2009年11月19日木曜日

北原亞以子『白雨 慶次郎縁側日記』

 昨日の午後は少し晴れたのだが、今朝は重い雲の冬空が広がっている。始まっている本格的な寒さが身にしみるようになってきた。風も冷たい。指先に寒さが宿る。空気が冷え冷えとし、霙でも落ちてきそうだ。

 昨夜はなんだか疲れ切って、ビールを飲みながら、だらだらとあまり意味のないテレビ番組を見つつ北原亞以子『白雨 慶次郎縁側日記』(2008年 新潮社)を読んだ。そして、読んでいるうちに段々と嬉しくなっていき、ついに夜中までかかって読了した。

 北原亞以子のシリーズ物で一番気に入っているのは『深川澪通り木戸番小屋』であるが、『慶次郎縁側日記』も、あっさりと書かれているところが良いと思っている。このシリーズは、刊行年順に記せば、『傷』、『再会』、『おひで』、『峠』、『蜩(ひぐらし)』、『隅田川』、『やさしい男』、『赤まんま』、『夢のなか』、『ほたる』、『月明かり』の11作と、『脇役 慶次郎覚書』がこれまで出されており、『白雨』は12作目の作品となる。この内で、まだ読んでいないのは、記憶が怪しいのだが、たぶん、『月明かり』だけのような気がする。

 このシリーズは、前にも少し書いたが、元南町奉行所の同心で「仏の慶次郎」と呼ばれた人情厚い森口慶次郎が、今は隠居して酒屋の寮番をしながら、江戸の市井に生きる様々な人々と、その人たちが起こす様々な事件や出来事に関わっていく話で、どうにもならない状況のなかで生きなければならない人々に示される「情の温かさ」と「暖かさの呼応」がさりげなく、そしてふんだんに描き出されていて、読むだけで何となく嬉しくなる作品である。

 『白雨(はくう)』は、「流れるままに」、「福笑い」、「凧」、「濁りなく」、「春火鉢」、「いっしょけんめい」、「白雨」、「夢と思えど」の2005年から2006年にかけて「小説新潮」に掲載された8つの作品が収録されており、たとえば、第一話「流れるままに」は、自分の意志や決断というものがあまりなくて、すべてを人のせいにして生きている質屋の婿養子がやりきれない思いで生活する中で盗癖のおる女に引っかかって脅される話であり、第二話「福笑い」は、あまり機転が利かずにぼんやりすることが多くて勤め先から暇を出され、口入屋(仕事斡旋所)に身を寄せながら暮らしている女が、惚れた男に、これも仕事を首になり、他の女に世話になっていることを知りながらも金を貸し、富くじに当たったという男の財布から金を返してもらおうとして泥棒と間違えられる話である。

 第三話「凧」は、昔自分を捨てて男と逃げた女房のために岡っ引きの「蝮の吉次」がさりげなく動いて、養女にするつもりだった女にまとわりついている男のことを調べたり、養女になるはずだった母親と暮らしている女が、母親との関係を恢復していったりする話である。

 第四話「濁りなく」は、父親のこと(慶次郎の愛娘を手ごめにして自害に追いやった)で重荷を追ってきた岡っ引きの辰吉と暮らす「おぶん」が親しくしている気のいい後家さんが、大金を騙し取られ、それを慶次郎と辰吉たちが解決していく話である。昨今の社会を賑わせている詐欺というを視野に入れて書かれたものだろう。

 第五話「春火鉢」は、久しぶりで早く家に帰って来て、頂戴物のもちを焼いて食べる家族のありがたみを味わった同心の島中賢吾が、お互いにまだ思いをもちつつも、喧嘩をし、刃傷沙汰を起こして夫婦別れをした男女に関わる話で、第六話「いっしょけんめい」は、あまり丈夫ではない女が可愛がって育てた娘が、仕事もせずに気に入らない男と所帯をもったために独り暮らしをし、意地を張っていたが、その中で娘夫婦と孫のありがたさを知っていく話であり、第七話「白雨」は、慶次郎と一緒に酒屋の寮番をしている変わり者の「佐七」の友人となった男が、実は、昔の大泥棒であったことが分かり、「佐七」が傷つかないように慶次郎がその友人と話をつけに行く話である。

