2009年11月24日火曜日

諸田玲子『日月めぐる』

 22日の日曜日は、本格的な寒さに震える日曜日だった。ほんの少し出かけるにしても、コート、マフラー、手袋の「冬支度の三種の神器」が必要なほどで、おまけに小糠雨もか細く震えるように降って、痛めている頸椎から左肩にかけては痛みも走るし、身の置き所がないような感じだった。

 ところが、昨日(23日)は一変して、「小春日和」という言葉がふさわしい日になり、朝から、洗濯をし、寝具を代えて、掃除をしたりするのに快適な日となった。午後から、中学生のSちゃんが訪ねてくることになっていたので、大江健三郎論に手を入れながら、完全な図形である円が無理数をもっているということなどをぼんやりと考えていた。

 そういう中で、諸田玲子『日月めぐる』(2008年 講談社)をようやく読み終えた。

 これは、幕末期の駿河の小藩であった小島藩の城下町(といっても城はなく、陣屋があるだけで、全体が経済的に苦しい状態が続き、ようやく駿河紙の製造で少し落ち着いた)に住む人々の様々な喜怒哀楽や関わり、生き方を描いた七つの作品が連作の形で綴られている作品で、いずれも、甲州往還と並行して流れている興津川の上流の、両側に山が迫り、川幅がせばまって流れが急となり、岩のせいで水深の差が激しく、不思議な色合いを見せて渦巻く渦巻きが象徴的な基調となって、その渦巻きにそれぞれの人生が巻き込まれていくようにして生きていく人々の姿を描くものになっている。

 第一話「渦」は、今は隠居しているが、かつては藩政の重要人物だった男と、隠居を前にしたその部下であった組頭である男の、かつての駿河紙の製造を巡る事件の真相が明らかになっていく話で、組頭の息子とその藩政の重要人物だった男の娘の縁談が進められて行くことが中心になり、政治を司る者も、またそれに翻弄されていく者も、共々に、それぞれの労苦を負いながら生きている姿が描かれていく。

 第二話「川底の石」は、紙漉きの技術を教えていた商人と契りを結んだ娘が、いずれは迎えに来るという約束を信じて十年の月日を経て待ち続ける話で、ようやく十年後に戻ってきた男がとんでもない男になっていることがわかっていく。そして、彼女が十年もの歳月、男を待ち続けていた間に、彼女を慕い続け、彼女を助け続けていた幼馴染の年下の男の本当の思いがしみじみとわかっていくという話である。

 第三話「女たらし」は、極めつけの容貌をもって嘘八百を並べ立てて詐欺を働いていた男が、ふとしたことで小島藩にたちより、そこで後家で紙問屋の娘を、同じようにたらしこもうとして入りこむが、その娘が肌の白さだけが取り柄の子持ちの大女であることを知り、さっさと逃げ出そうとするうちに、次第に、その子どものことや彼女の素晴らしさに惚れていくという話である。この二人が仲の良い夫婦になっていくことが後の物語で夫婦として記されていくことで示される。

 第四話「川沿いの道」は、幼馴染でお互いに夫婦約束をしていた藩士を待ち続ける娘が、藩命によって彼が自分の兄を殺し、そのために自分との結婚を取りやめていったことを知っていく話で、第五話「紙漉」は、かつて父を捨て、自分を捨てて男と逃げたと言われる自分の実母を探し、実母の相手の男と、場合によっては実母も「女敵討ち」で殺そうと思って小島藩にやってきた御持筒組与力の次男が、その真相と、実母とその男の思いを知り、思いを返して、自分自身の歩みを始めようとする話である。

 第六は「男惚れ」は、百姓の息子であり、武士に憧れ、鉄砲稽古人をしていた少年が、自分が理想として憧れていた、鉄砲の指南でもあった優れた武士が女に骨抜きにされているという噂を聞き、理想と憧憬が壊れていく中で、その武士のもっていた藩の貴重な鉄砲を盗んで、これを興津川の渦の中に投げ捨て、そのためにその武士が切腹していくという話で、彼はひどく後悔し、武士が最後に語ったように商人となって、その武士の子どもや家庭を支えていくようになるという結末が添えられている。

 第七話「渦中の恋」は、大政奉還後の混乱した藩の中で、職を失って侘しい仮住まいをする男女が、すさんだ生活をして幕府側に立って新政府(明治政府)と戦おうとする兄などの姿を通して、お互いの思いを募らせていくという話で、本書のまとめの作品としても、これは秀逸したものとなっている。

 いずれも、興津川上流の、不思議な色合いを見せる渦を見に行く、ということで、その渦の色合いの多様さと同じように多様な人生を歩み人々の姿が、柔らかい筆致で描かれていく。第六話「紙漉」の中に、「人は、わけもなく、巻き込まれてしまうことがある。佳代(実母)が悲惨な目にあったのも渦なら、与八郎(駆け落ちしたと言われる相手の男)に奔ったのも渦・・・いわば不可抗力である」(186ページ)という文章があり、また、第七話「渦中の恋」の中に、「ご老人(第一話の藩政を司っていた人物)は鄙びた里の廃屋でひっそりと暮らしておられた。苦悶に胸をえぐられ、悔恨に眠れぬ夜を過ごしたこともあったろう。日だまりで幸福な午睡を貪ったこともあったはずだ。どこでなにをしていようが、禍福は糾える縄のごとし。我らは渦の中をぐるぐるまわっておるだけやもしれぬ」(258-259ページ)と語られる場面がある。

 渦のように様々な色合いを見せながらもぐるぐる回って生きなければならない人間の姿が、この作品の中で描かれているのである。

 そして、第二話で出てきた女が年老いて、第七話で、状況が江戸幕府から明治政府へと変換していく混乱を経験しながらも、「あたしゃもう、じっとしていたいね。頭の上でぐるぐる渦巻こうが、ごうごう流れようが、あたふたする気はないのさ」(264ページ)と語る。それは、時代や状況に翻弄されながらも、庶民として生きる人間の強さである。

 それに続いて、「両側に迫った山のせいで狭まった流れを、ごつごつした岩がなおもさえぎろうとしている。さえぎられてたまるかと、川の水は怒ったように飛沫を噴き上げ、ぬれそぼった黒い岩に挑みかかる。
 けれど、いがみ合っているだけではなかった。ここには調和があった。薄青と紺と紫苑と群青と縹色(はなだいろ)と薄葉色と御納戸色と浅葱色と、そして輝く紺碧・・・水にかかわるありとあらゆる色の濃淡が、きらめく陽光と溶け合って、渦という摩訶不思議な世界を創り出している」‘264-265ページ)と述べられている。

 ここで「両側に迫った山」と「ごつごつした岩」は、社会の状況であり、世間であり、生き難さである。そして、渦の色は、それぞれが、百姓であったり、もつれ合った男女であったり、武士であったり、商人であったりする者を指している。その中で生きている人間が織りなす「摩訶不思議な世界」とそこでの大切なことを、諸田玲子は、この作品の中で展開しているのである。

 これは、彼女の最近の作で、柔らかい筆致で、さりげなく人間を描く優れた技量が見事に見られる作品だろうと思う。

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