2009年11月9日月曜日

北原亞以子『夜の明けるまで 深川澪通り木戸番小屋』

 朝は少し雲が覆っていたのだが、今はよく晴れている。押し入れから掛け布団を出して来て陽に干したり、洗面所やトイレに敷いているマットを洗ったりした。身体の不調はいつもの通りではあるが、昨日、大岡山に出かけたりしたので、少々疲れも覚える。

 大岡山は理系のメッカである東京工業大学がある町で、大井町線の駅の前がきれいに整備されているが、商店街は古いままに残されており、時間があればぶらぶらするのもよいかもしれない。ただ、残念がら、大岡山に行く時はいつも予定が詰まっていて素通りするだけである。

 昨日中に北原亞以子『夜の明けるまで 深川澪通り木戸番小屋』(2004年 講談社)を読んでしまおうと思い、夕方に読み終わった。これは、このシリーズの4作目だろうと思うが、深川中島町の澪通りにある木戸番の夫婦、古武士の風貌をもちながらも穏やかな笑兵衛と、肥ってはいるが上品な品格をもち、いつもころころとよく笑う女房のお捨ての中年夫婦の人情に触れ、慰めと励ましを受けていく人々の物語である。

 この『夜の明けるまで』は、「第一話 女のしごと」、「第二話 初恋」、「第三話 こぼれた水」、「第四話 いのち」、「第五話 夜の明けるまで」、「第六話 絆」、「第七話 奈落の底」、「第八話 ぐず」の八話から成り立っているが、いずれも、木戸番夫婦の何気ない温かみを頼りにしている人たちの話で、第一話は、下練馬で貧しい雑貨屋の娘として生まれ、江戸に出てきて料理屋で働き、気楽な生活をすることを望んでいた「おもよ」が、友人で身勝手な「お艶」の開店した店で働くことになるが、「お艶」ばかりが大事にされたりして、次第に自分の存在感を失っていく。しかし、木戸番小屋のお捨てとの何気ない会話の中で、日々の暮らしの中で生きていくことこそ意味があることをじんわりと知っていく、という話である。

 「第二話 初恋」は、木戸番小屋に始終顔を出す差配の弥太右衛門の「いろは長屋」に越してきた労咳の亭主「年松」と明らかに武家育ちとわかる妻の「紫野」の話で、「紫野」は、16歳の時、かつて自分の生家の窮状を救うために300両で真綿問屋甲州屋広太郎のもとへ嫁いだが、広太郎の女遊びの激しさと舅、姑の仕打ち、「金で買われた嫁」という店の者の冷たい視線や仕打ちなどに耐えきれず、自分の下駄の鼻緒をすげてくれた職人の「年松」の優しさに触れて、彼のもとへ逃げだした女である。

 年松は、ついに労咳で死ぬが、復縁を迫る甲州屋や兄や周囲の者の反対を押し切って、「紫野」は、そのまま「いろは長屋」に住むことを決意する。

 「第三話 こぼれた水」は、美男とはほど遠い顔つきをした釘鉄問屋近江屋山左衛門が木戸番小屋の近くに越してきた美人でしっかり者の「お京」と浮気をしているのではないかと案じた女房の「お加世」が、さんざん迷った末に、「お前さんの女房はわたしです」といって立ち直る話である。

 「第四話 いのち」は、火事で前途ある若侍から命を助けられた五十四歳で遊女の繕い物をして暮らしていた「おせい」が、自分を助けて死んでしまった前途ある若侍に比べて、年寄りで何のとりえもない自分が助けられたことを悔やみ、また周囲からもそう言われたりして、木戸番小屋に身を寄せて介抱されることになり、お捨ての働きで救われていく、という話である。

 「第五話 夜の明けるまで」は、木戸番小屋の前にある自身番で書き役をしている貧しい太九郎が、五つになる子どもを抱えて仕立物をしている貧しい「おいと」と夫婦になりたいと願うが、「おいと」は、前の亭主をはじめとするこれまでの人々の表裏のある姿をいやというほど見せられて、しかも、前の亭主の女癖の悪い舅が自分の部屋に入って来たりして、離縁してきた女だった。太九一は「おいと」と夫婦約束をするが、太九郎が病気で寝込んだ時に、同じ長屋に住む「おまち」を嫁にと世話をする人が「おまち」を看病にやったりしたのを知って、誰も信じられないと閉じこもってしまう。

 しかし、外に出た時、木戸番の笑兵衛と出会い、太九郎が絶えずうわごとで「おいとさん、佐吉(子ども)」と名前を呼び続けていたことを聞かされ、「自分が一人でねじくれていた」ことに気がつく。笑兵衛は、おいとと佐吉を木戸番小屋へ誘う。

 「第六話 絆」は、木戸番小屋へ時々顔を出す駒右衛門が、昔自分が捨てた子どもが一緒に暮らしてもいいといってくれたことにまつわる話で、駒右衛門は、昔、材木問屋を営んで羽振りが良く、その時茶屋女を囲って「おるい」という子どもを産ませていた。しかし、商売がうまくいかなくなり、その女と子どもを捨てた。借金も増え、女房も母親も死に、残った家作で細々と暮らしをすることになった。そんな時、かつて捨てた「おるい」が亭主と共にやって来て、一緒に暮らすことを提案したのである。
だが、「おるい」の心情は、かつて自分たち親子を捨て、そのために母親を亡くし、体まで売ってきたことに対する復讐だった。駒右衛門は、それを知りつつ、自分の唯一の生計である家作を「おるい」に譲り、これから「おるい」が暮らしていければ、それでいい、と言う。「おるい」は、その父親の心情に打たれて、家作を手に入れて逃げようとする亭主の刃から父親を守る。

