2012年10月1日月曜日

安部龍太郎『金沢城嵐の間』


 台風一過で、碧空が広がっている。一夜の嵐、一夢の生。後に残る碧空、という感じである。それにしても、昨夜は凄まじいくらいに風が吹き荒れた。ここは丘の上の高台にあるので余計にそれを感じたのだが、あらゆるものを吹き飛ばそうとするかのように吹き付けてきていた。

 昨夜は、テレビの台風情報を見ながら、安部龍太郎『金沢城嵐の間』(1997年 文藝春秋社)を、非常に優れた作品集だと思いつつ読んだ。これは、「残された男」、「伊賀越えの道」、「義によって」、「金沢城嵐の間」、「萩城の石」、「生きすぎたりや」の6編の短編からなる短編集で、いずれも「武士の一分」に生きた人間たちの姿を描いたものである。

 「残された男」は、江戸時代初期に筑後三十二万石を与えられ、柳河(柳川)の初代藩主となった田中吉政(15481609年)の四男で二代目藩主となった田中忠政(15851620年)の時代に、旧藩主であった立花宗茂を慕い、そのために働き抜いた武士の姿を描いたものである。これはわたしの郷里に近い筑後の出来事でもあるから、少し詳細に記しておこう。

 田中吉政は、豊臣秀吉の甥の羽柴秀次(後の豊臣秀次)に仕える家老であったが、秀吉によって秀次が自害させられた後も「秀次によく諫言した」ということで加増を受け、三河岡崎10万石の城主となった人物であるが、関ヶ原の合戦では徳川方につき、とくに石田三成を捕縛するという功を認められて、立花宗茂に代わって筑後三十二万石を与えられたのである。彼は、柳河で都市設計に力を尽くし、用水路を整備したり、陸路を整備したりして近代的な都市を作り、家督を嫡男の忠政に譲って京都の伏見で没した。今も残る柳川の水路は彼が造成したものである。

 しかし、家督を継いだ田中忠政は、幼少から父の策略で江戸の家康のもとに置かれ、慶長14年(1609年)に家督を継いだが、その家督相続の時には禍根が残った。長兄吉次は父親の勘気を受けて追放されたとの説もあるが病死の説もあり、次兄も病死で、三男(説によっては次男)の康政も病身で吃音症があり、八女の福島に三万石を与えられるが、柳河藩の後継者として不適格とみなされていた。そのために四男の忠政が家督を継ぐことになったのである。ところが、この康政がそのことを不満として恨みを残し、柳河藩の次席家老である宮川大炊と結託して藩主の座を奪おうと画策したのである。

 筑後三十二万石を与えられた田中吉政は、岡崎から連れてきた譜代の家臣の他に旧立花家の家臣などの地元採用の者を多く登用した。だが、地方衆と呼ばれる地元採用の家臣と譜代の家臣とのあいだの待遇の差が大きく、互の反目が生じていたのであり、康政は地方衆を裏から支援して対立を煽ったのである。

 慶長19年(1614年)の大阪冬の陣の際は、九州の抑えのために出陣には至らなかったが、忠政は用意した軍用金を論功行賞として譜代の家臣にばかり与え、地方衆から一斉に反発を受けたのである。このために夏の陣では豊臣側につくべきだとの反論も起こったりして遅参した。政康は、この時も遅参した忠政が豊臣側に内通して疑いがあると幕府に訴えたりしている。

 本書は、この時に、地方衆の代表として切腹覚悟で藩主の忠政に異を唱えた藤崎六衛門の姿を描いたもので、そこには、実は彼が青年の頃に仕えた旧藩主である立花宗茂への信義に応えていくという生涯をかけた姿が貫かれていたことを語るものである。立花宗茂は人の真実を知る人物で、家臣にも慕われ、宗茂のために命をかけても良いと思う家臣が大勢いたが、豊臣側についたために領地を取り上げられて浪々の生活を余儀なくされたのである。しかし、いつかは柳河に帰ることを念願としていた。

 そして、立花宗茂は、田中忠政が36歳で嗣子がなくて没したことや、それまでの田中家の争い、またキリシタンを保護していたことなどから無嗣断絶となり改易されたあと、再び柳河藩を拝領している。田中家の中で立花宗茂のために孤軍奮闘する藤崎六衛門は、青年の頃の宗茂との誓いを貫いて生き抜くのである。その姿が、短編とはいえ、克明に綴られて読むものを圧倒する作品になっている。一度結んだ信義のために生涯をかける。そういう姿が描き出されている。

 「伊賀越えの道」も、「義」に生き抜き、特に父と子、家族のために生きた人間の姿を描いたものである。舞台となるのは、伊賀二十万石(諸説がある)の筒井家である。筒井定次は、関ヶ原の合戦では東軍に属しながらも、石田三成の甘言に乗って徳川側を裏切ろうとし、中坊飛騨守秀祐の働きでかろうじてそれを行わずに領土を安堵されていたが、やがてはその中坊飛騨守秀祐によって、大阪冬の陣で豊臣家に内通しているということ改易された。本書はその中坊飛騨守秀祐の姿を描いたものである。