 そして、第八話「夢と思えど」は、昔、駆け落ちの約束までして惚れぬいた男が、約束の場所に現れず、その男への思いを秘めたまま二度の結婚をし、二度とも失敗し、三度目の結婚話が持ち上がってきた時に、偶然、その昔の男に出会い、その男と再び駆け落ちすることになったが、その時も、男が現れないという筋立てである。

 男は、その女への強い思いをもちながらも、自分のような男では相手を幸せにできずに苦労ばかりかけると思って、その独りよがりの気持ちのまま出奔してしまうのである。男は、女に対してとった自分の行為を罪業と感じていく。こういう男の気持ちはわからないではないし、ふと、デンマークの哲学者S.キルケゴールのことを思い起こしたりしながら読んだ。

 北原亞以子『再会』は、相変わらず、物語の展開も文体も練られていて、流れるように読むことができるような工夫がされている。彼女の小説作法の技量は、相当なものである。

 たとえば、第一話「流れるままに」の冒頭のところで、次のような表現が出てくる。

 「確かに、すべてを他人のせいにしてしまえば気持ちは楽になると慶次郎も思う。慶次郎も、その誘惑に負けて他人の言う通りに動き、あとでそのひとのせいにしたことが幾度かある。が、後味は悪かった。」(9ページ)

 こういうことを素朴なことを無理なくさらりと表現しているのがいいし、「何度か」ではなく「幾度か」という言葉の選択も洗練されたものがある。

 そして、相変わらず、独りで貧しく生きなければならない人間の心情の表現もうまい。

 第二話「福笑い」で苦労しながら生きている「おふく」という女性について、

 「自分が気のきかない女であることも、湯が沸く時のあぶくや鑿に削り落された木屑など、人があまり興味をしめさないものを眺めているおかしな女であることはよくわかっている。そのことで叱られたり呆れられたりするのには慣れているが、持って帰った餅で雑煮をつくり、一人で食べた時にはさすがに涙が出た。」(50ページ)

 と記す。侘しい一人暮らしの姿は、その食事の時にもっとも感じられるが、「雑煮を一人で泣きながら食べている姿」を思い浮かべると、それがひしひしと伝わってくる。

 また、書き出しも真に優れていて、たとえば、第三話「凧」の書き出しは次のようなものである。

 「職人風の男と一緒に、風のかたまりが店へ飛び込んできた。室町三丁目の畳表問屋、伊勢屋の店先であった」(73ページ)

 この「風のかたまり」が、登場する岡っ引きの「吉次」や登場人物の心に吹き込んでいくのである。こういう書き出しは、おそらく何度も推敲を重ねたものだろうと思う。

 また、第五話「春火鉢」には、次のような一節がある。

 「春の宵である。とろりとかすんだ薄闇の中へ洩れる明かりは、日々の暮らしに満足している者と胸に屈折した思いを抱えている者とでは、まるで色合いがちがうだろう」(154ページ)

 この一節だけで、この物語に登場する人物がどんなものであり、この物語が伝えることが分かるような気がするし、この物語の最後の言葉は、事情を知った同心の島田圭吾が、「ひえびえとした時には、物置に入れた火鉢を出すにかぎるのだ」(156ページ)と思う言葉である。まことに読後感の後味の良さを感じる表現である。

いずれにしろ、『再会 慶次郎縁側日記』は、それぞれが、それぞれの重荷や苦労をしながら江戸の市井で生きる庶民の姿を取り扱ったものである。こうした作品は多いし、わたしも好んで読んでいる。読んで、ただただ嬉しくなる本である。

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