 「第七話 奈落の底」は、蕎麦屋の和田屋の女房に恨みを抱く幼友達の「おたつ」が、その仕返しをしようと企むが失敗する話である。「おたつ」は、かつてどうしてもお金が必要になって、昔馴染みの和田屋の女房を訪ねるが、相手にしてもらえなかったことを逆恨みして、まじめな荷揚げ人足をしている三郎助をつかって和田屋でひと騒動起こそうとするが、三郎助は、和田屋にも「おたつ」にも迷惑をかけたくないと思って失敗する。なじる「おたつ」に三郎助は言う。

 「ついこの間まで、女の人の中では、木戸番小屋のお捨てさんが一番好きだったんだけど、今はあの、おたつさんが一番好きだ」
 俺は、一文なしで江戸へ出てきた、と三郎助は言った。眠る場所を探しているうちに道に迷い、空腹に耐えきれなくなって蹲った。目の前に町木戸があったことと、恰幅の良い男がその木戸の前に立っていたことのほかは、霞がかかってしまったように記憶が消えている。
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 すでに床についていたお捨が、わざわざ七輪に火を起こして粥をつくり、まだ明かりのついていた炭屋からたまごをもらってきてくれたのだそうだ。
 「見ず知らずの人間のため一所懸命になってくれる人もいるもんだ、そう思いました。ほかにはいねえだろうと思っていたんだけれど、おたつさんがいた」(209ページ)

 「弥太右衛門さんから笑兵衛さんとお捨さんの話を聞いた時、俺あ、ほんとうに嬉しかった。だって、お捨さんは眠っていたのに起きてくれて、七輪で粥をつくってくれたんですよ。はじめて人にかまってもらえたと思ったら、涙が出た」(211ページ)

 この話を聞いて、「おたつ」も思い返す。

 「第八話 ぐず」は、鰹節問屋の大須賀屋林三郎の女房だった「おすず」は、亭主の林三郎の女遊びが激しく、舅も姑もそれを鼓舞するような家で暮らすことが耐えらず、暴力も振るわれていた中で、台所の隅で泣いていた時、出入りの指物師与吉に「御気分でもわるいのですか」と声をかけられたのを機に与吉と深い仲になってしまい、婚家を離縁されてしまい、深川熊井町でひとりで絵草子屋を営んで、時折、木戸番小屋の夫婦を訪ねる生活をしている。

 彼女は、離縁され実家に戻された時、二度と与吉にあってはならないと彼女の面倒をみる兄から釘を刺されていた。しかし、家を飛び出すつもりでいた。与吉は、昼過ぎまで待ち、夕暮れまで待ち、さらに夜更けまで「おすず」を待っていた。だが、「おすず」は迷い、ついに飛び出さずに、兄の世話で絵草子屋を営むことになったのである。

 それから十五年の月日が流れた。元の亭主の林三郎が「おすず」の実家の金を目当てに復縁を迫ってきた。しかし、彼女はそれを受けつけない。彼女は後悔していた。なぜ、与吉の元へ行かなかったのだろうか、と。その心情が、次の文章ににじみ出ている。

 「おすずは爪を噛みながら、はこべや車前草が生えている空き地をみた」(232ページ)

 「爪を噛み、空き地をみる」まことに巧みな描写である。

 元の亭主に復縁を迫られ、今度こそは間違えないと思って、「おすず」は与吉を探すことを決意し、あちらこちらを訪ねて探しだす。

 与吉は、もう、髪に白いものが混じり、昔の面影はない。「おすず」は、羽目板の陰からその様子を見る。そして、そこから思い切って訪ねるのである。

 「おすずが羽目板の陰から出ると、その気配に与吉が顔を上げた。おすずは、障子に手をかけて、蹲ってしまいそうな軀をささえた。与吉の顔が、わずかにゆがんだ。
 「おすずさんか」
 「上がっても、いい?」
 もう立ってはいられない。上がらせてもらえなければ、出入り口で蹲って泣き出しそうだった。
 「待っていたんだ、ずっと」(238-239ページ)

 まったく泣かせる場面である。ただひたむきに、ひたむきに生きようとする人間の姿が描かれる。それが、自分の欲と保身のために策略を練る元の亭主と対比されて描かれるところがいい。

 策略を練り、計略を立てて、野心をもち、人生の設計をし、成功を求めて、うまくごまかしながら生きることよりも、単純で、素朴で、ひたむきであることの方が、はるかに価値がある。この作品は、それをしみじみと覚えさせてくれる。

 ただ、同じシリーズでも、『夜の明けるまで』は、たとえば前に書いた『燈ともし頃』よりも、木戸番夫婦の笑兵衛とお捨との関わりの描き方が少なく、木戸番夫婦の姿を描き出すと言うよりも、その周辺で生きる人々に焦点が当てられているために、せっかくの木戸番夫婦の姿が迫力をもって見えにくいということがあるように思える。そのために、それらの人々が木戸番夫婦によって励まされていくリアリティが「第七話 奈落の底」以外の作品にはあまり感じられなくなっている。その点が、木戸番夫婦のあり方に心を打たれているわたしのような人間には、少し物足りなく感じられるのである。

 とは言え、このシリーズが傑作であることは間違いない。構成も、筆運びも、真に見事であり、心情が込められる情景の描き方も素晴らしい。

 昨日、山内図書館に行くつもりでいたが、今日もついに時間がとれずに、明日、たぶん天気が崩れるかもしれないが、出かけることにする。コーヒーも切れてきたので買ってきたい。明日は、都内で一つ予定があるのだが、どうも気が進まない。都内に出るのはほんとうに億劫になっている。

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