 中坊秀祐は伊賀二十万石(諸説がある)の筒井家の家老であった。筒井家には後に石田三成の参謀となった島左近がおり、島左近とは盟友であったが意見を異にして左近は筒井家を去っていた。そして関ヶ原の合戦後、秀祐は家督を息子の秀政に譲り、隠居していた。しかし、一番家老であった松浦祐次の一派と対立しており、藩主の筒井定次はそれを押さえる力はなかった。両派の力関係は、中坊秀祐が家老の座を追われたことで決定的となっていたし、中坊秀祐は息子の秀政とともに松浦祐次が放つ刺客に狙われることが多かった。

 だが、中坊秀祐はそうした刺客をものともしない剛毅な性格で、関ヶ原の戦いでも、石田三成の甘言に誘われて筒井定次が徳川方を裏切ろうとしたとき、情勢を見極めて合戦が始まると同時に一千の兵を率いて三成軍を攻め、それによってかろうじて筒井家を救った経緯がある。だが、そのことで藩主の筒井定次との間は厳しいものとなっていた。なんとか生きのびることができた筒井家だったが、徳川家康は大阪城包囲網のために筒井家を取り潰して信頼のおける大名を伊賀上野に置きたいと思っていた。

 だが、藩主の筒井定次は藩政を松浦祐次に任せきりにし、狩りと酒宴、猟色にうつつを抜かし、それを諌める者を容赦なく追放した。藩内では、そういう定次を廃して八歳になる順定を藩主にする以外に筒井家の安泰を図る道がないと考える動きもあり、中坊秀祐の息子の秀政もそういう動きをしていたのである。本書は、そうした秀祐と秀政の親子の関係が描かれながら、秀政が謀反のかどで藩主の祐次に捕縛され、徳川側の大久保長安の策謀なども発覚していき、切腹を免れない状況になっていく過程が克明に記されていく。そこには中坊家を葬り去ろうとする松浦祐次の企みも働いていた。

 こんなことで息子の秀政を死なせてはならないと考えた中坊秀祐は、徳川家の策謀を伝えて捕縛された者たちの助命を図るが、藩主は話にならず、ついに決起して息子を救い出し、伊賀上野を出ていくのである。そして、残された親類縁者や中坊派の者たちを救うために、藩主の筒井定次がキリシタンを利用して密かに鉄砲を買い集めて徳川に弓を引くことを家康に訴えようとしたのである。

 先の「残された男」の場合も同じであるが、この頃の武士には、藩主や自分が仕える者がひどかったり頼りにならなかったりすれば、さっさとそれを見限って己の義を通そうとする気風が色濃く残っていた。封建制とはいえ、絶対君主ではなく、藩主と家臣との間も下克上で、そのために相手を見極めることが重要なこととされたのである。その代わり、一度信義を見出したなら決して裏切らないのも重要となり、それらが「武士の一分」を形成してきたのである。中坊秀祐は傲慢な人間だったと評されることが多いが、本書はまた別の違った視点で彼を描き出しているのである。

 「義によって」は、その表題のとおり、「武士の義」を貫こうとした話で、慶長17年(1614年)に越前福井藩で起こった通称「久世騒動(越前騒動ともいう)」に題材を採ったものである。

越前福井藩では、もともと藩祖である結城秀康(徳川家康の次男)の御付家老である本多富正を中心とする徳川系家臣団と今村盛次(掃部助)を中心とする新参の家臣団との間に軋轢があり、今村盛次は、もとは豊臣秀吉の側室「淀」の生家である浅井氏と同郷の近江京極家の譜代の出身で、徳川家に対しては複雑な感情を持っており、二代目藩主となった松平忠直も徳川本家に対しては反感を抱いていたので、今村派側に組みしていたと言われ、本多富正と共に藩政を動かしていた久世但馬の上意討ちを命じたのである。

事柄の発端は、かつて久世家の足軽をしていた平塚茂平が佐渡に出稼ぎに出て音信不通になっている間に、妻が再婚し、それに悋気を起こして、元妻と再婚相手を殺し、久世家に逃れてきたことによる。今村派であった町奉行の岡部自休は、当然のように犯人の引渡しに応じるが、「窮鳥懐に入れば猟師もこれを撃たず」で、犯人引渡しを否んだ久世家に対して、激しく対立していくのである(本書ではそのようになっているが、久世騒動の発端については諸説がある)。

ところが、この平塚茂平が出奔してしまい、久世家は故意に茂平を逃がしたのではないことを証明する必要に迫られ、本書の主人公となる大木十左衛門がその探索に当たることになる。大木十左衛門は本多富正の家臣で、久世但馬の孫娘と言い交わした仲にあった。

