2009年11月25日水曜日

佐藤雅美『首を斬られにきたの御番所 縮尻鏡三郎』

 朝から細かく冷たい雨が降っている。天気予報では、今日は、午後から雨も上がるし、気温も少し上がるということだったが、今は、寒い。このところ寒い日々になっているので、使っている暖房器具ではなかなか暖まらずにいるし、特に外出先から帰ってきた時の部屋の冷え冷えとした気配にどうにもならなさを感じたりするので、最近のエコの動向とは反するのだが、もう一つの伝統的な暖房器具であるコタツでも買おうかと思ったりしている。コタツで眠るのは最高に気持ちいいだろう。
 
 昨夜から佐藤雅美の本を読んでいるのだが、ベッドに入るや否や眠りに落ちてしまう日々になってなかなか進まないでいる。肩の凝る内容でもないし、気軽に読み進める作品で、一気に読める作品なのだが、本を読むということは、その内容の把握一つとってみても読み手の肉体的、精神的状況に大きく影響されるということを、つくづく感じてしまう。

 昨夜は、『首を斬られにきたの御番所 縮尻鏡三郎』(2004年 文藝春秋社)を読んだ。この作品は、巻末の書物の広告に『縮尻鏡三郎』(文春文庫)というのが記載されているので、その続編だろうと思うが、それはまだ読んでおらず、たぶん、その作品の方が、ストーリーが起伏に富んで面白いのではないかと思う。それを思わせるくだりが、この作品の中で随所に出てくる。

 作者の定義からすれば、「縮尻」というのは、何らかの事情で人生が「尻すぼみ」になってしまったことをいうらしい。主人公の「拝郷鏡三郎」は、九十俵三人扶持の貧乏御家人の家に生まれ、唯一開かれた道である勘定所(今でいえば財務省)への採用を目指して、七つ八つの頃から学問と武芸に励み、推薦者となる組頭のもとに日参し、死に物狂いの就職活動をして、ようやく採用されたが、上役の勘定奉行からの命で、ある老中の内密の御用を承ったのが徒となって、その役職を棒に振り、失職して、家督を娘夫婦に譲り、町方が出し合って作っていた大番屋(仮牢)の責任者(元締め)となった人間である。このあたりのくだりは、おそらく、前作『縮尻鏡三郎』で展開されているのだろう。まさに、人生が尻すぼみになった「縮尻」なのである。

 本書は、この「縮尻」の鏡三郎が江戸の市井で起こる様々な事件で「大番屋」に入れられてくる人間に関与し、その真相を明らかにしていくという、いわば、軽いミステリー仕立てになった作品で、「読み物」として面白く読める作品である。

 もちろん、この作者は、丁寧に文献にあたり、時代考証も、江戸の社会考証もきちんとしているので、なるほど、江戸の庶民はこういう暮らしをしていたのか、ということが細部にわたって描かれており、何とも言えない味わいのある作品であるが、作者は「読み物」を書いているのであって、彼が他の作品で展開しているような思想性を期待することはできないし、むろん、作者も、そういうつもりはないだろうと思う。

 彼は、淡々と出来事を記していく手法をここでは採っているが、ただ、もう少し主人公の人格や、市井の中で事件を引き起こさざるを得ない人間の状況と心情が書き込まれてもいいかもしれないと思ったりする。それだけの力量と思想性をもつ作家なのだから。

 ただ、収められている作品の中では、第六話「妲己のおせん」から第七話「いまどき流行らぬ忠義の臣」、第八話「春を呼び込むか、百日の押込」の流れが、主人公鏡三郎のうだつの上がらないままに無聊を囲っている娘婿と、しっかり者で、大手の手習い所(塾)の長身白皙の美男とその手習い所を共同経営することになった娘の夫婦関係に気をもみながら、相続争いやお家の復興をかけた小大名の武士たちや、跡目騒動(後継者争い)などの事件に関わって、その真相が明らかになっていく物語の展開が、人間の欲の姿を映し、そういう中で、主人公の拝郷鏡三郎の「縮尻」ではあるが自由人である姿と対比されて、「自由人」であることの日常の姿がよく描き出されている。

 拝郷鏡三郎は「自由人」なのである。彼の「自由」は、自分の人生が尻すぼみになっていく「縮尻」であることを達観し、何とも思っておらず、そのようなことにもはや価値を置かないところに由来している。こういう姿は、「痛快」である。

今日は、午後から都内での会議のために出かけなければならず、その準備もあるので、続きはまた明日、ということにしよう。

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