残って、ということであったかも知れない。
 ところが復員して見た長崎は、広島に続いて原爆で潰滅させられていた。日本列島においてカトリック信仰がもっとも色濃い市においてそうだった。どんな残虐行為も行わなかった自分の、信仰厚い妻も、娘のような身空で赤ん坊を残して殺されていた。自分は、これこそが神のおはからい、神のみ業だと思う。ある場所で罪が行われる。罪に参加しなかった者も、その場所にいたということのみで、同じ罪のある者ではないか?さらに言えば、神が人間に大きい罰を与える時、それは罪ある人間、罪のない人間を問わないのではないのか?何より人間であることこそが罰せられるのであるから。
 自分はそれを経験によって理解した。自分が生きているのは、人間としてこの苦しみを生き続けるためであり、それを介して悔い改めるためである。自分と同じく、経験によってそれを理解した人間は長崎にみちているはず。自分はそれらの人々とともに、この市を悔い改めた者らの場所として日本列島に輝かせたいと思う。現にそのために働き始めているのでもある。これは大事業で、自分にはいくら時間があってもたりない。しばしば子供に会いに来ることもできないだろうが、このような次第であるから、信仰をひとしくする者として許してもらいたい。」

 ここには、『宙返り』の主題としての「悔い改め」とそこから起こることが、この案内人(ガイド)の父の姿として述べられているようにも思われる。案内人(ガイド)は、結局、この父と同じ道を進んだとも言えるのではないだろうか。

 それに対する現実の対応として、案内人(ガイド)の伯父の判断が、次のように記されているが、それがまた、師匠(パトロン)と案内人(ガイド)の「宙返り」で起こったことでもあるということであろう。

 「しかし、義兄の医師は、リアリストだった。かれは、義弟が正気になり地道な生き方に戻ることはあるまい、と断念するようであった。医師は、原爆直後に妹と甥を探して生なましい放射能の廃墟をうろついた時から、これだけの悲惨が行われても悔い改めに向かう者は少数だと知っていた。大村天主堂の廃墟に立って、集まってくる被爆者たちに焼けただれた母子像を示しながら、悔い改めよ、と叫ぶ者がいれば、人々の投石に殺されるだろう、と考えていた。」(309ページ)

 この記述は、師匠(パトロン)と案内人(ガイド)の「宙返り」後が、その投石にさらされたものでもあることを示すものでもあるだろう。

 ここまで書いて、今日はひどく疲れてしまった。残りは、また明日にしよう。

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