十左衛門は久世家の窮地を救うために茂平を捜すが、茂平は今村掃部の手の者によってさらわれており、この事件の背後にあることがわかっていくのである。そうしているうちに業を煮やした岡部自休が駿府の徳川家康に直訴しようとしたためにこれを捕らえ、藩内で評定が開かれた際に、藩主の忠直が、理は岡部にあり、として久世但馬に謹慎を命じたのである(別説では、対立していた久世家と岡部の仲裁に本多富正が入り、岡部自休を納得させようとしたが、納得できない岡部自休が今村掃部に相談し、かねてから本多富正を排除しようとしていた今村掃部が、藩主忠直の母や兄の思惑もあって、この機に本多富正を窮地に陥れようと画策したというのもある)。

本作では、犯人の平塚茂平を今村掃部の家臣がそそのかして、久世家に逃げ込み、折を見て姿をくらませと勧めたとされ、茂平が十左衛門に発見されようとすると、その茂平を殺したという展開になっていく。こうして久世家の非理を証明する証人がなくなり、城中では、久世但馬を支持していた竹嶋周防守を押し込めて、久世但馬の切腹の見届け人を本多富正が命じられるのである。

久世但馬はこの処断に納得がいかず、これは君側の奸臣の策謀であり、いかに主命とはいえ、これに従っては武士の一分が立たないと蜂起するのである。そして、本多富正に久世但馬を討つことの命がくだされたのである。久世屋敷を囲んだ本多富正の軍の中には大木十左衛門もいたが、久世但馬の孫娘と言い交わした中であり、どう考えても義は久世但馬にあると、彼はひとり久世但馬のもとに行き、軍勢と戦うのである。

本多富正は久世但馬を討つことの非をよく知っていたためになかなか攻撃をしなかったが、後ろから鉄砲を討ちかけられるというひどい仕打ちを天守閣から見物していた今村掃部や藩主にされる事態となったのである。

この戦で、久世親子は屋敷に火をかけ自害し、久世家の一族を始め約150人が全員死亡となり、本多富正も負傷する。そして、やがてこれを幕府が知ることとなり、家康と秀忠の前で採決され、富正側にはお咎めなし、今村掃部には追放、岡部自休には死罪が申し渡されている。

本書は、義のために、そして愛する者のためにあえて死中に行った大木十左衛門の姿を描いたもので、それが「武士の一分」であることを記すのである。

少し長くなったので、以下は簡略に記すが、「金沢城嵐の間」は、慶長7年(1602年)に金沢城本丸御殿で二代目藩主の前田利長の命によって家老の横山長知らによって誅殺された筆頭家老太田但馬守長知を主人公にして、その事件の顛末を語ったものである。

太田長知は前藩主前田利家の妻であった「おまつ」の甥で、利長の義兄にあたり、利家の小姓であった時から猛勇を謳われる武将であり、利家は豊臣秀吉の恩顧の家臣で、秀吉亡き後も徳川家康に唯一押さえが効く人物で、太田長知もどちらかと言えば豊臣家に傾いていたが、加賀前田家は、利長の時代から次第に徳川家康に恭順を示すようになっていった。この誅殺事件には、そうした背景があり、表向きの誅殺の理由は、太田長友が前田利長の愛妾との密通をしたということで、後日、愛妾の「おいま」は目をえぐられて斬首されるという酷い刑に処せられているが、後に家中では利長憑依説が出るほどで、徳川か豊臣かの二者択一を迫られる状況が生んだ悲劇と言えるかもしれない。

太田長知は、剛の者らしく、城中で斬りかかった者ら数名を斬り殺し、誅殺した横山長知も危うく突き殺されるほどで、その死の様は、まことに戦国武将らしくあっぱれなものであったと語り継がれている。本書は、そうした壮絶な非業の死を遂げた太田長知を描き出したものである。

「萩城の石」は、関ヶ原の戦いの後に長州に減封された毛利家の姿を描いたもので、萩に新しく城を作ることになり、その城門の石垣建造にあたっても藩内の勢力争いが起こり、無理難題をふっかけて自己の勢力を拡大しようとした者に対して、武士らしく「義」を貫いっていった男の話である。

「生きすぎたりや」は、この短編集の中でも少し毛色が変わり、「戦うこと」を自分の信条として生きてきた女性である「花江」が、主人の姿に飽き足らずに「武」を誇るものと浮気をしたりするが、結局、彼女の浮気相手だった「武」を誇る者が、ただの表面的な人間であり、不足を感じていた主人が、藩政においても、夫婦のあり方においても、一筋さを貫いていく人物であることに気づいていく話である。

細川忠興が関ヶ原の功によって豊前・豊後の三十九万石を与えられ、中津藩の藩主となった時代であり、細川家の世継ぎ問題に絡んで、英邁の誉れ高い興秋ではなく、徳川家の意を受けた忠利を後継者にするようにとの幕府の要請をはねのけようとした長岡宗信の姿を、その妻女の側から描いたものである。

ここに収められている短編は、すべて、江戸初期の戦国の混沌がまだ残る中での人の一途な生き方を描いたもので、読み応えのあるものだった。諸説があったり、異なった人物評があったりする中で、「武士の義」と「武士の一分」という視点でそれぞれが描かれ、多くの示唆を与えてくれるものであった。歴史・時代小説の短編もこういう作品はいいと思う。珠玉の作品である。

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